はなみずき 花を見ずとも 木を知れば 冬枯れの枝も 清きとぞ見る
*これはすぐにわかるでしょう。「はなみずき」が序詞になっています。しゃれで、「花を見ず」を呼んでいる、その後の、「木」にも流れていき、実にここちよい。日本語のこういう遊びはおもしろいですね。
添島のブログでは、英訳古今なども扱っていますし、実際わたしたちが詠んでいる歌も、たくさん翻訳されているでしょうが、この歌の訳などはむずかしいでしょうね。どうやって訳したものか。一度くらい見せて欲しいものだ。
いつまでもごまかすことはできませんよ。傷ができるだけ小さいうちになんとかしたほうがいい。
それはそれとして、表題の歌はこういう意味です。
春に咲くはなみずきの花ではないが、花を見ないでも、その木が何の木かということを知っていれば、冬枯れの寂しい枝も、清らかに美しく見ることができる。
「枝」は「え」と読みましょうね。間違いはしないと思いますが、一応。
はなみずきの花がどんな花かということを知っている人はたくさんいるでしょう。春の桜の花が咲き終わる頃に咲き始める。白や赤などの色があって、さかりの時はとても美しい。この近くにも、庭にはなみずきの木がある廃屋がありますが、毎年必ず見に行っています。
しかしはなみずきというのは、冬の季節というのは実も花も葉もなくて、それはさびしいのです。灰色の枝ばかりで、まるで枯れているのではないかとさえ思えることがある。知らない人は、見向きもしません。
ですが春ともなると、信じられぬほど清らかな美しい花を咲かせるのだ。それを知っている人なら、冬枯れの枝も美しく見ることができる。その木がどんな木かとうことを知っていれば。
人間も同じです。見栄えは不細工でも、その人の心がどんなものかを知っていれば、美しく見えるものだ。みんな、もうそろそろ、そういう段階に入るのです。
見栄えではない、本当の心の姿を見る。そういう段階の勉強に、人類は入っていくのです。