比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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郡上八幡(終章)・・・郡上踊り・・・郡上一揆の声が聞こえる

2010-10-28 | 道をゆく 東海・中日本
10月7日、郡上八幡の町、ウダツ(卯建)の上がった家並みが続きます。
国指定重要無形民族文化財「郡上踊り」の町です。日本三大盆踊り、日本三大民謡。

  郡上のなア~ 八幡でて行くときは
     雨も降らぬに 袖しぼる
と歌われる
郡上節
の中の「かわさき」ほか全10曲で、7月中旬から9月上旬まで延べ32夜踊られるという。すごいエネルギーです。いまは旅行社の観光の目玉として商品化され8月中旬の盂蘭盆会の4日間の徹夜踊りだけでも観光客が25万人に達するそうです。





何がそこまで奥美濃の小さな町の人たちを惹きこんでいるのでしょう。近世初め初代藩主の遠藤家が領民の親睦のために奨励した念仏踊りが起こりともいわれますがそれだけでしょうか。江戸時代中期この山の奥の小藩に明暦金森騒動という一揆が起こり藩主が改易という前代未聞の結果・農民勝訴で終わります(もちろん百姓側にも犠牲者がでますが)。代わった藩主青山氏が四民融和を図るために奨励したといわれます。

因みに》宝暦金森騒動・・・郡上一揆・・・とは
美濃国郡上藩金森家38000石(飛騨高山藩から出羽上山藩に移封、さらに郡上藩に移封)の1754年、財政逼迫していたのでしょうか。百姓年貢を定免制(数年間の平均収穫から計算)から検見制(1年ごとに収穫調査で計算)に切り替えます。税制改革?です。江戸表の支出がよほど多かったのでしょうか。一説によると殿が将軍の奏者番を拝命したため出費が多くなったいう。支出を補填するために増税という図式です。
郡上藩、80%以上が急峻な山、長良川の流域のわずかな平地が耕作地です。百姓にとって生死にかかわったのでしょう。命がけの抵抗が始まります。抵抗勢力を「立て百姓」といいました。藩側も幕府高官、美濃郡代まで引きずり込み、百姓側は江戸表まで出向いて駕籠訴、箱訴にまで及びます。1758年幕府は老中酒井忠寄ほか5名に詮議を命じ、藩主金森頼錦は領地没収、お家断絶、郡上藩の関係スタッフも死罪、遠島、追放。幕府高官の老中本多正珍ほか若年寄、美濃郡代らが免職など。結果としては百姓側の全面勝訴、幕閣、藩主にまで罪が及んだの江戸時代唯一の判例ですが・・・・・百姓側の犠牲者は牢死21名、死罪14名。命と引きかえの強訴でした。

32夜の盆踊り・・・郡上一揆で命を捧げたお百姓衆に捧げる鎮魂のセレモニーのように思えてなりません(わたしだけの解釈ですが)。


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2 コメント

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有難うございました。 (こきおばさん)
2018-11-23 15:17:51
郡上八幡について、4回にわたったブログに、教えられることばかりでした。
次に行く機会がありましたら、お城に上って町並みを一望したいと思います。
水が豊富で日本酒がおいしい所のようですね。
村田君も「とにかくここの人たちは日本酒をよく飲むみます」と言っていましたっけ。次に行ったら地酒を飲んでみたいと思いました。
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小さな町ですから (こきおばさんへ・・・)
2018-11-23 19:26:58
歩いても10分くらいでひと回りできます。ゆっくり見物しても1時間。
歩いていると大男が声をかけてきました。蕎麦屋のオヤジ、埼玉の家のすぐそばの大東文化大学のラグビー部のOB、気さくないい男でした。
町を歩いていて道を尋ねたりしてもみな優しくて親切でした。
お城は車でないと・・・上からの眺めは絶品でした。
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