天つ日の まぶしきほどに はねかへり 死ぬばかりなる 白樺の森
*これは、賢治への返歌で百合が詠った歌のひとつですね。中でも出色だと思ったのであげてみました。対象の賢治の歌はこれです。
われもまた白樺となりねぢれたるうでをささげてひたいのらなん
わたしもまた白樺の木となりねじれた腕を捧げてひたに祈りたい。
「なん(なむ)」は他にあつらえのぞむ終助詞で、~してほしいなどと訳しますが、この場合は自分の意思を表すのでしょう。わたしがわたしに望んでいるという感じです。
毎日賢治への返歌では、一首に対して三首を返すようにしています。一首だけでは物足りないような気がするらしい。一と三というのは、王数です。王と人民を表わす数字。一はたったひとりの王を表わし、三というのは、民衆の最も少ない数なのです。
二ではないんですよ。一応解説しておきますが。二というのは対立という意味が生じますから、まだ多数には発展しないのです。集団の最低の数は、三です。ここらへんはきっちり解説しておくのがわたし流です。
つまりは、一首に三首を返すということは、元歌の詠み手を王に仮託して、自分を臣下に下げて歌うということです。なかなかに深い。
宮沢賢治はそうしてもいいほど、すばらしい歌をたくさん歌っています。
表題の歌はこういう意味ですね。
太陽がまぶしいほどに跳ね返り、死ぬほど耐えられないと感じる、白樺の森のまぶしさだ。
白樺は幹が白く、それが森に並んで立っている姿は神聖さを感じさせるほどです。そこにまぶしい日が射していたら、時に堪えられないと思うほど、打たれることもあるでしょう。
わたしたちが今いるこの街では白樺など見ることはできませんが、写真で見ると、それはみごとに美しい。他の木とは違う何かを漂わせています。
賢治もまたその姿に、尊いものに必死に祈りを捧げているような、清い存在の気配を感じたものでしょう。