つるばねの からすかあかあ かなしいな かへりたくても かへるとこなし
*これはつい最近大火が詠ってくれた歌ですね。この項はだいたい1か月以上のタイムラグがあるのだが、これは実につい先日書いた新品です。
今日発表する予定だった原稿が、ちょっと時期を逸してしまったので、急遽書き換えたのです。こういうこともたまにありますね。
わたしたちは、一つの存在を共有しているので、それぞれの活動を時間的に分け合ってやっています。ケバルライの小説のように、それぞれが一度にいっぺんにつくっておいて、少しずつ発表していくのです。
ですからどうしても時間差というのが生じるわけで。
今は、ベクルックスが新しい企画のための活動をやっているので、彼のために多く時間を割いています。ですからちょっとわたしはやりにくい。でもやってみましょう。
表題の歌は、「か」が重なって面白いですね。奔放自在な大火でなければ詠えません。誰にでもできそうで、だれもやらないことをやってくれるのが彼です。そこがおもしろくてしょうがない。
普通こういうのをやれば、下品になりがちだが、そこがなぜか品よくまとめられるのが彼の不思議なところだ。覚えやすいのもいい。わたしたちのほかの歌は忘れても、なぜか大火の歌は覚えていると言う人も多いでしょう。
鶴の羽根をつけて鶴のまねをしたからすは悲しいな、もう帰りたくても帰るところがない。
あんまり人まねばかりをしすぎて、本当の自分を失ってしまった人というのはいます。人の美人をうらやましがって、その美人の真似をしてそんな他人の顔ばかり生きて来たら、とうとうほんとの自分がいやなことになって、元の自分に戻れなくなったのです。
鶴から盗んだ羽をつけたからすが、とうとう白くなってきた。もう元のからすに戻れない。
それがどんなにつらいことかを、からすがわかっているかどうかはわかりません。が、それは自己存在にとって、神が用意してくれた美しい未来を、全部失うことなのです。
からすはからすとして生きていればよかった。本当の自分の美しさを信じていれば、いずれ神のようなものにすらなれる自分の未来があった。神はそういう風に自分を創ってくださったからです。
しかし鶴になりたかったからすは、そういう自分を嫌がって、とうとうからすでなくなり、本当の自分が導いてくれる未来を、全て失ってしまったのです。
あまりに悲しいことになったのです。
こういうことを、あっけらかんとかるい調子で歌ってくれるのが、大火の歌の醍醐味ですね。
むごいところもあるが、おもしろいでしょう。