信州上田の・・・六文銭の写真帳
中山道長久保宿です。 国道142号線を佐久市方面から諏訪方面に、笠取峠(標高850m)を越えて国道を下りていくと旧道との分かれ道(標高729m)。旧道に入ります。急傾斜の道を下っていきます。この街並みは縦に進むから竪町。進んでいくとT字路になり左右に横町。
江戸から数えて27番目の宿場町。1843年の「中山道宿村大概帳」によれば宿の家数187、本陣1、脇本陣1、旅籠43軒、人口721人、たいへん栄えたようです。
旧本陣石合家・・・非公開ですが遺構として表門、御座敷棟(御殿)が・・・中山道最古(寛永年間1624年前後の推定)の本陣建築。
左側が高札場あとの復元(お触書などの張り出し場、公式の掲示板です)。
宿問屋小林家・・・明治3年(1870年)の大火で焼失、その後、再建。
東信地区には珍しい本棟2階造り、妻入り、二階の格子が江戸時代の様子を窺わせる。
釜鳴屋竹内家・・・酒造業、醤油、味噌醸造、1911年の屋敷図によれば敷地1500坪、棟数14、建坪491坪、うち母屋間口9.5間、奥行き10.5間。
切妻、平入、本うだつの堂々たる建屋、享保年間(1716~1736年)前の建築と推定、町屋造りとしては長野県最古といいます。
一福処濱屋・・・明治以降に旅籠として建てられたようですが、街道の時代は終わり開業にいたりませんでした。
間口9間、総二階、切妻平入り、出梁造り、総床面積400㎡の重厚な建物です。
今は長久保宿歴史資料館、観光客のお休みどころ、町民の語らいの場として使われています。駐車場があります。
石置き板葺屋根の家・・・江戸末期の旅籠「丸木屋」復元。
竪町を下りてくるとT字路に。街道の分岐点です(標高682m)。南北に横町。
大きな道しるべが・・・左ぜんこうじ道。右中山道(和田宿方面に)。
長久保宿と彫られていますから建てられたのか明治以降です。
左側が高札場あとの復元(お触書などの張り出し場、公式の掲示板です)。
宿問屋小林家・・・明治3年(1870年)の大火で焼失、その後、再建。
東信地区には珍しい本棟2階造り、妻入り、二階の格子が江戸時代の様子を窺わせる。
釜鳴屋竹内家・・・酒造業、醤油、味噌醸造、1911年の屋敷図によれば敷地1500坪、棟数14、建坪491坪、うち母屋間口9.5間、奥行き10.5間。
切妻、平入、本うだつの堂々たる建屋、享保年間(1716~1736年)前の建築と推定、町屋造りとしては長野県最古といいます。
一福処濱屋・・・明治以降に旅籠として建てられたようですが、街道の時代は終わり開業にいたりませんでした。
間口9間、総二階、切妻平入り、出梁造り、総床面積400㎡の重厚な建物です。
今は長久保宿歴史資料館、観光客のお休みどころ、町民の語らいの場として使われています。駐車場があります。
石置き板葺屋根の家・・・江戸末期の旅籠「丸木屋」復元。
竪町を下りてくるとT字路に。街道の分岐点です(標高682m)。南北に横町。
大きな道しるべが・・・左ぜんこうじ道。右中山道(和田宿方面に)。
長久保宿と彫られていますから建てられたのか明治以降です。
※撮影日は3月2日。
※長窪宿・・・が江戸時代の正式表記です。江戸時代に住民が「窪」の字を嫌って「久保」という美字・嘉字にしたいと幕府に申請しましたが認可が得られず、「長久保」の表記になったのは明治期になってから。「長窪」とは耕作に適した「長く伸びた沖積地」のこと。
※旅籠数43軒・・・近くの望月宿9軒、芦田宿6軒、和田宿28軒に比べて多い。中山道と大門街道、善光寺道、大内道などが交わる交通の要衝だった。
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