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南信州・・・阿智郷駒場(コマンバ)。
律令時代のむかし美濃国坂本駅から神坂峠を超えて東山道。そして近世・・・三河からは三州街道、木曽三留野からは清内路道。
駒場はいにしえより交通、流通の要衝でした。
「大地の子の父」山本慈昭師の年譜・・・
1902年(明治35年) 信州の古い城下町、市場町の・・・飯田町伝馬町(現飯田市)に生まれる。8歳で出家。
1932年 下伊那郡会地村(現阿智村)駒場の長岳寺の住職に。
1945年5月(昭和20年) 満蒙開拓団阿智郷(当時の自治体の会地村、五和村、智里村、浪合村、清内路村の共同体 合計1071人)の最後の渡満団330人のうちの国民学校の教員として生徒51名の生徒とともに渡満。この時期、3月に東京大空襲(死者10万人)の直後です。沖縄は陥落寸前。満州国の防衛を預かる日本陸軍関東軍はソ満国境防衛線から大きく南下しています。開拓民はこのことを知らされていません。開拓民の18歳以上の青壮年男子は根こそぎ徴兵でソ満国境の開拓地には女子供老人しか残っていません。たった3ヶ月後の8月ソ連軍の侵攻、敗戦、生きて帰ったのは42名、そのうち生徒は6名。山本さんは奥さんと2人の子供を連れいましたが自身はシベリアへ抑留。
1947年 シベリアより帰国。帰国後に教え子や家族の死を伝えられます。
1964年 遺骨収集の旅に中国へ、周恩来と面談。遺骨収集は許されませんでしたが、このことにより中国で山本さんの存在が知られるように。
1965年 黒竜江省に住む中国残留孤児から肉親捜しの手紙を受け取り、日本国内において中國残留孤児探しの活動を始める。
1969年 臨終の床の村民から、子供たちの死はウソであり子供たちを生かすために中国においてきたことを告げられ(このことは生きて帰国した村民の間で交わされた封印事項であった)、長女啓江さんが生存しているのではないかという話を聞きます。
1972年 田中角栄総理大臣、周恩来主席の出席のもとに調印された日中共同声明により国交が開かれ、山本さんの中国残留孤児探しの活動が本格的に始まります。今でいうNPOです。「日中友好手をつなぐ会」の会長に。、
1973年 NHKテレビ ドキュメンタリー「阿智村 ある山村の昭和史」が放映される。
1979年 10月11日第1回「日中友好手をつなぐ会」の総会が開催。
1980年 残留孤児の訪中調査に赴きます。80歳のときです。315人の孤児に面接。
1981年 第1回47人の残留孤児が来日。孤児といっても年齢は40代です。このときの肉親判明者は24名。
不明のままの23人に山本さんは語りかけます。
「今日から私が皆さんの父親になります。いつでも日本に来てください。私の家に来てください。待ってます」
南信州・・・阿智郷駒場(コマンバ)。
律令時代のむかし美濃国坂本駅から神坂峠を超えて東山道。そして近世・・・三河からは三州街道、木曽三留野からは清内路道。
駒場はいにしえより交通、流通の要衝でした。
駒場はむかしの宿場町、その街並み(旧道)から少し離れた阿知川の畔に立つ小さなお寺。
天台宗広拯山長岳寺・・・鐘楼が・・・「望郷の鐘」。
日中友好のために、中国残留孤児探しのために半生をささげた山本慈昭師のブロンズ像です。
天台宗広拯山長岳寺・・・鐘楼が・・・「望郷の鐘」。
日中友好のために、中国残留孤児探しのために半生をささげた山本慈昭師のブロンズ像です。
「大地の子の父」山本慈昭師の年譜・・・
1902年(明治35年) 信州の古い城下町、市場町の・・・飯田町伝馬町(現飯田市)に生まれる。8歳で出家。
1932年 下伊那郡会地村(現阿智村)駒場の長岳寺の住職に。
1945年5月(昭和20年) 満蒙開拓団阿智郷(当時の自治体の会地村、五和村、智里村、浪合村、清内路村の共同体 合計1071人)の最後の渡満団330人のうちの国民学校の教員として生徒51名の生徒とともに渡満。この時期、3月に東京大空襲(死者10万人)の直後です。沖縄は陥落寸前。満州国の防衛を預かる日本陸軍関東軍はソ満国境防衛線から大きく南下しています。開拓民はこのことを知らされていません。開拓民の18歳以上の青壮年男子は根こそぎ徴兵でソ満国境の開拓地には女子供老人しか残っていません。たった3ヶ月後の8月ソ連軍の侵攻、敗戦、生きて帰ったのは42名、そのうち生徒は6名。山本さんは奥さんと2人の子供を連れいましたが自身はシベリアへ抑留。
1947年 シベリアより帰国。帰国後に教え子や家族の死を伝えられます。
1964年 遺骨収集の旅に中国へ、周恩来と面談。遺骨収集は許されませんでしたが、このことにより中国で山本さんの存在が知られるように。
1965年 黒竜江省に住む中国残留孤児から肉親捜しの手紙を受け取り、日本国内において中國残留孤児探しの活動を始める。
1969年 臨終の床の村民から、子供たちの死はウソであり子供たちを生かすために中国においてきたことを告げられ(このことは生きて帰国した村民の間で交わされた封印事項であった)、長女啓江さんが生存しているのではないかという話を聞きます。
1972年 田中角栄総理大臣、周恩来主席の出席のもとに調印された日中共同声明により国交が開かれ、山本さんの中国残留孤児探しの活動が本格的に始まります。今でいうNPOです。「日中友好手をつなぐ会」の会長に。、
1973年 NHKテレビ ドキュメンタリー「阿智村 ある山村の昭和史」が放映される。
1979年 10月11日第1回「日中友好手をつなぐ会」の総会が開催。
1980年 残留孤児の訪中調査に赴きます。80歳のときです。315人の孤児に面接。
1981年 第1回47人の残留孤児が来日。孤児といっても年齢は40代です。このときの肉親判明者は24名。
不明のままの23人に山本さんは語りかけます。
「今日から私が皆さんの父親になります。いつでも日本に来てください。私の家に来てください。待ってます」
※この稿は「プロジェクトX-新リーダーたちの言葉」(今井彰 文藝春秋)・・・ほかを参考にさせてもらいました.
※数字的なことはWebを追いかけましたが、それぞれ数字が違っていたりして曖昧です。間違っていたらご指摘ください。。
山本さんは年金と住職としてのわずかな収入のほとんどをこの運動につかっていたといいます。満蒙の地に散った教え子たちへの贖罪だったのでしょうか。その後、肉親にめぐり会えなかった方の一人が山本さんの娘さんを探し出してくれたそうです。90歳、100歳までこの仕事を続けるとがんばっていましたが88歳で天寿を全うします。※数字的なことはWebを追いかけましたが、それぞれ数字が違っていたりして曖昧です。間違っていたらご指摘ください。。
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