土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

巨勢万葉古道越智の丘、光雲禅寺を訪ねました。

2011年01月19日 | 奈良の古寺巡り


(2011.01.15 訪問)
吉祥草寺から数分走ればお隣高取町です。曽我川沿いを北に200mほど右手小高い
丘にお寺の甍が見えます。小道をはいってスグのところに駐車場があり、厄除け
杉にチョット挨拶をし、地道の参道を行きます。
ここ越智の丘から東に丘陵を超えると明日香村。この地域は葛城から御所、高取、
明日香、南に行くと吉野と奈良の古代がギッシリ詰まった宝物のような土地。歴
史ファンならずとも魅力一杯のワクワクするところですが、
今日のお天気…さ い あ く。

▼本堂偏額。



[ 光雲禅寺 ] こううんぜんじ
●山号 越智山(おちさん)
●寺号 光雲禅寺(こううんぜんじ)
●宗派 黄檗宗
●創建 越智邦澄
●開基 義天玄紹
●再興 鉄牛
●本尊 釈迦如来座像 脇侍 文殊菩薩立像

光雲禅寺縁起
南北朝時代1346年に、当主越智邦澄が菩提寺として禅宗寺院を建立したのが初と
伝わり、間、盛衰を繰り返し、室町初期に大徳寺の高僧義天玄紹が再興、その後
の戦乱で衰亡、江戸初期黄檗宗祖隠元禅師法孫鉄牛が再興、ほぼその寺景が現在
に保たれているとのことです。

▼寺標。



▼厄除け杉。



寺標後ろには、厄除け杉と称する高さ15m、幹の周り5.2m、樹齢は1000年とい
う杉の古木がドンと控えています。由緒ある杉で、明日香の岡寺の星祭には、この
杉の枝が厄払いの行事に使われているそうです。

▼参道。
地道の参道、敷石にないイイ感じ。



▼竹生け垣。
山門少し手前に竹生け垣が続きます。屋根部分の苔がいい雰囲気をかもしています。



▼山門。
こぶりではありますが重厚な鐘楼門、二層鐘楼層に越智山の偏額が。



▼境内からの山門。



▼本堂。
本尊 釈迦如来座像 脇侍 文殊菩薩立像。
お堂は二層の構造で、特に上層の屋根の反りと鮪の形は、城郭の天守ような感じ
がします。これも武家発想の結果でしょうか。
しっくい壁と柱と窓との抜群のコンビネーションが見事です。



▼高台から見た本堂。



▼本堂正面扉と偏額。
光雲寺と揮毫されています。



▼本堂壁面の窓。
こんなのは初めて。これも花頭窓と云うのでしょうか。



▼放生池。
本堂横後ろに放生池、水面には水草がけっこうガンバっています。



▼高取城の瓦。
明治期、高取城廃城で使用されていた瓦が社寺や各氏邸宅で再使用されたと云い
ます。旧高取城は越智氏の築城だそうで光雲禅寺は高取藩とも縁が深いお寺なん
です。



▼みちしるべ。



▼越智一族の墓所。
境内横少し高台に十三重石塔をはじめ、五輪塔が並んでいます。



▼斉明天皇陵への道。
越智一族の墓所裏手から斉明天皇陵への道がついていますが、御覧のように濡れ
枯れ葉がビッシリ。道も定かではありませんが五分ほど歩いてスッテンコロリで
ギブアップ。



ところで昨秋、明日香の牽牛子塚古墳で八角形石敷の一部が見つかり、斉明陵で
はと大々的にニュースになりました。出土物や天皇と娘の間人皇女の合葬墓であ
るらしいことなどから、牽牛子塚古墳が斉明天皇陵ではないかとの見解がどうも
多いようです。ではこちらはどなたのお墓なんでしょうネ。

後の祭りでした。茅原の吉祥草寺。

2011年01月17日 | 奈良の古寺巡り


(2011.01.15 訪問)
14日の茅原吉祥草寺大トンド、今年こそ行くつもりでしたが事務所脱出に失敗。
翌土曜日、天候的には最悪、しかし行かねばなるまい「土曜日は古寺を歩こう」
雨、みぞれ、雪の中葛城古道櫛羅から東へ、茅原の吉祥草寺を訪ねました。
まさに後の祭り…。
昨日の喧騒は夢の中?吉祥草寺の参拝者はさすがボク一人でした。

▼本堂偏額。



[ 吉祥草寺 ] きっしょうそうじ
●山号 茅原山(ちはらさん)
●院号 金剛寿院(こんごうじゅいん)
●寺号 吉祥草寺(きっしょうそうじ)
●宗派 本山修験宗 大本山
●創建 舒明天皇 
●開基 役行者( 役小角)
●本尊 五大明王

吉祥草寺縁起
茅原の地は修験道開祖、役行者の出生地とされ、西の葛城山系は、役行者の修行
場、葛城修験の舞台となったところ、創建は舒明天皇と伝えられ、役行者縁りの
名刹として隆盛を誇り、平安時代理源大師聖宝が勅を奉じてお寺を再建したと伝
えます。ところが戦乱の南北朝時代の兵火によって悉く焼失、室町初期に再建さ
れたと伝えています。

▼山門。



▼鐘楼。



▼本堂。
本堂は焼失後の室町初期再建と伝え、護摩札に寛文五年(1665年)の墨書きによ
り、このころ改築されたそうです。



▼本堂本尊。不動明王坐像。
左右に四体の明王が祀られています。





▼本堂前の14日の左義長、茅原大トンドの痕。
本堂前の大トンドの痕が盛り土できれいにされていました。奥は観音堂。



▼14日に行われた茅原大トンド。
この写真は、地元奈良を中心に撮影されている「週末写歩」さんのブログから臨
場感タップリの写真をお借りしました。



▼本堂横、護摩行の名残も。



▼観音堂。
本尊 十一面千手観音立像。薄暗いお堂の中、眈々のお目にグッときました。
本尊は役行者の母堂、白専女本地仏の由緒があるそうです。





▼役行者産湯の井戸。
境内の一角には産湯の井戸がのこされています。



▼鎮守社熊野権現の鳥居。



▼熊野権現拝殿から本殿。



▼熊野権現本殿。



▼境内切り株から新しい命。
熊野権現本殿前に1m位の朽ちた切り株に若芽が。



▼真新しいお百度石。



吉祥草寺のHPに、
「開山堂には、等身を超える木造の役行者倚像・前後鬼坐像を祀り、これは恐ら
く本堂が改築された江戸初期の作と考えられます。この役行者像は顎髭がなく、
若き日の役小角の姿を写した珍しい像で、同じく堂内に祀る木造役行者母公坐像
も、他に遺品の少ない貴重な作例です。」
とありますが、開山堂なる堂宇はどこにもありません。よって肝心の役行者像は
拝見出来ませんでした。

開山堂と役行者はどこへ行ったのでしょうか。ボク達HPが頼りなんですが。
寺務所に寄ればよかったんですが、雨が強くなりました。
次の高取の光雲禅寺へ続きますのですよ。

獅子から降りた文殊さんに会いに、安倍文殊院を訪ねました。

2011年01月14日 | 奈良の古寺巡り


(2011.01.08 訪問)
安倍文殊院の訪問は実は初めてなんです。
「獅子から降りた文殊様」というキャッチフレーズで遷都祭の特別公開期間が延
長され、今月25日(火)まで公開されていますので、この日訪ねてみました。

[ 安倍文殊院 ] あべのもんじゅいん
●山号 安倍山(あべさん)
●院号 文殊院(もんじゅいん)
●寺号 崇敬寺(そうけいじ) 通称「安倍の文殊さん」
●宗派 華厳宗別格本山
●開基 安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)
●本尊 文殊菩薩騎獅像(重文)

安倍文殊院縁起
大化の新政府左大臣、安倍倉梯麻呂が一族の氏寺として建立した安倍寺が初。
安倍寺は法隆寺式伽藍配置の壮大なお寺だったらしいのですが、談山僧兵の焼き
打ちで全山消滅、今の文殊院地にあった別院に統合されたと伝わるそうです。
名家安倍家は、倉梯麻呂を筆頭に安倍比羅夫、安倍仲麻呂、安倍継麻呂、安倍晴
明と歴史に名を成す人々を輩出。陰陽師としての安倍晴明は「文殊菩薩の化身」
として崇められ、魔よけ祈祷の寺と信仰が広まったといいます。今の本尊文殊菩
薩騎獅像が仏師快慶により造像されたと伝えられ、その信仰が今に連綿と続いて
いるようです。

▼山門。



▼参道。



▼本堂。



「獅子から降りた文殊様」をじっくり拝見するとやはりどこかおかしい、本来あ
るべき姿ではない姿をボク達は見ているわけで、しかも文殊さんはへんな木製台
に半伽椅座。後ろに獅子が置かれています。当然一体として見ることは出来ませ
ん。文殊さんのお顔がよく見えるようにと、お寺の余計な親切でしょうが、それ
なら本来の姿のまま前方床へ移動したら済むのではないですか。
と思ったのはボクだけでしょうか。

▼釈迦堂と本尊釈迦三尊。
釈迦堂は本堂と棟続きのお堂です。





▼仲麻呂堂(金閣浮御堂)。
文殊池に浮かぶ美しいお堂です。
安倍一族の供養堂。本尊開運弁財天、仲麻呂、晴明像を祀っています。



▼仲麻呂望郷の歌碑。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
昨年亡くなられた榊莫山さんの揮毫で、仲麻呂が遠く長安から詠んだ歌です。



▼鐘楼。
撞き放題みたいで皆さん頑張ってました。



▼不動堂。
本尊不動明王、護摩行が行われるそうです。



▼稲荷社。
安倍晴明と何か関係がある「くずは稲荷」



▼白山堂。
安倍文殊院鎮守社で縁結びの神様。



▼晴明堂。
安倍晴明天文観測の旧地に建ち、魔よけ、方位よけのご利益があるそうです。



▼展望台から花の広場。
今年の干支、卯年にちなみウサギのジャンボ花絵。



相当人気のお寺のようです。ぼけ封じ祈願霊場と云うことでご年配の方々の参拝
が多く、本堂内での祈祷も盛大でした。
境内はやたら朱色の建物が多く、お寺なのか神社なのか、晴明さんの影響の強い
お寺なんでしょう。

一日に五寺も巡るとブログ制作が大変ですわ。
とりあえず新春第一弾!明日香巡りはこれで お し ま い !

 

蘇我倉山田石川麻呂怨念の寺、山田寺の今は。

2011年01月14日 | 奈良の古寺巡り


(2011.01.08 訪問)

橘寺から山田道に戻り桜井方面に、飛鳥資料館のすぐ近くに山田寺跡があります。
1982年世紀の大発見、山田寺跡発掘調査で、東回廊の土中から倒れた回廊の柱、
連子窓、蓮弁付きの礎石がほぼ完全な状態で発見されました。遺構ではありませ
ん、回廊そのものが発掘されたんです。大ニュースでした。覚えている方も居ら
れるでしょう。現在飛鳥資料館に再現されています。

▼発掘された東回廊



蘇我家傍流の倉山田石川麻呂を有名にしたのは、乙巳の変での上表文代読の功が、
蘇我本宗家が滅亡する大きな要因になったことと改新政府の右大臣に抜擢された
ことが特記されます。その倉山田石川麻呂により建設が開始されたのが山田寺です。
倉山田石川麻呂の栄華も五年と続かず、身内の讒言で身の潔白を念じつつ金堂前で
自害、その後、潔白は証明されましたが伽藍の完成には、42年の歳月を要したと
伝わります。

[ 山田寺 ] やまだでら
●山号 大化山(たいかさん)
●寺号 山田寺(やまだでら)
●宗派 法相宗
●開基 倉山田石川麻呂
●本尊 十一面観音立像
山田寺は明治の悪法、廃仏毀釈で一時廃寺、明治25年(1892年)に再興。

▼講堂跡に建つ史蹟山田寺跡の石標。
後方に見えるのが伽藍跡です。



▼南から北方向。中門跡から塔跡基壇。



▼西回廊跡から東方向。右塔跡基壇、左金堂基壇。



▼東から西方向、南回廊と中門跡。



▼東回廊の発掘場所。



▼今の山田寺の唯一のお堂、観音堂。他に庫裡が一棟。



▼整備された寺跡に伽藍復元図と説明案内の石碑。



▼興福寺の仏頭。
南都焼打のどさくさに乗じて興福寺僧兵が山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪、
興福寺東金堂の本尊に据えた話は史実らしく、今興福寺国宝館に展示されている
国宝仏頭はこの本尊丈六の薬師如来の頭部だと伝えています。
数年前に描いたペン画の仏頭です。



中大兄皇子を巡る血なまぐさい相伐の数々、その一端に連なった倉山田石川麻呂、
悲劇と怨念の人は1362年後の今、泉下でこの広大な栄華のあとをどんな思いで見
ているのでしょう。

安倍文殊院につづきます。


聖徳太子縁の橘寺を訪ねました。

2011年01月13日 | 奈良の古寺巡り


(2010.12.25 訪問)

▼橘寺遠景。
明日香のメイン道路、県道155号線沿い道路をはさんで北に川原寺跡、南に聖徳
太子建立七大寺の一つ、橘寺が在ります。白壁の築地塀が一直線に伸び、初秋の
真っ赤な彼岸花の写真でお目にかかることの多いこの地は、今冬の状景が開けて
います。田圃の稲の苅り跡が寒々しい気がしますが。



▼川原寺遠景。



[ 橘寺 ] たちばなでら
●山号 仏頭山(ぶっとうさん)
●院号 上宮皇院(じょうぐうおういん)
●寺号 橘寺(たちばなでら)
●宗派 天台宗 直末
●開基 聖徳太子
●本尊 聖徳太子像(重文)

橘寺縁起
寺伝では、574年聖徳太子出生地とされる伝承があり、太子居住の上宮があっ
たともいわれ、太子の推古天皇への勝鬘経講説のおり、いろんな慶事がおこり天
皇勅でこの地に尼寺を建立したのが橘寺の始まりとされている説があるそうです。
勝鬘経は天竺王の娘、勝鬘夫人が説いた経典といわれ、短絡ですが尼寺を建立し
たという伝えは単なる伝承の域は越えているのかも知れませんね。

▼橘寺寺標。
県道155号沿いに建つ寺標。聖徳太子御誕生所と刻されています。



▼参道。
正式な参道は東門(正門)側、この道は西門に続く農道だと思います。



▼西門。
通常こちらからの入山になります。



▼手水舎。



▼本堂(太子殿)。
お堂としては新しく1864年に再建された建物です。
本尊聖徳太子像(重文)は室町時代の作。太子35歳時、推古天皇への勝鬘経講讃
の姿を映したものと伝わるそうです。内陣には、太子像の他に伝教大師像、不動
明王像や釈迦誕生仏、聖徳太子十六歳像なども祀られています。



▼本堂偏額。
太子殿と揮毫されています。



▼東門から本堂。



▼太子愛馬の黒駒像。
今も僅かに残る太子道を黒駒に跨がり、飛鳥と斑鳩を行き来する太子は時の世情
をどうしたかったのでしょうか。



▼放生池。
橋を挟んで東西に大きな池が在りますが、この日は両面ともビッシリ凍っていま
した。



▼観音堂と本尊、如意輪観音坐像。(重文)
如意輪観音坐像は藤原時代の作。
密教儀軌通りの像造作法に見えますが細部がハッキリとはわかりません。しかし
堂々の像形、如意輪観音さんとしてはかなり大きい像高です。





▼護摩堂。
五大明王像が祀られています。護摩行執行でしょうか堂内は煤汚染です。堂内護
摩行は迫力あるでしょうね。



▼経堂と本尊、阿弥陀如来坐像。
比較的新しそうな本尊は、如来の柔和なお顔そのもの、なぜか気持ちがホッとし
ます。





▼鐘楼。
実は鐘楼となりに塔跡の心礎が残っていますが、見るのを忘れました。



▼阿字池。



▼境内からの東門。
左に写る桜はその季節見事な枝振りを見せますよ。



▼東門。
実はこちらが正門です。お寺の正門には珍しく狛犬が左右に控えています。



このお寺は現在、聖徳太子信仰が前面に出ていますが、天台宗のお寺です。各お
堂のご本尊が多宗にわたりハッキリ言って聖徳太子はお像のみ、太子への強い信
仰を感じることは出来ません。元は法相宗だったと云いますが残念ながら各宗い
いとこどりの観光寺院という印象のお寺でした。

これから山田道を走ります。