【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ナレーションは万能ではない

2015-05-22 06:43:35 | Weblog

 この前テレビでわりと新しい邦画をやってました。暇だったのでぼーっと見ていたら途中でナレーターが「彼はとっても悔しかったのです」といった感じでその「彼」の表情を大写しにしながら心象描写をしてくれました。
 「おひおひ」と私は画面に突っ込みます。それを俳優の演技と監督のセンスによる映像描写で表現するのが、映画ではないのかい?と。映像のないラジオドラマだって何もかもナレーションで済ませはしませんよ。“演技”と“効果音”を生かします。
 もしもこんな映画もどきを金を払って見たのだったら、私は悔しくて悔しくて泣いちゃいそうです。(好きな人がいるかもしれないので、“営業妨害”にならないようにタイトルは書きません)

【ただいま読書中】『応仁・文明の乱』石田晴男 著、 吉川弘文館、2008年、2500円(税別)

 室町幕府の四代将軍足利義持は、後継者を籤で決めるとしました。怒ったのは将軍になりたかった鎌倉公方足利持氏。持氏の恨みは、五代将軍となった義教に向きます。幕府内部では義持の正室日野栄子(よしこ)が権勢の維持を図って義教に日野裏松家からの嫁取りを強制します。さらに後南朝も動きます。さらにさらに、正長の大土一揆が起きます。
 義教は、幕府内で強大な勢力となっていた日野家の力を削ぎ、日本のあちこちの反対派を討ちます。そこに嘉吉の乱が。赤松教康による将軍暗殺です。赤松邸から這々の体で逃げ出した管領細川持之は次の将軍を定め(義勝)赤松討伐の軍を起こします。義勝は十歳で早世、大名は合議で義勝の弟三春(のちの義政)を後嗣とします。つまり「管領政治」は大名の連合体制だったようです。
 守護大名の家中では、家督相続争いが頻発していました。後継者がいないのは困りますが、過剰なのも困るわけです。さらに、義教に突鼻(とっぴ=叱責・勘当)された人たちが、嘉吉の乱後に赦免され「(剥奪された所領や家督への)自分の権利」を主張したため、日本は乱れます。そしてその混乱は義政の時代へと引き継がれていきます。
 義政は将軍の権力向上を目指しました。そこで畠山と組んで管領細川の地位低下を志します。そこに寺社の勢力争いもからんで話はややこしくなります。将軍と管領、鎌倉公方と関東管領、幕府と鎌倉公方の関係も“微妙”なままです。守護大名は合従連衡を繰り返します。嘉吉の乱後、細川氏は山名氏と結び、山名氏は大内氏と結びます。これにより細川は畠山に対抗できるようになりました。しかし細川と大内は敵対するようになってしまいました。そして山名は畠山とも結びます。もう、何がなにやら。
 ともかく、こうして「応仁の乱」の下ごしらえは着々と完了したのでした。そして応仁元年五月の合戦(基本的に山名vs細川)が始まります。将軍義政は中立として停戦を両者に命じます。しかしすでに将軍は「絶対的な権威者」ではありませんでした。むしろ争いの“当事者”の一人に過ぎなかったのです。
 戦いで「放火」が重要な戦術として愛用されるのには驚きます。攻める側が放火する場合もありますが、攻められた側が逃げる際に自分の屋敷に放火することもしばしば。戦術として民家や寺社が焼かれる場合もあり、京都の人たちは大迷惑です。また「上洛」が重要なキーワードとなります。誰がどのくらいの軍勢を引き連れて京都にやって来るかの噂だけで、戦況が変化します。また従来の武士とは違う戦闘法をする「足軽」の活躍も注目されています。
 もともと室町幕府と鎌倉公方の対立は、足利尊氏と直義の対立にまで遡ることができます。つまり応仁の乱は「戦国時代」の“出発点”ですが、過去からの確執の“到達点”“経過点”でもあったわけです。応仁の乱の間でも、全国各地で「過去からの確執」が大暴れしています。こういった負の歴史は、どこかでうまく断ち切ることができたら良いんですけどねえ。