とほやまの あはき記憶を 鳥の子の 夢にこめては 月のごと抱く
*これは幻想的ですね。解釈をするのが少し難しいと言うか、あまりしないほうがいいとも感じる。言葉そのままを読んでもらって、読み手の中に浮かぶイメージを問いたいものだ。
「鳥の子」はたまごのことですね。こういういい方の応用として、「てふの子」などという言い方をしたこともありました。もちろん芋虫のことです。この世界には親と子で姿の違う生き物がたくさんいるものですから、文字数を節約するためにも、〇〇の子、といういい方は便利で美しいものだ。
「かげろふの子」とはありじごくですし、「月の子」とはかのじょのことだ。自分を、なにかの子とたとえることもできましょう。雪の子、風の子、海の子、山の子…。
親というものはよいものだ。美しいものの子であることはうれしい。自分の心は何の子だろうと想像するのも楽しいことでしょう。
この世界に生きているもので、神の生んだ子ではない存在はいません。
すべては神が生んでくださったのです。ゆえに人類はすべて神の子だ。美しい神のたねを持っている。その美しさを信じて、まじめに勉強していけば、みな神のように美しくなっていける。
だがそれをいやだと言って、他人の自分ばかり見て、そっちがいいと言って様々に馬鹿なことをやりはじめれば、悪夢が始まるのです。
山の淡い記憶とはなんでしょうね。はっきりと説明することはできるが、何かやりにくい。それは神の中から紡ぎ出される永遠の遺伝子のことかもしれない。はるかな昔、まだ山が小さな大地のくぼみだったころに、神がこの世界に設定した愛のかたちであるかもしれない。
それが、小さな鳥の卵の中にも秘されている。それを、月のように大切に抱いている。
愛すればよかったのに決して愛さなかった人が、もう一度生まれて来たら、鳥が卵を抱くようにやさしくしてあげたい。そういう思いもつかめるかもしれない。
だが、永遠に帰って来はしない。
そういう記憶も、風のように、山の中にたたまれていくだろう。そして永遠に語り掛けてくれるだろう。