荒川の大麻生公園を散策しての帰りに熊谷大橋のそばの古民家「平山家」に寄りました。ここは荒川の右岸、熊谷市樋春地区。
広い水田地帯の中の森に囲まれた萱葺きの大屋根が目立ちます。
重要文化財「平山家」、入母屋、萱葺き造り、間口9間、奥行6間で54坪、ウマヤ(厩)、外縁などの含めると敷地総面積67坪、堂々たる構えです。建築年代は17世紀後半と考えられ、重要文化財指定後に大改修を行い旧観を復元したそうです。
画像クリック・・・平山家の拡大写真
屋敷の背戸(北側、川の上流側)に欅、カシなどの屋敷林があるのが関東平野の荒川べりの農家の特徴です。
トボクチ・・・トバクチとも、玄関のこと。大戸は開けてありますが潜り戸も見えます。軒下に小豆を乾しています。外縁に庇屋根が張り出しているため軒先が広く使えるようになっています。大戸は馬も出入りして屋内にウマヤが二つあります。
表から見たデグチ(出居口)、縁先があって訪問者は縁側に座って茶の接待を受けるなんていうのが時代劇にはあります。デグチは地方によってデイとも。出たり入ったりする今のリビング、応接室みたいなものでしょうか。ここでも縁側に小豆が乾してあります。
名主級の家ですが武士(役人)が出入りする式台がありません。デグチの縁側から上がったのでしょうか。
表から見たザシキ・・・お百姓の家ですから床の間はないようです。地方によってオクノマなんていうようです。土蔵が見えますがこれは古いものではないようです。
ここは江南町樋春(現熊谷市)・・・江戸期までは樋口村、樋口とはその名のとおり川から農業用水(吉見用水)を取水する場所(現在の取水堰と水門)、中世の武蔵武士から帰農した平山家はこの樋管、用水路、荒川土手の維持管理にあたった名主だったようです。いまは母屋と1棟の土蔵のみですがかつては長屋門、何棟かの土蔵、塀に囲まれた堂々たる豪農の住まいであったことがうかがわれます。
重要文化財の古民家といっても個人の所有らしく小豆などを乾してあり、所有されているかたの庭先からお邪魔するようになっています。入館料は無料。
「古きを尋ねて新しきを知る」でした。
広い水田地帯の中の森に囲まれた萱葺きの大屋根が目立ちます。
重要文化財「平山家」、入母屋、萱葺き造り、間口9間、奥行6間で54坪、ウマヤ(厩)、外縁などの含めると敷地総面積67坪、堂々たる構えです。建築年代は17世紀後半と考えられ、重要文化財指定後に大改修を行い旧観を復元したそうです。
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屋敷の背戸(北側、川の上流側)に欅、カシなどの屋敷林があるのが関東平野の荒川べりの農家の特徴です。
トボクチ・・・トバクチとも、玄関のこと。大戸は開けてありますが潜り戸も見えます。軒下に小豆を乾しています。外縁に庇屋根が張り出しているため軒先が広く使えるようになっています。大戸は馬も出入りして屋内にウマヤが二つあります。
表から見たデグチ(出居口)、縁先があって訪問者は縁側に座って茶の接待を受けるなんていうのが時代劇にはあります。デグチは地方によってデイとも。出たり入ったりする今のリビング、応接室みたいなものでしょうか。ここでも縁側に小豆が乾してあります。
名主級の家ですが武士(役人)が出入りする式台がありません。デグチの縁側から上がったのでしょうか。
表から見たザシキ・・・お百姓の家ですから床の間はないようです。地方によってオクノマなんていうようです。土蔵が見えますがこれは古いものではないようです。
ここは江南町樋春(現熊谷市)・・・江戸期までは樋口村、樋口とはその名のとおり川から農業用水(吉見用水)を取水する場所(現在の取水堰と水門)、中世の武蔵武士から帰農した平山家はこの樋管、用水路、荒川土手の維持管理にあたった名主だったようです。いまは母屋と1棟の土蔵のみですがかつては長屋門、何棟かの土蔵、塀に囲まれた堂々たる豪農の住まいであったことがうかがわれます。
重要文化財の古民家といっても個人の所有らしく小豆などを乾してあり、所有されているかたの庭先からお邪魔するようになっています。入館料は無料。
「古きを尋ねて新しきを知る」でした。
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