比企の丘

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彩の国深谷・・・近代資本主義の父・・・渋沢栄一の生家にやって来た

2015-02-14 | 古民家の風景
彩の国深谷市岡部、埼玉に18年ぶりで訪れた渡り鳥ナベヅルを見に行ったときの、その土地の見て歩る記です。
深谷宿の常夜燈、岡部藩の陣屋跡、長屋門、江戸時代初めに開削された備前渠川、そして近代資本主義の父「渋沢栄一(1840~1931年)」の生家のある血洗島にやってきました。
血洗島村(1889年、8ヶ村が合併して手計村に、1890年八基村に改名、1954年豊里村に、1973年深谷市に合併)。
深谷市血洗島(ちあらいじま)というブッソウな地籍です。地名の由来には諸説がありますが、①利根川の氾濫でたびたび地()が流された(洗われた)、②地が荒れている(痩せている)、③アイヌ語で北の果て(気仙)・・・ケセンがチセン・・・血洗・・・になった。どれもホントに思えるが・・・。

さて、渋沢栄一生家「中の家」です。

堂々たる四本柱、切妻屋根の正門です。建築様式では医薬門といいます。

1895年建造の主屋。典型的な養蚕農家の家です。奥行き5間、間口9間。切妻二階建て。二階は養蚕室、屋根には養蚕用の煙出(温度調節)があります。屋号は「中の家(ナカンチ)」。名字帯刀を許された本百姓、村三役クラスの家です。明治の時代には養蚕、藍玉生産販売、雑貨商、質屋業を営んでました。


上がり端から見た表側の部屋。10畳間が3部屋続きます。裏側の部屋も同じ間取りです。

長男である栄一が1865年、家を離れたため妹貞が婿市郎を迎え1980年代に養蚕を拡大するために立てなおされ1895年火災で焼失、同年再建。妹夫婦は渋沢家を大いに栄えさせた。1983年埼玉県指定旧跡に、市郎の孫嫁多歌子が1983年「学校法人青淵塾国際学園」を設立、外国人の日本語・日本文化研修施設として43ヶ国679人の留学生が学んだ。学園は2012年解散、2012年深谷市の帰属となり深谷市指定史跡に。

佐野真一著「渋沢家三代」(文春新書 1998年刊)

渋沢栄一の本についていろいろ読みました。どれもが業績を讃えた偉人伝です。ようやく、この本にたどり着きました。栄一の私生活、栄一の長男篤二の遊芸への耽溺による挫折、孫敬三の経済人とアカデミズムとのあいだの葛藤、・・・アリノママに記しています。

近代資本主義の父「渋沢栄一」と言っても知ってる人はほとんどいないでしょう。明治の時代、官営富岡製糸場、第一銀行の創設で知られ数々の会社設立にかかわった人です。東京証券取引所、日本レンガ、秩父セメント、帝国ホテル、日本郵船、東洋紡、王子製紙、東京ガス、東京火災海上、京阪電鉄、キリン、サッポロ、数え上げたらキリがありませんが今はキレイに渋沢の名前が消えてます。

この人の孫の渋沢敬三という人。「栄一」の偉業には遠く及ばないかもしれませんが、終戦直後の日銀総裁、大蔵大臣を勤め、自分の会社「渋沢財閥」を含め三井、三菱などの財閥を解体した人です。財閥解体と財産税でスッテンテンになった人ですが民俗学に造詣が深く私財を投じて研究者たちに援助を惜しみませんでした(現在の貨幣価値にして100億円余といわれます)。民俗学の父とも言うべき人です。

渋沢家三代」は偉人伝では書いていない別の角度から見たホントウの渋沢栄一を知る本であると思います。

※熱心に説明してくれたボランティアのかたに感謝。ありがとうございました。
深谷を訪れたかた、ぜひ尋ねてみてください。


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