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今日はある一冊の本についてお話します。この本は私のあるブログ・・・信州上山田温泉の小高い丘の上にある「更埴満蒙開拓団慰霊碑」を訪ねた記事にたいしていただいた「斜め下45度-さん」からのコメントで知りました。そこにある書籍が紹介されていました。
城戸久枝著「あの戦争から遠く離れて」(情報センター出版局2007年9月刊)
たいへん興味を持ちましたのでさっそく遠くない大型書店に行き検索してもらいました。9月刊となってますが8月に店頭に出て今はなく取り寄せは3週間ぐらいかかるとのこと。こういう場合図書館に予約をする方法がありますがそれも時間がかかります。そこで仕方がなくある方法で手元に取り寄せ読みました。私の読書は何回も読んではじめて中身がだんだんわかってくるという大雑把なものです。とりあえずお話してみたくなりました。書評なんていうものではありません。わたし的な感想文です。
著者の城戸久枝さん、1945年敗戦の年、中国東北部牡丹江の奥で残留孤児となり、やがて成人して28歳で1970年帰国した方(城戸幹さん、中国名孫玉福)の娘さんです。日本生まれの中国残留孤児二世ということになります。中国残留孤児の本格的な帰国調査はは1980年訪中調査、1981年集団訪日調査からです。
ふとしたキッカケで、中国で育ったお父さんの足跡を追い、父を育ててくれた義祖母の面影を求め、自分探しの旅が始まります。
第一部は河に投げ込まれそうになっている日本人の少年を心優しい村人が救い貧しいが心優しい中国人夫婦にもらわれ成人して帰国、現在に至るまで。ノンフィクションです が数奇なドラマです。戦争というものはこういう物語を生むものでしょうか。
「百家争鳴」「交心運動」「日本国籍の申告」「大学へ道のシャットアウト」「文化大革命」「肉親探しの手ががり探し」「日本赤十字への交信、判明」、その間にも優しい養母(付淑琴)や親友との交情が書かれています。
感動したのは養母にたいする愛情です。日本に帰国決意をしながら養母のために収入のほとんどを貯蓄していることです。日本では忘れられた道徳律です。
第二部は著者の旅です。中国へのホームステイから留学へと進んでいきます。
「嫌日」「反日」「日本鬼子」、「親日」さまざまな波にあいます。父の育った牡丹江の親戚や父の親友たちの温かい心に触れます。
「中国残留孤児の国家賠償訴訟のお手伝い」「満州国軍の職業軍人であった父の父の足跡探し」、最期は父の育った頭道河子村南屯を尋ね村人たちと交情を重ねるところで終わります。村人は「淑琴の孫」「玉福の娘」ということだけで温かく迎えてくれます。なんとも不思議な世界です。
途中で何度か目頭を押さえました。いったい何人の「孫大福」が中国人から命をもらったのでしょうか。そして何人の孫大福が中国の大地に眠っているのでしょうか。
主義主張を語ってません。日本軍が旧満州で何をしたか、それも語っていません。先の大戦「あの戦争でこんなことがあった」、そんなことだけでも戦争を知らない世代に知ってもらいたい素材であると思います。多くの人に読んでもらいたい。
今日はある一冊の本についてお話します。この本は私のあるブログ・・・信州上山田温泉の小高い丘の上にある「更埴満蒙開拓団慰霊碑」を訪ねた記事にたいしていただいた「斜め下45度-さん」からのコメントで知りました。そこにある書籍が紹介されていました。
城戸久枝著「あの戦争から遠く離れて」(情報センター出版局2007年9月刊)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/28/1f54f59ac981aaa134830d62b267589d.jpg)
著者の城戸久枝さん、1945年敗戦の年、中国東北部牡丹江の奥で残留孤児となり、やがて成人して28歳で1970年帰国した方(城戸幹さん、中国名孫玉福)の娘さんです。日本生まれの中国残留孤児二世ということになります。中国残留孤児の本格的な帰国調査はは1980年訪中調査、1981年集団訪日調査からです。
ふとしたキッカケで、中国で育ったお父さんの足跡を追い、父を育ててくれた義祖母の面影を求め、自分探しの旅が始まります。
第一部は河に投げ込まれそうになっている日本人の少年を心優しい村人が救い貧しいが心優しい中国人夫婦にもらわれ成人して帰国、現在に至るまで。ノンフィクションです が数奇なドラマです。戦争というものはこういう物語を生むものでしょうか。
「百家争鳴」「交心運動」「日本国籍の申告」「大学へ道のシャットアウト」「文化大革命」「肉親探しの手ががり探し」「日本赤十字への交信、判明」、その間にも優しい養母(付淑琴)や親友との交情が書かれています。
感動したのは養母にたいする愛情です。日本に帰国決意をしながら養母のために収入のほとんどを貯蓄していることです。日本では忘れられた道徳律です。
第二部は著者の旅です。中国へのホームステイから留学へと進んでいきます。
「嫌日」「反日」「日本鬼子」、「親日」さまざまな波にあいます。父の育った牡丹江の親戚や父の親友たちの温かい心に触れます。
「中国残留孤児の国家賠償訴訟のお手伝い」「満州国軍の職業軍人であった父の父の足跡探し」、最期は父の育った頭道河子村南屯を尋ね村人たちと交情を重ねるところで終わります。村人は「淑琴の孫」「玉福の娘」ということだけで温かく迎えてくれます。なんとも不思議な世界です。
途中で何度か目頭を押さえました。いったい何人の「孫大福」が中国人から命をもらったのでしょうか。そして何人の孫大福が中国の大地に眠っているのでしょうか。
主義主張を語ってません。日本軍が旧満州で何をしたか、それも語っていません。先の大戦「あの戦争でこんなことがあった」、そんなことだけでも戦争を知らない世代に知ってもらいたい素材であると思います。多くの人に読んでもらいたい。
※コメント欄オープン。
でも、この本はノンフィクションですね。中国残留孤児の話には、大事に育ててくれた中国人と労働力として育てた中国人とあったようですが、命を救ってくれたことには変わりなかったのですね。
機会があれば読んでみたいと思います。
今手元に「日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書」があり、辛くて読みきれていません。
更埴満蒙開拓団慰霊碑、先週見学して参りました。模様は明後日か明明後日ブログにアップします。
労働力としての子供、あのころの日本の農村も同じでした。今のように機械農業ではなく人力農業です。子供が7~8人というのは当たり前でした。「働かざるものは食うべからず」といい子供たちもそれが当たり前のように働いていました。長じて働くようになると親に仕送りする、これが古い日本の姿でした。今は違います。
労働力としての養子、これを強調するとおかしくなります。阿鼻叫喚の満州でわが子を殺すより生きながらえて欲しいというお母さんの願いが聞こえます。
文中に出てくる埴科郷開拓団は佐渡郷開拓団と合流してほとんど玉砕してます。
関東軍は開拓団より先に撤退し退路を絶って行きました。兵士達は普通の青年です。
B・C級戦犯、普通の青年たちです。上官の命令で、上官はそのまた上官の命令で、狂気になっていきました。
普通の青年やオジサンたちが狂気になっていくそれが戦争です。これを語ると自虐史といわれます。
このお母さん、23歳です。2度の流産で子供を生めない体になってたようです。女の人って強いなあって思いました。
私のブログ、お気楽なブログに時々こうしたものを入れます。ずっと昔のものにもコメントいただくことがあります(西牟田さんのように)。
「トマサ・サリノグさん」のブログも含めて今もIPがあります。
無言館の記事もお願いします。
今まで自分達を支配占領していた日本人の子ども達を、愛情を持って育てられた中国の人達がいた事が、自分を振り返させられます。
もし、立場が逆だったらどうだろうかと…。