比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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中山道・・久下上宿と・・・元荒川の源流を尋ねる

2009-11-04 | 旧街道・峠道・旧宿場
10月28日快晴荒川のポタリング。吹上のコスモスアリーナから荒川左岸を下流にスタート。武蔵水路の糠田放水場を探索、糠田橋を渡り、右岸の河川敷内を北上、大芦橋を渡り、左岸を北上。堤防上を熊谷市久下のあたりへ。

旧中山道
堤防(輪型のの坂)を下りて権八地蔵(歌舞伎「鈴が森」の登場人物白井権八)の前を通り、久下小学校のほうに進む。

久下橋の下を通過してしばらく進むと普通の住宅の門柱の左横に大きな石碑が目に付きました。
此の街道旧中山道」・・・小澤利一書とあり、門柱の表札に小澤とありましたからおそらく、このお宅の方が旧中山道の証として建てられのでしょう。(戦災ヲ受ク)という文字が見えます。1945年8月15日未明の熊谷の空襲はここまで及んだのでしょうか。


門柱の右横にこんなものが。灯篭(常夜灯)のようです。上の部分を写真で切ってしまいました。
ここは久下上宿・・・下に右・吹上宿、左熊谷宿・・

《蘊蓄》久下上宿・吹上宿は中山道六十九次に入っていません・・・このような宿を間の宿(あいのじゅく)といいます。幕府公認の宿以外です。宿役人もいませんし旅篭も認可されません。それでも往来の激しい街道では宿泊収容能力(キャパ)がいっぱいになったり、旅人がこれ以上進めなくなった場合の宿は必要だったはずです。公然の無認可営業だったでしょう。
間の宿のもっとスケールの小さいのを間の村立場(たてば)といいます。

元荒川の源流を探る
1629年・・大プロジェクト・・・荒川の西遷、久下の瀬替
大宮台地の東側を流れていた荒川の流れを大宮台地の西側の和田吉野川に合流させます。

ここ熊谷市久下は荒川がチョン切られた場所。それまでの荒川は元荒川という小さな小川になりました。
その源流を探るのが今回のポタリングの目的でした。住宅街を小川が流れています。

道を横切ったり住宅街の間を流れたりしています。キレイな小川になってきました。

熊谷市佐谷田字八町・・・天然記念物ムサシトミヨの生息地。世界でここだけに住む小さなお魚です。この橋のそばに熊谷市ムサシトミヨ保護センター、埼玉県農林研究センターのコンクリート水槽があり、小川はこの橋の数10m上で忽然と消えてしまいます。


ということで元荒川の源流はこのあたりで地下からポンプで吸い上げられているのではないかと推定してこのポタリングは終了します。
ふたたび荒川の堤防の上をチャリでポタポタ。旧中山道はこのあたり堤防の上にルートがあったようです。堤防の上から元荒川の流れが見えます。元荒川はここから東に流れを向け越谷市中島で中川に合流し中川になって葛飾方面に流れ東京湾手前で荒川に合流します。


1629年・・荒川の西遷、久下の瀬替・・・徳川家光の時代に関東郡代伊奈半十郎忠治が開削を始めました。1594年に始めた利根川の東遷とともに江戸時代初期の大プロジェクト、目的は関東平野全体の治水、新田開発、水上流通路の開発などです。

熊谷市久下の堤防の上のどこかにこの大プロジェクトの歴史を刻む石碑のようなものがあるかなと尋ねましたが何もありません。このプロジェクトを仕切った技能集団、関東郡代伊奈一族も忘れられた存在になりました。
堤防の上に久下の冠水橋の歴史を刻む石碑がありました。

07年6月14日のブログ「荒川の西遷・・・久下橋」に久下冠水橋と伊奈家のことが書いてあります。

これにて吹上コスモス街道あたりのポタリングは終了です。自転車走行20km、歩行計10000歩。


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