10月6日、朝の高山を散策、宮川に沿って越中街道を富山に向かう。古川を過ぎると宮川に沿って進む越中西街道、数河高原を越えて高原川の谷に出る越中東街道に別れる。神岡の町(現飛騨市)を見たかったので東街道(国道41号線)を選び、野口という集落から数河(すごう)高原に。約900mの(分水嶺)を過ぎると山田川に沿って下って高原川と合流したところが神岡の町。
神岡城址の高台から神岡の町を俯瞰してみました。高原川を渡る中央の橋が西里橋、橋の左岸が中心部、下流の橋のあたり右岸がかつての神岡鉱業亜鉛精錬所。橋の左岸に今は廃駅になった神岡鉱山前駅があります。
大きな町です(でしたというほうがいいかもしれません)。今から50年ぐらい前の鉱山最盛期には人口27000人、2004年には10000人という数字があります。現在の人口はわかりません。
神岡の町を俯瞰した神岡城址にある擬城。神岡城は戦国時代の1564年築城され、1615年一国一城の定により取り壊され石垣と堀のみが残されました。1970年三井金属鉱業100周年記念事業で模擬天主閣、模擬城門、鉱山資料館、郷土館が作られたのだそうです。
擬城ですから入城しませんでした。
城址を出て国道471号線を下りていき橋を渡ると廃駅の神岡鉱山前駅、ここからふたたび国道41号線で富山方面に、三井金属エンジニアリング、神岡鉱業所、道が狭く駐車するところが見つからないので、ちょっと遠いところで工場群を撮りました。
神岡鉱山・・・奈良時代養老年間720年ごろから採掘が始まり、銀山として本格的に採掘が始まったのは江戸時代金森氏支配のころから。そのご幕府支配になり、明治の時代に三井組が零細な山師の持つ権利を買収していき、1886年和佐保抗(現神岡中心部)、1889年茂住抗を取得、神岡鉱山すべての事業者に。多額の資本投下と近代的な技術を導入して大規模の採掘を行い、2001年採掘を中止。東洋一の鉱山として栄えた神岡は三井金属鉱業の城下町でした。
上の写真の拡大写真です。
現在、スーパー・カミオカンデ・・・神岡鉱業茂住抗の坑内跡地地下1000mに世界有数の精密物理実験サイト、東京大学宇宙線研究所のニュートリノ観測装置が建設されている・・・といっても何のことかわからない。
さらに複数の団体が鉱山跡地の地下約100メートルにSun Modular Datacenterを用いたデータセンターを設置することを計画しているというが、何のことかわからない。
ここで神岡に住む人にとってたいへん辛い話ですが、イタイイタイ病について語らねばなりません。
イタイイタイ病・・・日本の公害病の政府認定の第1号。
咳をしても重い布団をかけても骨が折れるという奇病です。
神岡を流れる高原川は富山県に入ると名前を変えて神通川に。その神通川の流域にイタイイタイ病と考えられる病気が江戸時代すでにあったようです。医師に病例として取り上げられるようになったのは大正期から昭和の始め頃ですが定かではありません。明治期に精錬技術が進歩して亜鉛が大量に生産されるようになってからかも知れません。1955年富山県熊野村(婦中町→富山市)の開業医萩野昇が富山新聞に「イタイイタイ病」と名づけて紹介、1957年富山医学会に「鉱毒説」の論文発表、1961年原因をカドミウムと発表。
富山県、厚生省、文部省も独自に原因究明、1968年神岡鉱業の亜鉛鉱石の処理活動から排出と認定、政府認定の公害病第一号に。
1968年三井金属を相手に訴訟が始まり、いずれも原告が勝訴、三井金属も上告を断念、損害賠償の和解に応じることになりました。
発生源対策として1972年から年に1度立ち入り検査も行われているようです。
新田次郎の小説「神通川」
富山県婦中町の「学問もない、地位もない、バックもない」開業医萩野昇と神通川の扇状地に広がる奇病との戦いがテーマです。水質検査、ウイルスの検査、没落地主のわずかに残った田畑まで処分し自費で研究に没頭します。岡山大学理学部の小林純の協力を得てカドミュームの存在を見つけ神通川の上流高原川の三井金属鉱業㈱神岡鉱山の亜鉛鉱石の精錬によるものであることをつきとめます。いつの世でもあることですが古い学閥の体制側からや企業に与する側から誹謗・中傷、脅迫・妨害、バッシングを受けます。1967年国会参議院で証言、1968年公害病の認定。三井金属は1968年提訴され、1971年原告が勝訴しました。
小説は太平洋戦争敗戦後、ビルマ戦線から帰還した医師萩野昇が爆撃により廃墟と化した富山市内を歩いて神通川の有沢橋の畔の川に下りて水を掬って飲み干し
「いかなる河川も、その美しさにおいて故郷の神通川に及ぶものはなかった」
と心の中でつぶやくところから始まり、ビルマ戦線の敗走中、軍医である彼に連れて行ってくれと手を差し出す重傷兵とイタイイタイと泣き叫び彼に手を差し出す患者の手が重なり合って見え、神通川に白い虹が出るところで終わります。
小説はこの訴訟中の1969年学習研究社より発刊
石牟礼道子が「苦界浄土」の執筆を始めたのは1965年、水俣病が勝訴したのは1987年、イタイイタイ病に遅れること18年です。
日本における公害の歴史は明治時代の渡良瀬川上流の足尾鉱山から始まります。水俣病、第2水俣病、イタイイタイ病、四日市病、最近はアスベストも問題になっています。新しい技術で新しい物質を作るときそれがどのような結果になるか予測することは困難かも知れません。それにしても万全の体制をとって対処してもらいたいものです。それが国や企業の責任でしょう。
神岡城址の高台から神岡の町を俯瞰してみました。高原川を渡る中央の橋が西里橋、橋の左岸が中心部、下流の橋のあたり右岸がかつての神岡鉱業亜鉛精錬所。橋の左岸に今は廃駅になった神岡鉱山前駅があります。
大きな町です(でしたというほうがいいかもしれません)。今から50年ぐらい前の鉱山最盛期には人口27000人、2004年には10000人という数字があります。現在の人口はわかりません。
神岡の町を俯瞰した神岡城址にある擬城。神岡城は戦国時代の1564年築城され、1615年一国一城の定により取り壊され石垣と堀のみが残されました。1970年三井金属鉱業100周年記念事業で模擬天主閣、模擬城門、鉱山資料館、郷土館が作られたのだそうです。
擬城ですから入城しませんでした。
城址を出て国道471号線を下りていき橋を渡ると廃駅の神岡鉱山前駅、ここからふたたび国道41号線で富山方面に、三井金属エンジニアリング、神岡鉱業所、道が狭く駐車するところが見つからないので、ちょっと遠いところで工場群を撮りました。
神岡鉱山・・・奈良時代養老年間720年ごろから採掘が始まり、銀山として本格的に採掘が始まったのは江戸時代金森氏支配のころから。そのご幕府支配になり、明治の時代に三井組が零細な山師の持つ権利を買収していき、1886年和佐保抗(現神岡中心部)、1889年茂住抗を取得、神岡鉱山すべての事業者に。多額の資本投下と近代的な技術を導入して大規模の採掘を行い、2001年採掘を中止。東洋一の鉱山として栄えた神岡は三井金属鉱業の城下町でした。
上の写真の拡大写真です。
現在、スーパー・カミオカンデ・・・神岡鉱業茂住抗の坑内跡地地下1000mに世界有数の精密物理実験サイト、東京大学宇宙線研究所のニュートリノ観測装置が建設されている・・・といっても何のことかわからない。
さらに複数の団体が鉱山跡地の地下約100メートルにSun Modular Datacenterを用いたデータセンターを設置することを計画しているというが、何のことかわからない。
ここで神岡に住む人にとってたいへん辛い話ですが、イタイイタイ病について語らねばなりません。
イタイイタイ病・・・日本の公害病の政府認定の第1号。
咳をしても重い布団をかけても骨が折れるという奇病です。
神岡を流れる高原川は富山県に入ると名前を変えて神通川に。その神通川の流域にイタイイタイ病と考えられる病気が江戸時代すでにあったようです。医師に病例として取り上げられるようになったのは大正期から昭和の始め頃ですが定かではありません。明治期に精錬技術が進歩して亜鉛が大量に生産されるようになってからかも知れません。1955年富山県熊野村(婦中町→富山市)の開業医萩野昇が富山新聞に「イタイイタイ病」と名づけて紹介、1957年富山医学会に「鉱毒説」の論文発表、1961年原因をカドミウムと発表。
富山県、厚生省、文部省も独自に原因究明、1968年神岡鉱業の亜鉛鉱石の処理活動から排出と認定、政府認定の公害病第一号に。
1968年三井金属を相手に訴訟が始まり、いずれも原告が勝訴、三井金属も上告を断念、損害賠償の和解に応じることになりました。
発生源対策として1972年から年に1度立ち入り検査も行われているようです。
新田次郎の小説「神通川」
富山県婦中町の「学問もない、地位もない、バックもない」開業医萩野昇と神通川の扇状地に広がる奇病との戦いがテーマです。水質検査、ウイルスの検査、没落地主のわずかに残った田畑まで処分し自費で研究に没頭します。岡山大学理学部の小林純の協力を得てカドミュームの存在を見つけ神通川の上流高原川の三井金属鉱業㈱神岡鉱山の亜鉛鉱石の精錬によるものであることをつきとめます。いつの世でもあることですが古い学閥の体制側からや企業に与する側から誹謗・中傷、脅迫・妨害、バッシングを受けます。1967年国会参議院で証言、1968年公害病の認定。三井金属は1968年提訴され、1971年原告が勝訴しました。
小説は太平洋戦争敗戦後、ビルマ戦線から帰還した医師萩野昇が爆撃により廃墟と化した富山市内を歩いて神通川の有沢橋の畔の川に下りて水を掬って飲み干し
「いかなる河川も、その美しさにおいて故郷の神通川に及ぶものはなかった」
と心の中でつぶやくところから始まり、ビルマ戦線の敗走中、軍医である彼に連れて行ってくれと手を差し出す重傷兵とイタイイタイと泣き叫び彼に手を差し出す患者の手が重なり合って見え、神通川に白い虹が出るところで終わります。
小説はこの訴訟中の1969年学習研究社より発刊
石牟礼道子が「苦界浄土」の執筆を始めたのは1965年、水俣病が勝訴したのは1987年、イタイイタイ病に遅れること18年です。
日本における公害の歴史は明治時代の渡良瀬川上流の足尾鉱山から始まります。水俣病、第2水俣病、イタイイタイ病、四日市病、最近はアスベストも問題になっています。新しい技術で新しい物質を作るときそれがどのような結果になるか予測することは困難かも知れません。それにしても万全の体制をとって対処してもらいたいものです。それが国や企業の責任でしょう。
※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。
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この文考えさせられます。
個人的なことですが今から15年も前、ある谷から流れ出す水は黒い色をしていました。
当時は山に不法投棄をしても誰も何も言わなかったのでしょう。
私達はこれを処理しながら、何とか対策をと考えこちらにも秋になれば問い合わせをしていた彼岸花を植え始めました。
昨年約17万本、今の状況で猪被害がなければ25万本ぐらいになるでしょう。
今年私たちが対応している川を始めて尋ねる人は綺麗とは言ってくれるでしょうが過去を探すことはないでしょう。
小説の中の言葉ですから戦争から帰った医師萩野がつぶやいた言葉ではなく小説の原作者新田次郎が書いた文章だと思いますが、イイ言葉ですね。故郷の山に及ぶものなし。故郷の川に及ぶものなし・・・故郷を持つ者は誰でもそう思うそうです。
イタイイタイ病と闘った萩野医師は先祖の残した家屋敷、田畑を費やしたそうですが、今では名前を知る人はいないでしょう。
黒い水の正体はわかりましたか。上流に工場が無いのなら、持ち込みの不法産業廃棄物ですね。徹底的に調べかったのは行政の責任です。癒着かな?
近世の土木遺産の保全。日本の農村の原風景のような景観を期待しています。
私的には本数なんてどうでもイイことです。面積と予算さえあればいくらでも植えられます。国営ひたち海浜公園は350㌶にネモフィラの丘です。見に行きたいとは思ません
人の心を感激させ癒やすような美観保全をお願いします。
>今年私たちが対応している川を始めて尋ねる人は綺麗とは言ってくれるでしょうが過去を探すことはないでしょう。
そうでしょうね。そんなものです。また名前を知ってもらうためにボランティアをやってる人もいないでしょう。美しいものは美しい・・・それでいいです。