(2011.08.20訪問)
久々の京都は雨でした。一連の京都市評価下落の涙雨でしょうか。朝、大阪を出
るときから空は怪しかったのですが、広隆寺拝観を終え、サア次はというところ
で降り出しました。
[ 広隆寺 ] こうりゅうじ
●山号 蜂岡山(はちおかさん)
●寺号 広隆寺(こうりゅうじ)
●宗派 真言宗
●開山 聖徳太子
●開基 秦河勝
●創建 推古天皇11年(603年) 異説 推古天皇30年(622年)
●本尊 聖徳太子像
▼寺名石標。
広隆寺縁起
日本書紀に曰く、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があ
るが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるかと諸臣に問うたところ、秦河勝が、
この仏像を譲り受け、広隆寺の前身蜂岡寺を建立したという。この本尊が著名な
弥勒菩薩半跏思惟像であるといわれています。
蜂岡寺創建当初からこの地にあったかは不詳で、7世紀前半に今の京都市北区平
野神社付近に創建され、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力だそう
です。
▼南大門。嵐電太秦広隆寺駅前三条通に面してこの門がどっしり構えています。
▼南大門阿形金剛力士。
▼南大門吽形金剛力士。
▼うずまさ聖徳皇太子殿の石標。
▼薬師堂。南大門を入ってすぐ左に建っています。
▼講堂(重文)。
京都最古の木造建造物。正面5間、側面4間、寄棟造、本瓦葺き。平安時代永万元
年(1165年)再建。
本尊は阿弥陀三尊形式をとっていますが、脇侍は通常の観音、勢至菩薩ではなく、
珍しいトリオです。内柱が丹塗りであることから赤堂とも呼ばれているらしいで
すがボクの目には全く丹には見えませんでした。
▼講堂本尊 中尊阿弥陀如来坐像(国宝)。
像高261.5cm。承和年間(840年頃)の作。印相は上品中生の説法印。
二重ネットの外からの拝見なので相当須弥壇までの距離があるので、像高ほどの
大きさは感じません。漆箔は所々残り安定感抜群のお像です。光背は二重円光背、
後補だと思いますがよく輝いています。
▼左脇侍 地蔵菩薩坐像(重文)。
▼右脇侍 虚空蔵菩薩坐像(重文)。
▼井戸舎。手水舎ですが、導水は井戸からの汲み上げです。
▼太秦殿。
秦氏名残りの漢織女(あやはとりめ)、呉秦女(くれはとりめ)、太秦明神を祀ってい
ます。
▼上宮王院太子殿(本堂)。
入母屋造、檜皮葺き。享保15年(1730年)建立。
本尊 木造聖徳太子立像 像高148cm。元永3年(1120年)仏師頼範刻。
▼上宮王院太子殿扁額。
大悲救世と以和為貴の扁額が揮毫。
▼上宮王院太子殿須弥壇の荘厳。
奥のお厨子に本尊木造聖徳太子立像が祀られています。
▼鐘楼。
▼鐘楼基礎木の経時魅力。
▼新霊宝殿前の蓮池。
▼最後の力をふりしぼるかのように健気に咲く蓮花。
この蓮花を撮ってるときに降り出してくれたら、蓮の葉に水玉があれば……。
別にイイんです、花を撮りにお寺に来てませんから。
▼新霊宝殿に安置されている国宝第1号。弥勒菩薩半跏思惟像(通称宝冠弥勒)が
蜂岡寺当初の本尊といわれていますが、もう一体の弥勒菩薩半跏思惟像(通称泣
き弥勒)との本家争いも異説としてあるそうです。
数年前に描きました弥勒菩薩半跏思惟像(通称宝冠弥勒)のお顔ペン画です。
飛鳥時代の山城国と聖徳太子、聖徳太子と秦河勝との関係とは、若かりし日の聖
徳太子の好戦的な面が蘇我氏ではなく秦一族への接近があったのでは。蜂岡寺開
基秦河勝と秦一族とは、いったいどのような氏族だったのでしょう。応仁期に来
朝した秦一族、この山城の地を与えられて先進の大陸文化を我が国に伝え、この
太秦の地を産業と文化の中心として、平安遷都にはその一大勢力と経済力を駆使
し、理想の都造りに尽力したと史書は伝えますが、大きな勢力のわりには登場す
る秦氏の具体的な氏名の記述は数人のみといい、幻の氏族といえそうですね。