【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

卑怯

2010-07-11 20:27:28 | Weblog
ヘボ将棋の中盤や終盤、ときどき「待った」と言う声がかかることがあります。「時よ戻れ」と言うわけですが、これが相手の指し手を見る前の「待った」だったら縁台将棋レベルなら問題はないでしょうが、相手の指し手を確認してから言っている場合には、卑怯なやり口です。
「卑怯」と言えば「待ち駒は卑怯」という言い方があります。王が逃げようとする退却路に「そこには逃がさない」と戦力を投入された場合に使われます。これはつまり相手に「お前はその手で勝ってはならない」「お前は王手をするべきだ」と命令をしているわけですが、それは下らないセリフです。だって、そのセリフの後にはかっこ付きで「そうすれば自分は負けないですむ」がくっついているのですから。そもそも対局中に相手に指し手の指示はできません。
相手の王が詰む、あるいは、最低かけた方が有利になる場合には王手をかけるべきですし、そうではない手が最善なら王手ではない手、つまり常に自分に思いつく最善手を指すのが将棋では当然なのです。それを相手に向かって「お前は最善手を指してはならない。最善手を指すのは卑怯だ」と主張するのは、いくら負けるのが悔しいからといって、それこそ卑怯なセリフです。負けたくなかったら、最初からやらない、あるいは途中で潔く投了して「自分の王は詰んでいない」と言いながらリセットをかける、という手もあるんですけどねえ。
いや、たかがヘボ将棋で堅いことは言いたくありません。だけど、自分が卑怯なことをしておいてそれが相手のせい、と言うのはあまりに変、と言いたいだけです。

【ただいま読書中】『羽生善治のみるみる強くなる将棋入門 終盤の勝ち方』羽生善治 監修、池田書店、2010年、950円(税別)

今年の名人戦は、スコアこそ4−0のワンサイドでしたが、とてもはらはらどきどきする対戦が続いて、私は十分堪能できました。相手の研究領域にでも平気で突入していき、そこで相手以上の読みを披露する羽生名人の“芸”の凄さは、読みを完全に理解することはできませんが(なにしろ居並ぶプロでさえ唖然とする手が登場するのですから)、すくなくともその“凄さ”だけは感じることができました。
さて、将棋は「序盤」「中盤」「終盤」に大まかに分けられます。序盤では小さなポイントを稼ぎながら突破口を探り、中盤ではなるべく駒損をしないようにしながら相手玉に迫ります。しかし、終盤では発想をがらりと切り替える必要があります。「肉を切らせて骨を断つ」「駒得より速度」になるのです。将棋の目的は「王手をかけること」でもなければ「駒を得すること」でもなくて「相手玉を詰ませること」なのですから。ここで羽生さんは「王を取る」という発想を持ってはいけない、と説きます。それだと「王手至上主義」になってしまうからです。あくまで将棋の目的は「相手玉を詰ませる」こと。ですから、王手以外も広く考える必要があるのです。
本書は将棋の入門書ですから、練習問題は基本的で素直なものが並んでいます。ある程度の力を持った者には物足りないかもしれません。ただ、単なる問題集としてではなくて、将棋の思想(と言ったら大げさかな、だったら発想)を学ぶための本、と思えば、たとえば有段者でも学べるものがありそうに思えます。たとえばアマチュアでは「詰めろ(次で詰めるぞ)」を軽視している人が多いのですが、本書では「詰めろ」がいかに重要か、繰り返し繰り返し説かれます。「今厳しい手」と「次に厳しい手」の価値の比較は、実はけっこう難しいのですが(下手すると、その人の将棋の実力だけではなくて、人生観まで曝露されます)、歯を食いしばって読み決断をし、そしてその結果を受け入れる、それを繰り返すのが将棋だし、人生にも同じことが言えるのだ、と私は感じます。
たかが将棋。されど将棋。