ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

くづるる

2019-09-17 04:41:14 | 短歌





むらきもの 心のかほの すき見えて きよきけはひの くづるるをみな





*「むらきもの(村肝の)」は「こころ」にかかる枕詞ですね。「けはひ」は化粧のことです。

心の顔が透いて見えて、表向きはきれいにきよらかに見せている化粧が、崩れる女がいる。

きついですね。たしかに馬鹿な女というのは、表面をきれいにする技術にはたけています。それはそれは、天使の美貌を研究して、化粧やファッションを若干おとなしめにして、髪型も上手に真似して、天使のイメージを盗む。

表面だけは完璧に天使を装うことができるのです。

ですが、目つきや表情というのはごまかしがきかない。心がそのままそこから見えてくる。天使のようなきれいな顔をしておいて、心が、あたしだけきれいでいれればいい。ほかの女はブスでいい、なんてことを考えていると、そんな心が透き見えて、とても醜く見える。

人間の心というのは、目と、口元によく出ますよ。

やさしさというものを何も勉強しなくて、わがままなことばかり考えている女性は、何か棒で人をつくような目つきをしています。人の心を受けるという勉強ができていないため、人に自分を押し付けるようないやな目つきをしているのです。

それと、いやなことを考えていたりすると、笑った時の口元が微妙にゆがみます。心の修業ができていない人は、口元がゆがむのです。それだけで、人から盗んで作ったきれいなお顔が全然違うものになるのです。

まあこんな感じでね、心というのはごまかしがききません。どんなにきれいに化粧しても、表情が崩れれば、全然きれいに見えない。

かのじょは表情が美しかったでしょう。それは心が整っていたからなのです。天使は存在として高い修業をしているので、内部がきれいに整っている。だからあのような表情ができるのですが。

馬鹿な女はそれだけはとてもまねできない。心の奥まで盗むことはできない。

だから天使の顔をして、心はドブスだという、妖怪のようなものになるのです。





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みつかひの

2019-09-15 04:38:46 | 短歌





みつかひの かほをぬすみて みつかひの 心を知らぬ あやかしの群れ





*前から言っている通り、歌の中で「みつかひ」というときは天使を表します。わたしたちは神の使いをやっていますから、この言い回しは間違ってはおりません。歌にするには文字数もちょうどよいし、多用しています。

「あやかし」は妖怪のことですね。

天使の顔を盗んで、天使の心を知らない、妖怪の群れがいる。

かのじょというひとは、非常に美しい人でしたが、美しいのは顔だけではありませんでした。その生き方が非常に美しかった。まじめでまっすぐに生き、神の心にたがうことは一切しなかった。常に神に自分の心をひたし、神の喜ぶことをなそうとしていた。

神の喜ぶこと、それはすなわち、人類の救済だったのです。

そういう高い目標を目指してまっすぐに進んでくれた。どんな苦しいことがあっても、耐えてくれた。その心が高く美しいから、あれほど美しく見えるのだということを、馬鹿な女たちは何も知らないようだ。

ただ、表面だけを上手に真似すれば、天使になれるとでも思っているようだ。

それは馬鹿というものです。

あさはかな技術だけで表面を上手に真似して、形だけは完璧に天使にそっくりにつくる。そのような形に、自分のことだけしか考えていない未熟な魂が宿っている。それが目つきや言動に出てくる時、たとえようもない馬鹿ができる。いや、お化けですね。あまりにも外見と中身が違いすぎる。正しい人は汚らわしい嘘を感じて、逃げてしまうのです。

馬鹿というのは人まねだけで生きてきましたから、中身がまるでできていないのです。人類はもう解脱するところまできているのに、いまだに石器時代の常識で生きている。それはすなわち動物的自己保存です。彼女らはいまだに、自分のことしか考えられない。

それは人類すべての幸せを考えて、救済をなすために生きたかのじょの心からは、まるでかけはなれているのです。雲泥の差などということばが小さく感じるほど、次元も何も違いすぎるのです。





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しじふしの

2019-09-14 04:39:02 | 短歌





しじふしの しづのをがゆく 荒野には われを見捨てし あほうがむかふ





*わたしたちがシジフォシアと名付けた世界は、何もない世界です。神が一切の創造を行わなかった、永遠の黎明の世界なのです。

まるでファンタジーのようですが、ファンタジーではありませんよ。そこは本当にあるのです。それは死ねばわかります。人間、死ねばみんな霊的世界のことがわかるのです。

しじふしのしづのをがゆく荒野、というのは、しじふし(四十四)とシジフォスをかけているのです。葡萄式部が考えた言い回しですが、なかなかにおもしろい。シジフォスの神話についてはここでは語る必要はありませんね。徒労の代名詞ともいえる名です。

そこでは何をしても徒労に終わるのです。人々はただそこにいるだけで、何もしようとしない。何かをしてもそれはすぐに馬鹿になってしまう。何もないところだからです。

なぜ馬鹿はそこに向かうのか。それは自分というものを馬鹿にしたからです。自分というものを馬鹿にして、くだらないものにして、永遠に自分以外のものをむさぼって生きようとしたからです。それは神を馬鹿にすることに等しいのです。ひいては、神が永遠の努力をなして作ってくださった、美しい地球世界、人類世界を馬鹿にするのに等しいのです。

この世界を見てごらんなさい。あらゆるものがある。あらゆるものがいる。あまりにも美しい世界です。神はものすごい努力をなさって、営々とこの世界を創り続けていらっしゃるのです。神とは自己存在の究極の進化形です。自分というものの、すばらしい進化形なのです。自分を馬鹿にすることは、その神をも馬鹿にすることに等しいのです。

自分というもののすばらしさを認めないなら、その自分というものが何も行わなかったところへと向かうがよい。自分というものが、永遠に馬鹿になっている世界へと向かうがよい。

自分を馬鹿にすることは、その自分というものが作り上げたこの世界を馬鹿にすることに等しい。ですから、馬鹿な人間はこの世界を永遠に失わざるを得ないのです。





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神のねがひ

2019-09-13 04:41:30 | 短歌





たまちはふ 神のねがひを 身におひて ますぐにもいく くはしめの道





*「たまちはふ」は「神」にかかる枕詞ですね。「くはしめ」は美女のことです。何度も言ってわかっていることでしょうが、何度でも繰り返しやるのがここでのやり方です。学びとはそういうことを通して深くなってくるものです。

神の願いを自分に負って、まっすぐに生きていくのが、美女の道というものですよ。

美女というと、この世ではいささか隠微な響きを持つものですが、本当の美女の道というのは神の道です。神のおっしゃるとおりに生きるのが本当の美女の道なのです。

神の願いとはみなの幸せだ。だから神の願いをかなえるためになら、美女というものもみなの幸せのために生きねばならない。自分だけの幸せのことなど考えるのはもってのほか。自分の幸せよりも、神の幸せを考えるからこそ、女性は神の美を授かり、たとえようもなく美しくなれるものなのです。

しかし馬鹿な女というものは、そういう美女をうらやましがり、その美女の顔を盗んで自分に着せ、自分を美女にして、人を思い通りに動かして自分に奉仕させようとするのだ。

それは神への大きな裏切り行為なのです。

神にも等しい美を持つ女が、自分の幸せのためにのみ生きるということは、神がそうしているのだと、世間に吹聴しているようなものなのだ。

ですから偽物の美女はただそこにいるだけで、神を裏切っていることになる。世間に大きな害を及ぼしていることになるのです。

神が人間を裏切っているのなら、人間もそれをして構わないというようなことになる。それでこの世にあまりにも悲しいことがたくさん起こる。

人間の苦悩や悲哀は、こうした馬鹿女の裏切り行為から発生したと言っても過言ではないのです。

本当の美女は、決して神を裏切ってはいけない。神の道をまっすぐに生き、心も行いも清く美しくなければいけない。

難しいことではありませんよ。自分自身に目覚め、愛の存在になってみれば、だれもがもう自然にできることなのです。





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馬鹿者の夢

2019-09-12 04:40:14 | 短歌





とこしへの われを捨てても みつかひの かほが欲しきと 馬鹿者の夢





*前にも言ったことですが、ここでは「つかひ」とか「みつかひ」とかいうのは、天使のことを意味します。天使とは自己存在の進化形。永遠に進化していく自己存在の、一時期の姿であると思ってくださればよい。

自己存在というものは、進化の過程で一時期、翼のようなものが背中にある時があるのです。人間にはまだそれはありません。必要のないものだからです。ですが人間も人間としての修業を真面目につんでいき、人間として大きくなってくると、突然背中に翼が生え、天使になるのですよ。これは本当です。

自分というものは、永遠の進化の道筋をまっすぐに進んでいけば、やがて天使になれるものなのです。神はそういう風にわたしたちを創ってくださっているのです。それを「とこしへのわれ」とここでは表現しているのだが。

永遠の本当の自分を捨ててでも、天使の顔が欲しいという、馬鹿者どもの夢であることよ。

馬鹿が、本当の自分を信じず、簡単に天使の顔を盗むことによって、嘘で天使になろうとすることほど、愚かなことはない。それで人間は、遠い未来に天使になれるという自分自身の可能性を全部つぶすことになるからです。

天使になりたいなら、本当の自分に戻り、本当の自分を自分で生き始めねばならないのです。本当の自分に目覚めて、愛のためになんでも自分でやっていく、美しい存在になり、本当の自分をどんどんやっていけば、人は美しい学びを経て、いずれ天使の羽が生えてくるのです。しかし馬鹿はそういう自分の美しい可能性を全部馬鹿にしてでも、嘘で一足飛びに天使になりたがるのだ。

なぜか。それはそれは天使が美しいからです。馬鹿どもは、あれだけ美しければ、なんでも自分の思い通りになると思っているのです。すなわち、天使並みの美貌で人をだまして自分のために利用しようとしているのです。

そんなことを考えている馬鹿が美しいわけがない。自分のことだけしか考えていない馬鹿の欲望をかなえるために、天使の美貌を盗むことほど、愚かなことはない。

天使の外面を簡単に盗むだけで、馬鹿は人間を落ち、神が保証してくださっていた永遠の未来を失うことになるのです。





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ひとにたよりて

2019-09-11 04:36:17 | 短歌





くはしめと なればおのれは なにもせず ひとにたよりて いきむとはする





*偽物の美人の本音をついた作品ですね。だいたい偽物はこういうことを考えています。

きれいになれば、男がなんでもやってくれると。自分はたいして苦労もせず、安穏に生きていけると。

男を馬鹿にしながら、男に全部頼って生きようとする。自分では何もしようとしない。贅沢をさせてくれるいい男を捕まえるために、人から盗んだ美貌をこれでもかときれいに演出する。

それが実に汚いので、偽物の美人はとてもいやなものになる。形は愛のふりをして、まるで愛ではないいやなことばかりやるからです。

偽物の美人というのは、大昔からそういうことばかりやってきて、人間の地道な修業というのを全然やってこなかったのです。自分を少しおかめにして、人の下になって人のために尽くす修業をはしため修行といいますが、そういうことをいやがって全然やってこなかったのです。

それがために、彼女らはいまだに、人の心というものがわかりません。人の気持ちをわかることができません。自分の心しかわからない。だから自分のわがままが通そうと、人にいやなことばかりする。

美貌で男を支配して、いやなことばかりやらせようとする。

そんな馬鹿な女ばかりが盗みで美人になってきたので、美人というものは馬鹿なものだという間違った常識ができてしまったのです。

偽物の美人は存在しているだけで、愛がいやなことをしているという嘘を世界中に吹きまくることになるのです。

この世界はすべて愛でできているのに。すべてを何とかするために、愛は絶え間ない努力を永遠に続けているのに。

偽物の美人というものは、その愛に対するあまりにもひどい侮辱なのです。





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暗き罪

2019-09-09 04:38:53 | 短歌





安穏と 我が世をばゆく 人ありて 暗き罪踏む 人の世の常





*平穏無事に、自分の人生を生きていく人がいて、それだけで罪を踏む、それがこの世の常識というものです。

とまあこんな感じですかね。ツイッターでも繰り返し押しているとおり、この世には偽物の人生を生きている人がたくさんいるのです。平気で人の人生を盗んで、安穏とそれを生きている人がいる。

そういう人は、ただ自分の人生を真面目に生きているだけでも、罪になるのです。平穏無事な自分の人生というものを作るために、たくさんの人を犠牲にしているからです。

たいしていいこともしないのに、自分の人生がいい方向に向かうのは、たいてい盗みと考えて間違いはありません。他人からいいものを盗んで自分にくっつけているのです。そのおかげで、盗まれた人はというと、頑張っていいことをしても、何にもならない苦しい人生を送っている。

馬鹿な人間が、自分の人生をよくするためにやっていることは、汚いなどというものではありません。

人から盗んだ顔や足で見栄えをよくし、裏から他霊に自分のことをやらせて、人並み以上の能力を作る。そして他人から盗んだ徳分で自分をいいことにする。人生そのものさえ他人から盗む。

人生を盗むというのは、親を盗むということです。そこに生まれるはずだった子の魂をほかにとばして、自分が無理やりそこに生まれてくるのです。そういうことは、よくあるんですよ。特に金持ちの家や、ステータスの高い人の家には、よくそういう子が生まれてくるのです。

自分の人生を成功させるために、馬鹿はいろんなことをやっているのです。

しかし、そういうずるも、もう人間に見破られるようになるでしょう。自分のところに、自分の子ではない子が生まれてきたら、親も少し冷めた目で子を見るかもしれません。

人間は進歩していく。だんだんと、ずるはできなくなってくるでしょう。





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心の美人

2019-09-07 04:38:54 | 短歌





顔だけは きつい美人に できるけど 絶対できない 心の美人





*大火節です。きついですね。馬鹿な女はほかの女性から顔を盗んで、それを改造し、表面だけはきつい美女になることができます。それはそれは、高い美女に化ける。完璧な美貌、完璧なスタイルなど、霊的技術を使えば、簡単に作ることができるのです。

世にいうモデル並みの美人などは、ほとんどすべてがこの手で作り上げたものです。

とにかく馬鹿女は美人になりたい心が強いですから、霊的技術でものすごい美人に化ける。ですが、その心は、人から盗んででも自分を美人にしたいという心ですから、全然美しくない。

美貌で人を支配して、自分の思い通りにしたいなんてことを考えている。人に尽くすやさしさなど何も勉強していないのです。

本当の美女は、人間としての修業を真面目にやってきていますから、自分を控えめにして、人に尽くすということもできるのですが、馬鹿な偽物にはそれができません。わがままを通して、人に迷惑ばかりかけます。

自分のことしか考えられないからです。自分の苦しみだけしかわからないからです。人の痛みを感じられるほど、痛い勉強などしたことがないからです。

心の美人になるためには、地道に人間修業をしなければならない。それを今まで全然やってこなかった魂は、はっきり言って、現時点で、心の美人になることは無理ですね。

人からの盗みで美人になっている限り、それは美人ではない。

心が美しくなければもう美人ではないとは、これまで何度も言ってきたことですが。

本当の自分を忘れて、盗みだけで高い美人に化けてきた馬鹿女は、もう人間を落ち、この世界を追い出されるところまで来ている。

この世界のほかのところで、勉強をやり直さねばならないのです。





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まことのかほ

2019-09-06 04:46:08 | 短歌





万年の まよひのはてに あらはれし まことのかほの あはれなるかな





*偽物の美人というのは、人から盗んだ美貌ばかり生きてきて、本当の自分を生きたことはほとんどありません。

ですから本当の顔は、ひどいことになっているのだが、ある日仲間のひとりが、そういう顔の実例を見せてくれました。それを見たら、まるで人間というより猿のような顔をしているのです。醜くなった猿、と大火は言ってましたがね、まさにそういうような顔になっているのだ。

人間がまだ、ほとんど猿と変わらなかった頃から、ほとんど何もやってこなかった魂なのです。そういうものがいるのだ。

おかしな顔だと笑うこともできない。それはむごいことになっているのです。

おそろしく醜く、馬鹿っぽい顔をしている。それを見ると人間がみんな逃げていくというような顔をしているのです。ブスということばがかわいく思えるほど醜い。いえ、ブスというのは人間の範疇にあることばだが、それはもう人間ではないという顔になっているのです。

人の美貌をかぶり、それでいやなことばかりしてきたからです。それだけでなく、天使を盗んでおそろしくいやなことをしたからです。ゆえに人間を落ちてしまったのです。

人間の本当の顔というのは、人間のすることによって変わります。人の美貌を盗んで馬鹿なことばかりしていれば、当然そうなるというような顔になるのです。

万年というほど長い間、嘘ばかりで生きてきた、偽物の美人の憐れな末路ということができましょう。





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あやにしき

2019-09-05 04:37:41 | 短歌





あやにしき こりてつかひを よそへども まなこにいづる まことのこころ





*「あやにしき(綾錦)」は、綾と錦、美しい衣装のたとえです。「つかひ」はここでは天使のことですね。

美しい服を凝って、天使を装っても、目から本当の自分の心が出ていますよ。

最近のテレビに出てくる美女は、衣装や髪型をきれいに凝りまくっていますね。とにかく自分をきれいにしたいようだ。天使的に、崇高なまでに自分をきれいにしている。

しかしそこに灯っている目が暗いと、いかにきれいに仕上げていようと、全体が気色悪くなるのです。まるごと嘘になるからです。

形をきれいにすればするほどに、目が痛々しくなる。本当の自分はこんなものではないと、心のどこかでわかっているからでしょう。嘘をついているのだと、自分でもわかっているからでしょう。

ほんとうの自分で生きている人は、そんなにまで自分をきれいに演出したりしないものですよ。なぜ必死に自分をきれいにして見せるのか。本当の自分がいやらしいものになってしまっているからです。

人のものを盗んで自分をいいものにしているからです。そんな汚いことをしているのが自分であることが、痛いのです。いやらしいことをしてでも自分をいいことにしたいという心が自分にあることが、つらいのです。

人間は嘘で自分を偽っている限り、この矛盾に苦しみ続けるのです。美しくなりたい。そのためには汚いことをしてもかまわない。だけど汚いことをしている自分は嫌だ。美しくなりたい。…まあ、何度も言ったことですね。これを馬鹿女の負のスパイラルというと。

馬鹿女は嘘で自分をきれいにしている限り、永遠にこの負のスパイラルに苦しみ続けるのです。

しかし本当の自分に目覚めた人は、ここから飛び立っていくでしょう。本当の美は本当の自分から始まると、本当の自分に帰り、そこからまっとうに自分を生きていくことでしょう。そういう人がいることを信じたいですね。

今はもう、天使まねの馬鹿女がものすごくたくさんいますから、わたしなどは世間を見て絶望的になってしまうのですが。

見えないところで、地道に本当の美女の道を精進している女性がいると信じたい。





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