
【按語】本案の病機は(肝)陰虚内燥である。
肝は目に開竅し,肝腎は同源であり,肝木は腎水の滋養に頼る。
本例の患者は肝腎陰虚に因って,肝血が不足し,目は其の所養を失ったのである;
陰虚すれば熱を生じ,血虚すれば燥を生じ,血燥は風を生じたからである。
腎には虚証が多く,肝には実証が多いが,肝虚者の多くは補腎をしなければならない,
いわゆる“滋水涵木”の理りである。
故に滋腎養肝、益陰補血を用いて其の本を治し,
清熱祛風を用いて其の標を治す。
処方は杞菊地黄丸合一貫煎加減とした。
肝木が能く腎水の滋養を得れば,目は肝の養を得て,
陰が復し血燥は除かれ,諸証は悉く退く。
http://youjyodo.cocolog-nifty.com/kimagure/2012/03/post-b057.html
※ドライアイ治験, 済川煎, 目得血而視
谿声山色
2022-06-01 | 日記

カラスが空から阿呆、阿呆と言うが腹も立たない。
人から阿呆、阿呆と言われると忽ち怒りが生じる。
声に意味を詮索するのは人の常、法は只音を伝う。
無情説法の仏の声は、未だ意味の解釈が及ばぬ処。
意味は文字の論理の上に立ち、法は文字に立たず。
意味の門から入るは学問、不二の門に意味は無い。
人の音声は見解に立ち、仏の音声は無理会に響く。
法は事実の儘に現成し、人は解釈上に答えを求む。
想念の内に答えを探す時、自ら起こす想いに迷う。
想念は相対ゆえ、自ら掴んだ想いを縁に輪廻する。
堂々巡りは人の念処の闇、法は二念を継がぬ只今。
空を悟らぬ思考の猿は、相対の雲で過去を彷徨う。
想念は只今の縁起生ゆえ、人の支配する処に非ず。
縁に生じ滅す如是念に是非なく、法は揀択を嫌う。
愛憎の念を留めぬ処は、自ら念への執着を離れる。
執着の滅す処は、応無所住而生其心、既知脱落底。
意味の詮索が止む処は、無用な思考の喧騒も去る。
涅槃寂静は思考の寂滅、既知の成仏に他ならない。
見解の上に立つのは人の道、無理会に立つは仏道。
分からない処に覚し、分からない儘の腑に落ちる。
両手の打掌に片手の音を聞き、無理会の処に成仏。
知る者は知らず、分かる者は分からぬ未知の只今。
一言半句は既に理会の懐、法は一毫の教えも無い。
間尺の無い処に眺める己を忘じ、他に瞞ぜられず。
※事実に残り物なし文字は仮初の方便ゆえ捨ててこそ
『 山は流れ水は流れない 』という所から
仏道を学び始めなさい。 道元
http://www.dogen-shobogenzo.com/keiseisansiki2.html
『 世の中に雪ほど黒いものはない 』 義衍
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-651.htm
(耳)ここから聞いたら、すっと逃がしなさい。
目に触れても、そのままにしなさい。業識はそのまんまで、
知と意で扱いさえしなければ、いつでもゼロのはずである。
そのこと、それを教えておる。
http://awarenessism.jp/?page_id=13717

https://twitter.com/giengoroku
(打掌して)「ポン」これが耳に任せたという状況です。
「ポン」これは耳に任せているということです。
音がするだけです。
六感を開放して、六感の作用がどうあろうとも一切かまわず、
一々そのときそのときの作用のまんまに、
煩悩らしい作用が起きようが、立派そうなものが起きようが、
かまわないことです。
只管打坐というのは、今の自分の事実を言っているんです。
今の自分の事実、「足が痛い」「苦しい」等、
全部を只管打坐と言うんです。