比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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信州松代・・・明徳寺・・・硫黄島に・・・散るぞ悲しき・・・栗林中将の墓に詣でる

2011-05-25 | 語り継ぐ責任 あの戦争
                                      、
5月16日、信州松代の町(現長野市)を訪ねました。

城下町、街道町としての静かな佇まいがなんともいえない町です。
海津城址、旧真田邸、真田家宝物館、佐久間)象山記念館、象山神社と見どころいっぱい。
まずは太平洋戦争末期、玉砕の「硫黄島」の総指揮官栗林忠道中将の墓所を訪ねました。
松代の町から地蔵峠を越えて真田町傍陽(現上田市)に向かう県道35号線を4kmばかり進むと左に明徳寺入り口の案内があります。

曹洞宗龍漂山明徳寺・・・明徳元年(1390年)開基。寺領20石。

参道から仁王門を潜り本堂に。
左を見るとこんな案内がありました。
高坂弾正忠昌信公墓海軍大将栗林忠道之墓・・・の案内です。

高坂弾正昌信(春日虎綱)・・・戦国時代の武将、甲斐国石和郷の百姓から武田信玄の近習に。信玄に認められ出世、海津城の城代に・・・「甲陽軍鑑」は高坂弾正の口述記録から補足を重ねて完成したといわれています。

第二次世界大戦末期の硫黄島の戦い・・・日本軍守備隊総指揮官 栗林大将の墓です。
墓前に供えられたスコッチウヰスキー・・・ジョニーウォーカーの赤ラベルが風雨の晒されています。
水割りの水まで供えられていました。何かジーンときます。


栗林忠道(1881~1945年)・・・長野県埴科郡西条村欠(現長野市松代町豊栄)の出身、実家は旧松代藩郷士、古刹明徳寺の檀徒総代も勤める家柄だったそうです。県立長野中学卒業後。東亜同文書院に合格するが陸軍士官学校に。卒業時、次席の軍刀組。騎兵将校、陸軍大学、駐アメリカ大使館駐在武官。カナダ駐在武官、など歴任、知米派で国際通。1944年6月陸軍中将として硫黄島陸海軍守備隊最高指揮官に着任。18㎞の地下壕を掘削、無謀な万歳攻撃、自決を禁じ、あくまでも長期防戦に務め、1945年3月16日16時本土に向けて訣別電報を送り、17日陸軍大本営は受電確認、戦死として大将に。戦死した日、遺体は不明、3月26日、戦闘中に重傷を負い自決したと伝えられています。

硫黄島の戦い・・・1945年2月19日から3月26日、米軍と日本軍の間で行われた戦闘です。
日本軍の戦力約22780戦死約21900、捕虜1023人・・・戦死率94%・・・玉砕です。
米軍の戦力約110000人、戦死6821人、戦傷者19217人・・・戦死率6%は日本軍に比べわずかです戦死戦傷者数は日本軍を上回り米軍戦闘史上最も苛酷な戦闘だったといいます。・・・数字はWikipediaより。


梯久美子著「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(新潮社2005年刊)
著者の梯(かけはし)さんは1961年生まれ、戦争も戦後も知らない世代の人です。映画「硫黄島からの手紙」の原作『「玉砕総指揮官」の絵手紙』吉田津由子編(小学館、2002年)の一節に心惹かれた・・・それだけの理由で取材をスタート、数多い参考文献と大勢の人からの聞き取り取材からこの本が生まれたようです。冷静に抑えた筆致がかえって生々しい戦争の実情を伝えてきます。表題の「散るぞ悲しき」は1945年3月16日栗林中将が大本営にあてて発信した訣別電報の最後に添えられた辞世の三首のうちの一首です。

  国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

モールス信号で送られたものですから通信士の手書きによって残されます。
大本営は「悲しき」を「口惜しき」に改竄したといいます。軍人は「悲しい」なんて言っちゃいけないのです。

原山茂夫著「栗林忠道 今井武夫 物語」(ほうずき書籍 2011年)
同じ松代に生まれた二人の軍人を顕彰する会の編集によるものです。アマゾンに出品されています

二冊の本の内容については省略します。読む人によって解釈も違うからです。
栗林中将はアメリカ大使館駐在武官、カナダ大使館駐在武官を勤めてアメリカの国力をつぶさに知っていた人のようです。
今井少将は中国戦線で和平工作に努め、敗戦時に中国政府から戦犯扱いをされていません。

開戦反対の将軍たちも大きな波に呑みこまれていきます。それが組織というものかも知れません。組織の壁を崩すには大きなうねりが必要です。

太平洋戦争硫黄島の戦いについての過去ログ→2007年2月9日「硫黄島上陸

硫黄島の米軍死傷者26000人(うち死者6800人)、米軍史上最大の損害といい日本軍の戦術を賞賛する声もありますが、結果は負けたのですからどうにもなりません。戦争は最終的には勝たなきゃダメです。勝ったからイイというわけじゃありません。負けるケンカはするなというのが鉄則なのです。

硫黄島に散った日本兵21900人の命・・・悲しいです。
この事実を次の世代に伝えるのがわたしたちの責任です。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
戦争 (こきおばさん)
2011-05-25 05:30:35
戦争と言う絶対的な権力の前で、人間は生き方も思想さえ変えなければ生きていけない場面もある・・・・先日の「戦争と詩」と題した詩人のお話から、改めて実感しました。

終戦と同時に、正反対に生き方を変えた人たちを見てきましたが、あるいは自分もそうしたかもしれないと思います。子供だったので、そんなことも無く幸いだったかもしれません。旧満州では、それほど軍事教育は受けませんでしたから。

「散るぞ悲しき」読んでみようと思います。
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今度の信州行きは (こきおばさんへ・・・)
2011-05-25 07:06:45
これがメインだったのです。
松本在住の人に「栗林忠道・今井武夫物語」の本を贈られ、このテーマのものを書きたいと思っていました。

映画など見るとつい戦意高揚に錯覚しますが、戦争は悲惨です。硫黄島は20000人の戦力の99%を戦死させました。栗林の責任ではありません。栗林は長野中学、陸士、陸大と進んだエリートですがホンとはジャーナリストになりたかったようです。それほど裕福でない農家の子供で教師の勧めで軍人の道を歩んだようです。未亡人は保険の外交員、住み込みの寮母などして子供を育て天寿を全うしたそうです。
「散るぞ悲しき」は図書館にある本です。
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読みました。 (こきおばさん)
2011-05-31 17:00:59
梯久美子さんの「散るぞ悲しき」今、読み終わりました。
梯さんは1961年生まれとありますので、息子と同じ歳です。「硫黄島からの手紙」の一説に惹かれただけの動機にしては、素晴らしい取材・聞き取りですね。
この本に引き込まれて読み上げました。

栗林忠道と言う人物、今の日本にこんな指導者が居てくれたらと、しみじみ思います。
地震・津波・原発と日本が壊れてしまうかもしれない状況の中で、不信任案提出だなどとバカげたことを言っていることを知ったら、栗林さんは怒りだすでしょうね。今いらしたら、どんな風に治めてくれるのかしらと、考えています。

「散るぞ悲しき」を、「口惜しき」に変えられたとありますが、「この戦いは口惜しき」だと思われていたのでしょうね。
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感想文を寄せていただきありがとうございます (こきおばさんへ・・・)
2011-06-03 21:54:39
一つ一つの事例を後の世に語り繋いでゆく、大事な仕事です。
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