われのほか うましきものを ゆるさぬと いふ馬鹿者の 月夜を否む
*「うまし(美し)」は、立派だとかすばらしいとかいう意味ですが、字面から、うつくしい、という意味も含めています。
自分のほかに、立派でうつくしいものなどゆるさないという馬鹿者は、月にたとえられるあの人の救いを断ってしまった。
勉強の足らない馬鹿者というものは、いつも単純に、自分が世界で一番だと思っているものです。もしくはそれでなければいやだと。
なぜかといえば、それは動物だったころの名残だからです。自己存在のごく幼期には、みながみな、世界で自分が一番すごい、一番いい、と単純に思っているのです。それを疑いもしない。疑うことができるほど、ものをよく知らない。自分、というものしか、ほとんど知らないのです。
親は自分の一部だと思っている。何もかも自分の思い通りになって当然だと思っている。何もわからないからです。またそういう時期は、そういう単純な自己信頼感が必要なのです。単純な自分への絶対信頼があるからこそ、幼いころは自然に生きていける。
だが、いつまでもそれではいけません。
自分というものも、大きくなってくると、他者とのバランスをとらねばならない。関係というものを作っていかねばならない。他者を知り自分を知り、自分というものが、自分が思っているほど立派ではないということを、少しずつ知っていかねばならない。
それが愛の世界への入り口なのです。
だいたいの人間は、高い存在の指導に従いながら、少しずつそれがわかってくるものなのだが、中には何も勉強してこなかったものがいる。人間存在として当たり前の、自分のバランス感覚が全くできていない人がいるのです。
そういう人は、いまだに、世界で自分がいちばんいいものでなければいやだと思っているのです。
だが実際そういう人は、自分が世界で一番偉いなんてものになれるはずがないとわかっている人と比べれば、だいぶ遅れているものだ。それが全くわからないほど馬鹿ではない馬鹿者は、焦って理屈をさかさまにして、馬鹿の方が偉いにするために、あらゆる馬鹿をやり始める。
それで何もかもがだめになる。
みんなを救うために一生懸命にやってくれたかのじょの仕事を、馬鹿どもは、かのじょが自分より美しいのが嫌だと言う理由だけで断ってしまった。かのじょが教えたのは、自己存在の真実なのだが、それを断ってしまっては、自分は自己存在ではないと言ったようなものだ。
それがどういうことか、まったくわからないほど馬鹿ではあるまいに。
彼らはかのじょを認め、かのじょに頭を下げることができない限り、永遠に、自分というものではないというものになり、誰にも相手にされなくなるのです。