比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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赤い夕陽の満州に・・・子を手にかけ母は号泣した

2008-12-24 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
昨日のブログエントリーで旧満州(現中国東北部)に太平洋戦争敗戦直後(1945年)置き去りになったいわゆる中国残留孤児の話をしました。これはその続きです。
これはある新聞の最近の読者投稿欄からの切抜きです。
あまりにも生々しくて辛く悲しい現実にあった話しです。

この話しは8月19日の新聞の特集記事の切抜きです。私の生まれた信州伊那の谷、私のうちからそう遠くない村の出来事です。村の名は河野村(現豊岡村)、赤石山脈を背後に控える天竜川沿いの静かな農村です。
河野村の満蒙開拓団は1944年から、1945年8月9日のソ連軍の侵攻とともに逃避行が始まりほとんど全滅したようです。全滅の状態は記事にありますが語るにしのびません。
1946年敗戦の年から1年後に満蒙開拓団を送り出した村長は自殺します。


満蒙開拓団」「王道楽土」「五族共和」「満州に行けば10町歩の地主になれる」・・・いったいなんだったのでしょう。
満州の大地でこんな惨めな死に方をした人のために、南太平洋の島々で蛆虫にたかられながら腐っていった人のために、こんなことは次は許してはいけません。


聖戦であろうが侵略戦争であろうが戦争に正義はありません。敵国民を多く殺したほうが勝者であり正義です。それが国の歴史観です。
国民がボロボロになったこんな惨めな戦争、誇りも正義もありようがありません。

※コメント欄オープン。


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4 コメント

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悲惨な出来事で・・・・ (縄文人)
2008-12-25 20:44:41
何から書き出してよいやら迷った。
「満豪開拓青少年義勇軍」は、私の知るところでは、埼玉、群馬、長野など等からの貧しい次三男が送られたとか・・・・。そして、埼玉では、秩父郡荒川村(旧)からも多くの青少年が・・・・、そんなことを幼少の頃聴きおぼえている。

私の本箱に「満豪開拓青少年義勇軍」=中公新書=上氏・著が収められている。[知られざる昭和氏の十字軍その児童虐待の全貌]
この本を秩父地元から最年少14歳の児童が夢を抱いて出陣・・・挙句の果ては死して満州の土となった。
こんなことで買い求めたが一度読んだが、その全貌はまだ知り得ていません。

↑の記事をかみしめながらもう一度、じっくり読んでみたいと思います。
そのきっかけをつまませた頂いた
「子を手にした母の号泣」投稿
そしてヒキノさんの記事を取り上げていただいた弛まざるひたむきな姿勢に感謝いたします。


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胸が痛い! (なごみ)
2008-12-26 18:23:53
言葉が見つかりません
こんなことを二度と繰り返さないために・・・
戦争は悲惨!惨すぎます。
なんのための戦争だったんでしょう。
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書けない (パワフルおばさん)
2008-12-26 19:26:23
昨日拝見して・・・・・涙で何もかけませんでした。
そして・・・・・今日も書けません。

お隣にお住まいで、先年亡くなられた方が、青年義勇軍と満蒙開拓団について、独自に資料を集め、聞き取り調査をして、亡くなる直前に本にまとめられました。その本もまだ読めないで居ます。
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コメントをいただいた方に (ヒキノより)
2008-12-26 22:41:57
こんな悲惨なことは誰も信じたくないでしょうね。
語り継いでいかなければならないことです。
満人に子供を売ったとか預けたとかという話しも聞きますが、そういう方はまだましだったのです。子供が生き延びられるチャンスに賭けたのでしょう。
私の生まれた信州の山村は日本で一番、満蒙開拓団、青年義勇軍を送り出したところです。義母の弟二人がは埴科郷開拓団で全滅しています。

言葉にならないようなことにコメントしていただいたこと有難うございます。
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