信州上田の・・・六文銭の写真帳
松本城から北へ500m・・・2019年国指定国宝・・・「旧開智学校校舎」へ。
明治6年(1873年)開校、明治9年(1876年)竣工の「開智学校」・・・明治5年(1872年)、新政府は「学制」を公布、6歳以上の義務教育を決め、学校の建設など教育の推進を計ります。これをうけ当時の筑摩県では1873年松本城下の廃仏毀釈で廃寺になった寺の跡地の仮校舎で小学校を開校、筑摩県権令永山盛輝の主導で校舎を1875年起工、1876年完工させました。建設費11000円、70%を松本町民の寄付で、30%は特殊寄付金で。
設計、施工は地元の大工の棟梁立石清重。東京、横浜の洋館をつぶさに見て研究したといわれます。
擬洋風建築・・・素晴らしい匠の技です。
木造2階建、寄棟造、桟瓦葺。正面に車寄・2階バルコニー、建屋中央には廻縁付の八角塔屋。
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1961年国指定重要文化財、1963年学校現場としては廃校、記念館に。1964年松本市中央から現在の地(松本市開智)に解体移築修復。
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内部は公開されています。
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※撮影日は9月3日。
※永山盛輝(1826~1902年)・・・薩摩藩士、勘定奉行、江戸留守居役、明治政府官僚、政治家、貴族院議員、男爵。永山が筑摩県の権令の間に設立された学校は100数10校。薩長閥の官吏であったが教育理念に燃える能吏であったのだろう。短期間ではあったが明治初期の長野県の教育を推進し「教育権令」ともいわれました。1875年新潟県令に。※明治維新前後の長野県の教育事情・・・1883年の調べによれば江戸末期の寺子屋数は全国で15560、信濃国で1341(全国比8.6%)。1875年の小学校就学率は全国平均で35%、筑摩県(中信、南信)で72%、長野県(北信、東信)で59%。これがのちに長野県は教育県といわれた理由。山岳県で耕地率少なく長男以外は外に出ていかざるを得ず読み書き算盤が必要だったといわれます。
※立石清重(1829~1894年)・・・松本城下の大工の棟梁。この設計に際し上京、東京、横浜で洋風建築をつぶさに研究、開成学校、東京医学校(ともに東京帝大の前身)を模したといわれます。東京医学校はいまも小石川植物園内に保存されています。主な建築‥・長野県会議事堂、松本裁判所、大町裁判所、長野師範学校松本支校、旧制東筑摩中学校(現松本深志高校)など。
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と先生から教えられました。
それには、この松本「開智学校」の説明があり納得した。
話には聞いていましたが、直接目に触れ見学したのは、思考能力が停止した70歳前後で有ったと記憶しています。
松本の開智学校学問礎
推進施しや読み書き算盤 (縄)
江戸時代末期の寺子屋の多さ、明治期の義務教育学校の設置の速さが、そういわれるようです。
貧乏県、跡取り以外は奉公に、親はせめて読み書きソロバンを子供に身につけさせ送り出したようです。
学校建設は当時の自治体負担、村は入会山(共有林)を学校林にして校舎の建設費、教育予算にあてたようです。
開智学校のすごさは、この建設費が、すべて民間の浄財から出されたことです。
・文明の 開化を語る 開智校
・山奥の 廃校の机 ナイフ跡
明智学校は最先端を走っていたのですから、
学校林と言う制度最も早かったのではないでしょうか。
読んでいてそんな気がしました。
吉田にも学校林があり、新制中学校校舎を作る際に足しにしたようです。植林もしました。
木材も輸入材で価値が下がりました。
https://blog.goo.ne.jp/tsyouji5243_001/e/f26d4f4f57b427e3a079634cd31bff33