比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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初冬の中山道・・・馬籠宿・・・藤村「夜明け前」・・・山の民の声が聞こえる

2019-02-05 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、妻籠宿、さらに南へ。
妻籠宿」から木曽11宿最後の「馬籠宿」にやってきました。
島崎藤村の大河小説「夜明け前」の舞台です。

馬籠宿脇本陣資料館・・・八幡屋・・・蜂谷家・・・
蜂谷家は脇本陣,酒造業、金融業などした富裕層でした。古文書、民具など展示。
裏庭には「木曽の五木(ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキ)が植えられています。

島崎藤村は「夜明け前」の執筆にあたり蜂谷家の初代源十郎から4代100年にわたって書き残された「八幡屋覚書」を借りて「備忘録」に整理して3冊にまとめました。

中は蜂谷家の隣にある大黒屋の残した「年間諸事日記帳」(通称大黒屋日記)。馬籠宿の年寄役(事務職)を務めたという酒造業、金融業大黒屋十代目大脇信興が1826年から1869年に至る41年間の日記。私的なものであるが公私にわたりこまごまと綴ったものです。中山道、馬籠宿の江戸後期から明治維新までの歴史そのもの。31冊、ページ数にして2000頁に及ぶ貴重なものです。藤村はこれを借りて「大黒屋日記抄」9冊にまとめました。

馬籠宿脇本陣八幡屋蜂谷家の「覚書」とともに藤村の「夜明け前」の書き起こすにあたっての貴重な資料となりました。
左は「年間諸事日記帳」と「夜明け前」の関連を研究した高木俊輔著の研究書です。

  

清水屋資料館です。
藤村が長男楠雄を馬籠に帰農させる際に親身になって世話をしてくれたのが清水屋の当主です。


※撮影日は11月27日、

島崎藤村の小説「夜明け前」は・・・「木曾路はすべて山の中である」ではじまります。贄川宿からはじまり馬籠宿まで・・・まさに「そのとおり」です。山また山・・・一筋の大河「木曽川」が流れます。冒頭の「木曾路は・・・」のフレーズ、1805年の秋里籬島「木曽名所図会」からの引用だそうです。引用であるか問題は残りましたが・・・それ以外のフレーズが浮かばなかったのでしょう。

小説は島崎藤村の父島崎正樹(小説では青山半蔵、馬籠宿本陣、問屋、庄屋、維新後に村の戸長)が時代の波に翻弄され、やがて心を冒され座敷牢で狂死するという物語りです。テーマは木曽の森林と民の関わりです。古来、平地の耕地のない山の民は山の恵みで生活してきました。時代が進み、尾張藩領になり巣山(鷹の営巣地)、留山(出入り禁止山)、鞘山(留山、巣山の周囲の山)が設けられ山の民が自由に入っていた明山(入会山)が制限されます。それでも明山は80%あったそうです。ただ木曽五木の規制は明山まで及び、焼き畑も出来なくなりました。ただこの規制は結果的には濃尾平野の治水にもなり、乱伐を防ぎ、わずかでしたが明山の解放は間伐により美林の造成にもなりました。青山半蔵は明治の御一新で明山が拡大化されることを期待していましたが、明治政府はさらに規制を強めます。官有林は80%に拡大されました、半蔵はいろいろな請願運動を試みますがすべて黙殺され自滅してき座敷牢の中で狂死します。明治維新・・・木曽の民にとって「夜明け」を迎えることなく近代国家に突き進んでいきます。青山半蔵は庄屋、戸長という地方行政の末端の首長として民の声を御上に訴えていました。明治という近代化の波、国益と民の生活、おいていかれる山村僻地、今日に通じるテーマです。島崎藤村は没落してゆく実家を描いて山の民の声を叫んでいたのでしょう。近代日本文学の後世に残る作品だと思います。
馬籠の人たちは島崎藤村が世に問うた「馬籠村のオカシラ青山半蔵の声」を大事に守っています。

※父島崎正樹の請願運動は実を結ぶことなく悲劇的な最後を迎えましたが、そのあと正樹の二男広助(妻籠宿本陣に養子)が遺志を継いで払下げ請願運動を繰り広げ明山の払い下げは実現できませんでしたが1905年(明治38年)御下賜金(補償金)を木曽の町村に対して24年間年1万円(現在の金額に換算して1億円程度か)という形で解決を見ました。そのご貨幣価値の変動により年4万円に。木曽の民にとって金ではなく山を欲しかった・・・まさに明けない夜はないといいますが、夜明けは来なかったのです。


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