埼玉県東松山市の原爆の図・丸木美術館・・・「ひろしま忌2010」・・・
被爆者西本宗一さんのお話のあとは《平和の祈り》コンサート・・・50人の大合唱です。
栗本文昭さんが主宰する栃木県宇都宮市を中心に群馬、千葉、東京、松本など15の合唱団のユニット「栗友会合唱団・・・
「死んだ男の残したものは」「暁に祈る」「海ゆかば」「一本の鉛筆」「水ヲ下サイ」「ひろしま平和の歌」「大地賛歌」など。
軍歌もあります。今はもう軍歌を口ずさめる年代の人もわずかになりました。居酒屋で軍歌を放歌高吟もありません。この歌が軍国主義の復活だなんて顔をしかめる人もいないでしょう。何しろ65年も経ったのです。
「暁に祈る」(野村俊夫作詞・古関裕而作曲)は戦意高揚歌として作られたのだそうです。
歌は時代を反映し聞く人によってそれぞれの受け取り方があると思います。私はなぜかこの歌を聞くと涙が出ます。凍てつく凍土の上や熱帯のジャングルの中に朽ちていったかたがたの死が悔しいのです。
「海ゆかば」(信時潔作曲・詞は万葉集大伴家持の長歌より)、大伴家時の長歌「賀陸奥国出金詔書歌」というので東北地方で金鉱が発見されてめでたい、わが大伴一族(大王のお伴をする親衛集団)は大王(おおきみ・・・ヤマト王朝の親玉)に忠誠を励むぞというようなことを歌っていますがよくわかりません。パクリでイイトコ取りです。戦意高揚歌で歌われたようですが、その哀調を帯びたメロディーでしだいに出征兵士を見送る歌から戦死した兵士の鎮魂歌として歌われるようになったようです。この歌も聞いていてジーンときます。悲しくて悔しいのです。
軍歌も歴史の中の1頁として見るべきでしょう。どう捉えるかはそれぞれの問題です。
素晴らしいハーモニーでした。このあと「とうろう流し」があったのですが、遅くなるので帰りました。
被爆者西本宗一さんのお話のあとは《平和の祈り》コンサート・・・50人の大合唱です。
栗本文昭さんが主宰する栃木県宇都宮市を中心に群馬、千葉、東京、松本など15の合唱団のユニット「栗友会合唱団・・・
「死んだ男の残したものは」「暁に祈る」「海ゆかば」「一本の鉛筆」「水ヲ下サイ」「ひろしま平和の歌」「大地賛歌」など。
軍歌もあります。今はもう軍歌を口ずさめる年代の人もわずかになりました。居酒屋で軍歌を放歌高吟もありません。この歌が軍国主義の復活だなんて顔をしかめる人もいないでしょう。何しろ65年も経ったのです。
「暁に祈る」(野村俊夫作詞・古関裕而作曲)は戦意高揚歌として作られたのだそうです。
あぁ あの顔であの声で 手柄頼むと妻や子が
千切れるほどに振った旗 今日も瞼にまた浮かぶ
あぁ 傷ついたこの馬と 飲まず食わずの日も三日
捧げた命これまでと 月の光で走り書き
千切れるほどに振った旗 今日も瞼にまた浮かぶ
あぁ 傷ついたこの馬と 飲まず食わずの日も三日
捧げた命これまでと 月の光で走り書き
歌は時代を反映し聞く人によってそれぞれの受け取り方があると思います。私はなぜかこの歌を聞くと涙が出ます。凍てつく凍土の上や熱帯のジャングルの中に朽ちていったかたがたの死が悔しいのです。
「海ゆかば」(信時潔作曲・詞は万葉集大伴家持の長歌より)、大伴家時の長歌「賀陸奥国出金詔書歌」というので東北地方で金鉱が発見されてめでたい、わが大伴一族(大王のお伴をする親衛集団)は大王(おおきみ・・・ヤマト王朝の親玉)に忠誠を励むぞというようなことを歌っていますがよくわかりません。パクリでイイトコ取りです。戦意高揚歌で歌われたようですが、その哀調を帯びたメロディーでしだいに出征兵士を見送る歌から戦死した兵士の鎮魂歌として歌われるようになったようです。この歌も聞いていてジーンときます。悲しくて悔しいのです。
軍歌も歴史の中の1頁として見るべきでしょう。どう捉えるかはそれぞれの問題です。
素晴らしいハーモニーでした。このあと「とうろう流し」があったのですが、遅くなるので帰りました。
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このブログは私のものであり論争を交わす場所ではないということもご承知ください。
また山下さんの意見は私がどういうべきか、私には資格もありません。山下さんが自分のメッセージの発信の場を作られることが大事であると思います。ブログとはそうしたものです。
東松山の丸木美術館の「ひろしま忌」近い場所ですので毎年いっています。あの歌はぬやまひろしの「ミズヲクダサイ」や「一本の鉛筆」や「ひろしま平和の歌」の中で歌われました。山下さんのような考えを想起させるためだったかもしれません。人それぞれの考え方は私にはわかりませんが。
一昨年は念願の広島の平和記念公園に行ってきました。少しむかし長崎平和祈念像に向き合いました。井の頭公園に平和祈念像の原型もあります。
私は戦争のことを子ども時代に少し知る年代。長い平和の時代を生きてこられました。戦争のことを語り継ぎ平和な時代がこの先も続くように願っています。
山下さんにお願いします。ぜひ自分の意見を発信できる場所を作りおおぜいの人に発信してください。応援します。
これは極端な例ですが、こうした憎しみの連鎖が、世界中の歴史の中では、民族や宗教による憎悪といった形で、さまざまな形で進行中なのです。これまで私はインド・パキスタンの宗教・民族紛争などに少し関係してきたことからも、こうした問題の難しさは自覚しているつもりです。
それだけに、中国の南京虐殺にしても、(虐殺した人数ではなく)きちんとした日本国家の謝罪を行っていくことが必要ですが、(現在、日本と中国の間には、尖閣列島の問題だけでなく、非常にギクシャクとした関係になっており、特に中国の若者たちは日本に対しては憎悪といった感情を強くもっているのを感じるのです。こうした気持ちは、現在の経済や社会関係に大きな影響を与えています。
日本をよく知る著名な哲学者が「日本は実に素晴らしい数多くの輝かしい業績を歴史の中に打ち立てたが、かれらは反省しない民族である。反省しない民族は普遍的であることはできない」と言っていたのが印象的でした。
現在は、広島の原爆慰霊碑で、額ずいて謝罪するアメリカの姿と同時に、日本も真珠湾や南京で謝罪する姿が相互に必要になっているのです。これこそが歴史の中で寛容の精神を育てていくことではないでしょうか?
昨年は、アメリカの駐日大使が、初めて広島の原爆式典に列席しましたし、前年には、中国の駐日代表も原爆式典に列席しているのです。日本の大使が、南京を訪れて、式典に列席したことがありますか?
日本を文句なしに愛するといった偏狭的なナショナリズムや愛国主義は、人々を感情的で盲目的に駆り立ててしまいます。資源や環境問題などで、現在の人々が、世界中で煽り立てられている厳しい環境の中で、戦争中に人々を煽った軍歌を流し始めていくことは、よくよく考えて行わなければならない重大なことだと思っています。こうしたことをよく考えて行えることが国際文化の中での大きな役割なのです。
”原爆美術館の丸木美術館”は、このような意味を踏まえて、2011年の式典を行ってもらいたいと思いますね。私には、なんの説明もせずに”海ゆかば”や”軍艦マーチ!を現代の若者たちに流すことができません。そしてそのような形で、愛国主義的な言動をとりたいとは思いません。
歴史の継承とは、どのような短い歌詞でもメロディでもその背後にある「戦争で傷ついた人々、あるいは人々を傷つけた痛苦の意味や責任をきちんと伝えていくことが必要ではないかと思います。隣国の韓国、中国、フィリピンなど、日本がどのような方向性をたどろうとしているのか、彼らはいつも痛苦の歴史体験から見ているのです。
日本のこれからの方向性は、こうした点をきちんと踏まえていくことから自然に湧いてきます。私は、左翼でも右翼でもありませんが、今もって、日本に哲学が生まれていないのは、反省していない民族だからと思うのです。
私の時代、この歌を聞いたのが幼年でしたのでそのようなことは知りません。田舎のことですが出征兵士がお骨になって帰ってきたとき歌わされました。「辺にこそ死なめ」は「屁」と子供心に思ってました。日露戦争の戦意高揚歌「戦友」は太平洋戦争では軍により禁止されたそうです。「暁に祈る」も「戦友」と同じ響きを持っています。
「貴様と俺とは」はもう放歌高吟する人はいないでしょうね。年月がそうなったのです。軍歌を知ってる人も少なくなってきました。
丸木美術館ではこの課題にどう対処したかTB「今日考えたこと」をお読みください。
私は丸木関係者ではありません。
NHKの845ニュースでは軍歌のみの放映でしたが、原民喜の「水ヲ下サイ」や「一本の鉛筆」などの曲の流れの中で歌われました。
私的にはこれらの歌の歴史的背景を読み取っていくことは大事なことだと思います。文中に書いたようにどう捉えるかはそれぞれの問題であるというのが私のスタンスです。
海ゆかば水漬く屍
山ゆかば草むす屍
大君の邊(へ)にこそ死なめ
かえりみはせじ
海を行けば、水に漬かった屍となり、
山を行けば、草の生す屍となる。
しかし天皇のおそばで死ぬのだから、
決して後悔はしない。
というような意味で、戦時中には、大本営発表の戦況報道の時に、戦果が挙がれば軍艦マーチ、玉砕して敗れた時には「海行かば」が演奏されていたそうです。「天皇陛下万歳」と叫びながら、突撃して玉砕した日本の軍人にとっては、「大君のへにこそ死なめ」という歌詞は非常に重くのしかかっていたのです。ですから戦時中の人々にとっては、「海行かば」は悲しい戦時中を思い起こさせる痛切な曲になっているそうです。この歌は一般市民が亡くなったときよりも、軍人が亡くなったときに演奏されていたようです。
多くの人々は、さほど気にしなかったとは思うのですが、原爆美術館として知られた丸木美術館のコンサートで、この音楽が歌われたということはなかなか複雑で、今の時代がもっている本質的な問題のような気がします。戦争の周辺文化の伝承がきちんと行われていないことを感じます。原爆で被災した人々は、軍人ではなく一般市民です。被爆してなくなった人々や被災者の方々は、この歌をどのように感じられたのでしょうね?
今度、丸木にいらっしゃったときには、ぜひ、声をかけてください。
P.S.トラックバックもありがとうございました。
追悼する会が行われているということ。
嬉しい気持ちと、また
感動を新たにしています。
65年平和な時代をすごした私たちは、次の世代にそれをつなげなくてはいけませんね。
誰でもそう思いますね。「妻や子の」の顔が瞼に浮かんだでしょうね。
65年、いい時代を生きました。綱渡りのような政治をしていますが、これからも戦争のない時代が続いてほしいです。何よりも経済が発展して暮らしが安定していいですね。
満州の引揚げ、満人(土地を取り上げられ自国を踏みにじられた)の暴動もありましたが、日本人の加害の歴史もあり戦争の悲惨さを感じます。ソ連兵の傍若無人も戦争の恐ろしさです。見ず知らずの日本人に食べ物をくれた満人もいたそうです。放置されて死んでいく赤子の養い親になってくれた満人もいました。八路軍の規律の正しさは引揚げてきた人に聞かされました。人民軍になった今はどうなんでしょうね。
「海ゆかば」などの軍歌も歌うが、戦争を肯定する立場からではなく歌う、と解説していたような気がします。
きっと、ヒキノさんは聴きに行っているだろうなと思いました。
やはり、聴いてこられたのですね。
私も、「暁に祈る」や「海行かば」のメロディを聴くと思わずジーンとなります。
亡くなった方の無念さを思うと、悔しくて悲しいです。
今度戦争が始まったら、地球が滅亡してしまうだろうと思うと、相変わらず、核開発にうつつを抜かす国があることに非常に不安になります。
原爆の恐ろしさをもっと世界中の人が認識してくれるには、私たち庶民は何をすればいいのか、真剣に考えていまいます。
久しぶりの埼玉を楽しんでください。
わが親戚の伯父などから当時の悲惨な出来事を聞いたことがあります。腹立たしさと虚しさが沸き起こってきました。
戦争は二度と嫌です。笑顔が消え、憎しみと怖い顔だけですから・・・後世まで・・・。
殺された叔父と親戚のおにぃちゃんは、19歳でした。
東松山市は母の故郷に近い場所です。
母と丸木美術館に寄ってきたいと思います。
限られた時間なので、母と沢山想い出を
作りたいと思います。
遠くにいる私に沢山の情報を教えてもらって
いつもありがとうございます。
心が痛みますね・・・
ほんま 悔しい
考えてみれば我が身も全然生まれで、S22年、25年には広島へ行ってるようです。
S25年の記憶は少し残っています。