比企の丘

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いまから35年前・・・2月25日広島・・・ローマ教皇パウロ二世の平和アピール

2016-02-25 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
1981年2月23日~26日、カトリック教会の最高指導者、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は初めて日本を訪れ、東京、広島、長崎を訪問した。
2月25日、広島平和記念公園において約25000人の観衆を前に、九ヶ国語で平和アピールを行いました。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死そのもです。」
の日本語ではじまり
「戦争と核兵器の脅威にさらされながら、それを防ぐための、各国家の果たすべき役割り、個々人の役割りを考えないですますことはゆるされません。」後略

四條知恵著「浦上の 原爆の語り 永井隆からローマ教皇へ」(未来社 2015年刊)という本を読んでいたらいまから36年前に日本を訪れたローマ教皇の「平和アピール」に触れた。この本は現在、長崎大学核兵器廃絶研究センター客員研究員である四條知恵の博士論文であり重い本で、内容をすべて紹介できないので文中に引用された上記の「平和アピール」を紹介するにとどめます。

永井隆著「長崎の鐘」(日比谷出版社 1949年刊)自らも被曝しながら、被爆者の医療にあたった長崎医科大学助教授永井隆が1946年8月に書き起こした随筆、出版を企画したがGHQ(進駐軍連合軍総司令部)の検閲で許可されず(非許可の理由は連合軍側の行った原爆の非人道的な赤裸々の惨状を公開したくなかったのであろう)、永井隆と親交のあったあった精神科医の式場隆三郎らの尽力によりようやく1949年1月に日比谷出版社より発刊、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集「マニラの悲劇」を合本とする条件付きで許可されたといいいます。
原本は藁紙よりもっとひどい粗悪な紙に印刷されたものでしたが活字情報に餓えた当時たちまちベストセラーになりました。そして原爆の惨状を日本中の人々に伝えました。
敬虔なカトリック教徒であった永井隆は原爆投下を「神の摂理」、原爆死没者を「汚れなき小羊の燔祭」、生き残った被爆者は「神が与えた試練であり、神に感謝」すべきと説いていたこと後年に指摘されています・・・浦上燔祭説(燔祭=生け贄の儀式)。
ただ永井隆自身、医学者ではあったが原子物理学者ではなかったため核に対する認識は浅かったかもしれません。

…ようやく原爆投下から36年後の1981年、カトリック総本山バチカンンのローマ教皇の「平和アピール」が行われました。


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2 コメント

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もし・・・・・ (こきおばさん)
2016-02-28 06:13:08
もし今、永井博士が居られたら、今でも「神が与えた試練・・・」だとおっしゃるでしょうか。
どんな言い訳をしても、どんなに正義を振りかざしても、戦争は人の殺しあいです。神様はそんな試練をお与えになるとは思えません。
ローマ教皇の仰る通りです。
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長崎の鐘 (こきおばさんへ・・・ヒキノ)
2016-02-28 08:33:49
本になって、歌謡曲になって、映画になって・・・敗戦後の全国の人々に原爆とは何かと教えてくれました。
映画を見たのは中学生の時、体育館で見ました。
永井博士は奥さん、二人の子どもを亡くし、自分も重傷を負いながら、被爆者の治療に当たります。生き残った二人の子どもに「平和憲法」のことも書き残しています。
本の原稿はGHQが原爆の惨状を秘密にするために発行不許可にしていました。アメリカのスミソニアン博物館での原爆展はいまでも催行することはできません。本の発行は式場隆三郎(山下清の発掘者)の尽力があってこそです。
原爆燔祭説が一部で問題になりましたが、それを越えて一般大衆に原爆のことを知らしめたことは大きいし、長崎原爆の象徴になったと思います。
各平和利用論も謂われています。彼自身レントゲン治療研究舎ですからそう思っていたと思います。いまいわれている核分裂の脅威まで認識していなかったでしょう。
燔祭説、仏教では「法難」という言葉があり、敵を憎まないというキリスト教的な考えから出たかもしれません。
四條さんの本は、読みこなせませんが、最後にローマ教皇の「平和アピール」で納得がいきました。
「核の脅威」に、各国は何も役割を果たしていませんが。

↑のブログの稿はこれから書き足して行こうかと思っています。古いブログの稿に閲覧が来るのがわたしのブログの特徴ですから。

コメントありがとうございました。
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