【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

3次元の天気

2021-09-19 10:22:44 | Weblog

 私が通った小学校には、木陰の芝生の上に百葉箱があって、当番が観測データを記録していました。ただこれは「地表の天気」です。中学校の理科の授業で、各地の気象データをもとに日本地図の上に等圧線を書く実習をしましたが、これって「地表(2次元)の天気の連続図」に過ぎず、「大気圏(3次元)の天気」はどうなっているのだろう、と思いましたっけ。だって、「上」がわからなければ正確な天気予報はできないでしょうから。太陽や雲や雷は「上」にあるのです。「明日の天気は」と思うと人は「上」を見るのです。

【ただいま読書中】『富士山測候所物語(気象ブックス012)』志崎大策 著、 成山堂書店、2002年、1600円(税別)

 「富士山の高さ」を最初に測定したのは伊能忠敬で、3982mとしています。海岸を旅しながら多数の地点から三角法で測量したのでしょう。誤差が大きいですが、三角点も置いてないし平面測量も不十分な状態で、よくここまでできた、と私は感心します。次に試みたのはシーボルト。ヨーロッパから気圧計・温度計・湿度計などを持ち込み、日本では積雪期に必要な登山用具や防寒具を集めていましたが、冬の富士山に登頂して気圧から山の高さを計算しようと計画をしていたようです。しかし幕府の監視が厳しく、断念。弟子の二宮敬作が1828年に登頂して「3794.5m」という結果を出しました(おそらく水の沸点を測定してそこから気圧を導き出したと推定されています)。
 富士山頂での最初の気象観測は、明治13年(1880)東大教授メンデンホールと東大の学生たちによって行われました。この時「3778m」と富士山の高さが計算されています。
 正確な天気予報のためには高層観測が必要、とされ、モンブランに気象観測所ができたのに影響されて「富士山頂にも気象観測所を」という声が出ましたが、実行する人がいませんでした。それを実行したのが明治27年(1894)に富士山頂で越冬観測を試みた野中夫妻。まず野中至が単身登頂、中央気象台からは1日6回の観測を依託されていましたが、毎日12回の観測を行いました。……いつ、寝るの? 夫の身を案じた千代子夫人が後を追って登頂、観測の手伝いをすることになります。しかし、二人とも全身浮腫となって息も絶え絶えに(おそらく新鮮な野菜不足からビタミン不足になったのでしょう)。しかし麓に知らせる手立てはなく、山を下りる体力もありません。そこに二人の身を案じた救助隊が。このへんは『扶桑の人』に詳しかった、とかすかに記憶していますが詳しいことは忘れています。読みなおしたくなったなあ。なおこの二人の行動は、高層気象観測に新しいページを開いただけではなくて、厳冬期の富士山登山という点でも画期的なものだそうです。しかしそれに続く動きはありませんでした。個人としてはやりたい人は次々出るのですが、公的なバックアップがなかったのです。
 昭和になってやっと夏期の連続観測が始まります。政府の予算もつき、昭和7年(1932)についに通年観測開始。このころの富士山頂観測を見ていると、後年の南極観測を私は連想します。富士山頂も「極地」なのです。しかし国はすぐに予算を打ち切ります。そこを救ったのが三井、というのは意外でした。学術に政府が冷たいのは今も昔も変わりませんが、財閥はまだ余裕があったんですね。ともかく盆も正月も観測ができるようになりましたが、交代要員にとっては富士登山が「日本で一番過酷で長い“通勤路"」となります。
 昭和12年(1937)支那事変が勃発。翌年陸軍は富士山頂に「航空緯学研究用の施設(正式名称は、軍医学校衛生学研究所富士山分業所)」を開設。しかしこちらはあまり活用はされなかったようです。戦中に気象観測所では「東京の灯火管制の状況」を“観測"する業務も追加されます。気象通信は暗号化、天気予報は廃止、物資は不足、勤務者の召集・戦死、強力(ごうりき)の召集や徴用……そして昭和19年(1944)4月11日、観測所で初めての殉職者。
 陸軍は風船爆弾でアメリカ攻撃をしましたが、その高度がわからないため、陸軍気象部が富士山に登り山頂観測所が三角測量に協力しています。
 観測所からは空襲で都市が燃える状況がよく見えましたが、山頂観測所そのものも空襲を受けました。B-29も艦載機もまずは富士山を目印に日本に接近していましたが、その山頂の小屋で何かやっている、と思ったのでしょう。
 戦後も物資不足などで観測所は苦難の時代でしたが、観測は継続されました。その労苦と頑張りに、頭が下がります。
 昭和22年に労働基準法制定、山頂測候所の“勤務時間"は1箇月から20日間(のちに19日間)に短縮されます。滞在期間が短縮されて楽にはなりましたが、定員が増えたわけではないので、登山(過酷な通勤)回数はかえって増加しました。
 富士山頂からドライアイスやヨウ化銀を撒いての人工降雨実験も行われましたが、結果は「よくわからない」でした。
 そして、富士山レーダー。明治時代には観測小屋を建設するだけでも“大事業"だったのが、気象観測レーダーですから、文字通り隔世の感があります。このへんの話については「プロジェクトX」などが詳しいですね。今だと静止衛星からきれいな写真が得られますが、富士山レーダーが稼働した直後の台風の写真のきれいさは感動ものでしたっけ。

 


実験場

2021-09-19 10:22:44 | Weblog

 アメリカ政府にとってヒロシマ・ナガサキは放射能の人体実験場でしたが、フクシマは放射能による環境汚染の実験場なのでしょうか。そういえばこれまではビキニ環礁とか砂漠とかばかりで、「森林汚染」はチェルノブイリ以外にはあまりありませんでしたね。すると「森林の除染」は「実験(観察)の邪魔」ということに?

【ただいま読書中】『森林の放射線生態学』橋本昌司・小松雅史 著、 三浦覚 執筆協力、丸善出版、2021年、2000円(税別)

 フクシマで放出された核種で特に多いのは上から順に、キセノン133(半減期5日)、ヨウ素131(半減期8日)、セシウム134(半減期2年)、セシウム137(半減期30年)と推定されています。セシウムは沸点が摂氏671度で核燃料が溶融した状態では気体になって放出され、その後温度が下がって融点の28度以下になると微細な粒子となって風に乗って拡散しました。半減期が29年のストロンチウム、88年のプルトニウム238・24100年のプルトニウム239・6540年のプルトニウム240は放出量がごく微量だったため、大きな問題にはなっていません。なっているのは、セシウムです。
 森林の土壌の生態系は、農地などとは違います。土壌の栄養は樹木に吸収され、落ち葉でまた土壌に戻されます。この自己施肥が森林の大きな特徴です。また、農地では基本的に1年がサイクルとなりますが、森林では数十年のサイクルで物事が動きます。
 そこに「降下物」として放射性セシウムがやって来るわけです。最初は枝葉に付着。その後、雨や落葉で林床へ移動していきます。地表に移動したセシウムは、落葉層はさっさと通過してその下の鉱質土壌に移行しました。土壌中の粘土鉱物はセシウムを吸着するので、土壌表面にセシウムは固定される傾向があります(逆に言えば、再放出は難しい)。それでも水や重力によって少しずつ下に向かい、そこで根に吸収されて樹木内部に入ります。また、動物(特にミミズ)や菌類(キノコ)によって攪乱が起きます。
 チェルノブイリでは「セシウムは森林外には流出しにくい」と言われていましたが、日本では急峻な地形や大量の雨の影響で、チェルノブイリよりも森林外に流出しています。
 放射能は生態系に影響を与えているはずですが、はっきりしたことはまだわかっていません(というか、チェルノブイリでさえまだはっきりしたことが言えないそうです)。ただ、期間困難区域などで「人が入らなくなったこと」による生態系への影響(樹木の病虫害の増加、野生動物の個体数の増加、など)は出ています。
 福島に限らず、環境にはすでに半世紀前から放射性セシウムが入っていました。大気圏内での核兵器の実験のせいです。全世界に広く薄くばらまかれ(「グローバルフォールアウト」と呼ばれます)、そこに1986年のチェルノブイリが上塗りをし、そして今回のフクシマ。そこで「環境からセシウムが検出された」と言うだけでは不十分で「フクシマ由来のセシウムが検出された」と言えるかどうかが重要となります。
 対策も難しい。除染は短期間で勝負をつけられますが、莫大なコストがかかりまた莫大な量の放射性廃棄物が出ます。また表土を取り除くことで水害の確率が高くなります。立ち入り制限などのゾーニングなどで管理するやり方は、コストはそこまでかかりませんが、時間が莫大かかります。そして、どちらを採用するにしても、食品の放射能に対する管理は必要です。ただ、どのようにするにしても、きちんと測定してデータを集積することは基礎の基礎でしょう。その点で日本の行政がデータ集めやその公開に消極的な姿勢をもつ傾向にあることが、気になります(コロナ禍でも、広範囲のPCR検査にとことん抵抗しましたよね)。「科学の問題」ではなくて「政治の問題」だと思っているのでしょうが、放射能に行政処分は通用しないんですけどね(もちろん、新型コロナウイルスにも)。