比企の丘

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信州松代・・・負の歴史遺産・・・松代大本営地下壕跡

2011-05-27 | 語り継ぐ責任 あの戦争
                                       、
5月16日、松代の町、かねてから訪れてみようと思っていた松代大本営跡です。

大本営って・・・戦国時代、戦さのときに殿様が陣取り指揮を執る陣屋・本陣をいいました。
近代になって大日本帝国陸・海軍最高の統帥機関として法制化します。天皇の命令を大本営命令として発令する最高司令部です。日清戦争・日露戦争で設けられ戦時の終了とともに解散します。そのご日中戦争で設けられそのまま太平洋戦争敗戦時まで続きました。

さて、太平洋戦争開始前の1941年4月、天皇の御座所である皇居吹上御所に地上1階地下3階の御文庫という施設が着工されます。名前は資料館みたいですが敵爆撃機の攻撃の備えた防空壕です。屋根の厚みが3mあるそうです。さらに地下道で結んだ地下壕(終戦時ポツダム宣言受諾の御前会議が行われた)があります。
そうこうしているうちに戦況は日本軍に不利な状況になり本土決戦も想定され、1944年7月天皇の御座所と大本営を信州松代に移す計画が東條英機総理大臣の最後の閣議で決定されます。

1944年11月11日11時最初の発破とともに工事が着工。総工費2億円(今の金で2兆円?。戦艦大和の建造費が1億3000万円ともいわれます)。朝鮮人7000人、日本人3000人、敗戦時までの9ヶ月で延べ300万人の労働力をつぎこみ約10kmの地下壕を掘ったそうです。

松代が選ばれたのは本土の中心部で山に囲まれ海岸線から遠い、岩盤が固い、という理由です。
信州は神州に通じ不滅である・・・という冗談みたいな抽象的な理由付けもあったそうです。

公開されている象山壕に入ります(無料)。
壕はそのほかに地震観測所に使われている舞鶴山と皆神山があります。

総延長約6km、エプロン姿のボランティア?のご婦人が団体さんにガイドをしていましたのでご一緒させていただきました。淡々とした説明ですがいいお話しでした。当時は圧縮空気による振動式掘削機、ロッドによりあけられた穴にダイナマイトを詰め発破をかける作業が続いたそうです。不発ダイナマイトがあり、これによる事故が多かったといわれます。金槌と鏨による手堀りも同時進行で行いました。

工事は西松組、鹿島組が請け負い東部軍工兵隊の指揮の下、熱海鉄道教習所、産業報国隊、勤労奉仕隊、学徒、児童の勤労奉仕、それに朝鮮半島からの労働者(7000人とも)です。強制連行労働者といっていいかどうかは解釈の分かれるところですが一応は労働契約がされていたといいます。実態は過酷な労働と発破や落盤による事故、劣悪な食料事情による栄養失調、現場請負の親方のタコ部屋搾取もあったようです。一方では地元住民との素朴な交流もあり戦後もその交流が続いたそうです。

ようやく表に出ます。ホッとする瞬間です。

壕を掘りますから掘った岩を外に出すわけです。フォークリフトもパワーシャベルもダンプカーもない時代です。モッコで担ぎ、トロッコを押して、炭鉱のボタ山のようなものが築き上げられます。ズリ山です。敵機に見つかるといけないので学徒・児童が山から木の葉を取ってきて被せたそうです。このズリは戦後、米軍の厚木基地や三沢基地の建設資材に利用されたそうです。

朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑」。
日本語とハングル文字で書かれています。祈念碑の説明レリーフ(1995年)は英語、日本語、ハングル語。この碑文の中に朝鮮人犠牲者について200人とも300人ともあるいは1000人とも記されています。資料は敗戦時にすべて証拠隠滅のために焼却されたものと思われます。追跡調査するにしても分断された南北朝鮮、創氏改名による本名不明のための追跡の困難さ、などあったようです。
碑文の横に補説レリーフ(2010年)があります。そのごの調査により犠牲者1000名説の根拠の希薄さが判明したことを記していますが依然として正確な数字は把握できず犠牲者100~200名と記してあります。

松代大本営は長いこと放置されていました。地元高校生の沖縄訪問から沖縄戦研究班が生まれ、やがて戦争史跡としての公開運動が起こり1990年長野市によって公開に至りました。

もう66年もむかしのことです。負けた戦争の不条理さ,役に立ったかわからない巨費を投じたこの未完の設備、そして全国にあった朝鮮人の労働、日本人にとって語りたくない、目をつむりたい、見ないフリをしたいことです。

案内のご婦人(戦争も戦後も知らない世代の人のようです)が最後に誰かの言葉を引用して話されました。

過去の真実に目を瞑るものはほんとうの盲目になる」・・・
★西ドイツ大統領や統一ドイツ大統領を務めた、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が1985年5月8日、西ドイツの首都ボンの議会演説で。
わたしたちの先輩が経験した失敗の歴史を次の世代に語り継ぐことがわたしたちの責任です。


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