塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

中村憲剛の実直さを探る

2020-11-01 21:18:20 | 日記
 中村憲剛は練習生として2003年、中央大学から川崎フロンターレに入団しました。

 彼が入団当初、どのブランドのスパイクを履いていたのか、僕は知らないのですが現在は既に、ミズノ・モレリアという印象が定着しています。

 僕が中村憲剛という選手、人間性を考慮するうえで、クラブもスパイクも変更しなかったことは大きな要素と思います。

 律儀で他人の恩情を忘れない
 一度気に入ったものは、丁寧に愛用し続ける

 今は盛んに「持続性」「サスティナブル」という言葉が闊歩していますが、彼からすれば

 「僕は昔からずっとそうだよ」
 「スパイクだろうが何だろうが、大切にしないといけないから」

 という気持ちではないでしょうか。

 そのフロンターレはミズノ契約選手が特に目立ち、田中碧もモレリアの契約選手になりました。

 ミズノの担当者からすれば、中村と家長が優勝、そしてリーグMVPに輝いた瞬間は、本当に心から祝福し嬉しくて嬉しくて仕方が無かったに違いありません。

 モレリアはベストセラーですし、世界中で認知されていますが、スパイクも世界も競争です。

 ナイキならばマーキュリアル
 アディダスならばプレデター
 アンブロならばアクセレレイター

 というように、時代に見合う価格、性能、デザインを常に纏い市場に投入され、モレリアのように何も変わらないことはむしろ、異質の存在ですから。

 それでも中村は常にモレリアとフロンターレの顔、象徴であり続けました。

 今フロンターレは三苫の存在が非常に大きくなっていますが(サッカーマガジンは彼を表紙に起用しましたね)、プーマを履いています。

 中村以後のミズノを背負うならば、このフロンターレの後輩は実に魅力的だと思うのですが、アプローチはあるでしょうか。
 
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僕が考えたフロンターレの歩んできた道

2020-11-01 20:49:57 | 日記
 時代が時代なら、中村憲剛も海外に巣立っていたでしょう。

 ジュビロ磐田に移籍した遠藤保仁があれだけガンバ大阪に貢献できたのは、現在のようにJ1在籍の有力選手、日本代表選手たちが欧州のスカウト網に入っていなかったためです。

 ファンにとってはある意味

 「幸福な時代」
 「旗頭のプレイを目に焼き付けることができた」

 最後の時期だったと言えます。

 遠藤保仁にはリバプールが獲得を希望している、という報道があったと思いますが、彼はガンバに留まり続け2014年の3冠に大きな貢献を果たします。

 フロンターレの2017、18シーズンのJ1連覇も中村にとっては大きな喜びだったはずです。

 風間体制では良い順位ではあるが優勝には程遠い
 2009年のナビスコカップも準優勝
 その表彰式で選手たちが礼節に欠ける行為でひんしゅくを買う

 というように、フロンターレは必ずしも、今の地位が簡単に入手できたわけではありません。

 関塚監督がロンドン五輪代表監督としてクラブを去る
 ジュニーニョにマギヌン、チョン・テセなど有力外国籍選手の移籍
 
 など、中村以外の主力が入れ替わる頻度も多かった印象を受けます。

 恐らく彼にとって大きかったのは、小林悠の成長とアルディージャから移籍してきた家長の存在ではないでしょうか。

 自分と同じ視点でサッカーを描ける同僚の存在が、中村のやる気をさらに促したことは間違いないでしょう。

 さて、フロンターレは来季、中村がいないシーズンを初めて送りますが、首脳陣はこの穴をどう埋めるべきか。

 戦術で補う
 下部組織や海外選手の獲得で層を厚くする

 など方法を多々ありますが、一番避けるのは純粋に中村の後継者を探し「続ける」ことで、ユヴェントスはプラティニの幻影に惑わされ続けた、これは有名ですよね。

 家長も現在34歳と、仮に怪我が重ければ治癒に時間がかかる年齢です。

 来季は本当にフロンターレの総合力のシーズンと言えそうです。
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