かつての西部劇では、ばったばったと「インディアン」が殺されていました。日本の時代劇で悪代官などに「出会え出会え」と命令されてわけもわからずわらわらと集まった家来たちが正義の味方にばったばったと殺されていたのと「ばったばったと殺される」点では似ています。
ところで、現在「インディアン」は「ネイティブ・アメリカン」に“改名”されていますが、なんだか変じゃないです? だって彼らは「アメリカン」ではないでしょう? 彼らはあそこが「アメリカ」になる前から住んでいたのですから。いっそ「インディアン」は「インディアン」のままにして、“あそこ”を「インド」と改名するのはどうでしょう? これならすべての整合性が取れそうな気がします。
【ただいま読書中】『バッドエンドの誘惑 ──なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか』真魚八重子 著、 洋泉社、2017年、1400円(税別)
バッドエンドの映画特集です。ただし、「ホラー」「失恋」「難病」は最初からハッピーエンドは期待できないので、本書から除外されています。
目次を見る限り、この中で私が観たことがあるのは「ミスト」と「さよならミス・ワイコフ」くらいで、あとは知らない映画がぞろぞろと。この世は「未知」に満ちています。
「なぜバッドか」を語るためにはあらすじやエンディングについてもネタバレをしなければならないので、「これからバッドエンドの映画を観たい」という人は、本書の目次をまず確認しておいた方が良いです。ネタバレされたら、興趣が削がれますから。
しかし、どうして人は「バッドエンド」の映画を観ようと思うんでしょうねえ。人それぞれ理由はあるのでしょうが、本書にある「映画を観るのは侘しい行為である」という記述に大きなヒントがありそうです。暗闇の中でスクリーンと対峙するとき、誰と一緒に来ていたとしても、私は「独り」で映画を観ています。そして、その映画の「厭さ」は、演出はされていますが「現実社会」にすでに存在するものであり、さらにはそれが自分の心の中にもあることを、私は知っています。それを確認することの意味は……何なんでしょうねえ。なんだかもやもやした気分を抱えてしまいます。