よしのがは 岸辺に立ちて ひろびろと あをきみづみる をさななる頃
*かのじょは吉野川という大きな川のそばで育ちました。小さな頃はその川を毎日のように見に行った。川幅の太い下流の岸辺で、その水の広いことを、まるで海のようだと思っていた。
それがこの人生の幼いころの記憶に穿たれている。
青城澄という名前は、この記憶から発しています。吉野川の水があまりにきれいで、青く澄んでいたのです。その青さがずっと心に染みついている。
空を見ればそこも青く澄んでいる。痛いことばかりある人生の中で、あの人は空を見ながら自分の心を洗っていた。
だれにも本当の心を理解してくれない世界にいて、空にいるだれかだけは、自分を理解してくれていると思っていた。
それは確かに当たっていました。見えない世界にいるわたしたちも、また空からあの人を見ていた神も、あの人の心を知っていた。
真心だけで、人を救おうとしていたことを。
それはまるで、空のように青く澄んでいる心でした。
ふるさとの山河というものは、人間の一生を導いたりするものだ。山の形や、海の色や、季節の移り変わり、環境の中で遊んだ子供のころの記憶。時々に思い出す。かのじょは自分は異世界の人間ではないかという思いを常に抱いていたが、自分の生まれたところには、深い思いを抱いていた。
かなしいことの多かったところでしたが。
夢のようでもあった人生を終えて、いま眠っているかのじょはもう、その山河のことを覚えてはいない。ただ、夢の中で、犬とくすのきと一緒に遊べるひとひらの野だけは残っている。
あそこで、いつも空を見て、神の目を感じていたことだけは、かすかに残っている。
川のことは、ただただ青いものとして、ただよっているだけです。
美しい川だった。日の光が川面に散って輝いているときなど、かのじょは目を見はって見ていた。
何もかも忘れなければならないほど、悲しいことになるとは、あのころのあのひとは思いもしていなかった。