【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

「地デジ」の続き

2010-07-19 18:09:21 | Weblog
まるで一昨日からの続き物の日記ですが、テレビも結局買い換えました。家電量販店が最近つぶし合いというか喧嘩を売っているというか、相手の店舗のすぐそばに自分の店(もっとでかいもの)を開く、をあちこちでやっていて、おかげでいろんなものが安く広告されているのです。満員の店に行って、最新式のを横目に、型落ちのをさらに安くしてもらうことにしました。30年使ってきた組み立て式のAVラックも一部ばらしてテレビ台を入れることにしました(ついでですが、ばらすときにその板の重みによろめいて、家族総動員でやる羽目になりました。これを組み立てるときには一人でやったんですが、よくできたものだと過去の自分のことが不思議に思えます)。今まではAVラックにテレビをはめ込んでいたのですが、さすがにこれでは最大でも25インチブラウン管がぎりぎりだったものですから(30年前には20インチのテレビでも「大型」だったんですけどねえ)。
接続確認でビデオテープを再生してみて、その画像の荒さに呆然としました。いくら3倍速とはいえ、一応「S-VHS」だったのに…… DVDはこんな細部までじつはちゃんと写っていたんだ、と感心しましたが、これがブルーレイになったらどうなるのかな(持っていないのでまだ確認できていません)。マニュアルには新機能がいっぱい書いてあるし、なんだか、暇があったらテレビっ子になってしまいそうで、不安です。

【ただいま読書中】『オレンジガール』ヨースタイン・ゴルデル 著、 猪苗代英 訳、 NHK出版、2003年、1500円(税別)

ゲオルグ少年が4歳の時、父ヤン=オーラヴは病死しました。それから11年、ずっと隠されていたゲオルグ宛の“遺書”が発見されます。「オレンジガール」という長い小説の原稿が。
ゲオルグは、3歳半のときに父親と過ごした記憶をきちんと持っていません。残された写真やビデオはあります。しかし、自分自身のオリジナルの記憶としては不確かであやふやなものしか残っていないのです。
ヤン=オーラヴが19歳の医学生の時、満員の路面電車の中である少女(オレンジ色のアノラックを着、大きな紙袋一杯のオレンジを抱えていた“オレンジガール”)と出会ったことから“遺書”は始まります。ちょっと想像力が豊かすぎる描写が続きます。ともかく、電車の揺れでオレンジガールは袋を落としてオレンジは電車中に散らばり、ヤン=オーラヴはそれを救えなかったことに罪の意識を感じます。そしてそれから数週間後、カフェで偶然の再会。彼女は同じアノラックを着、そして大きな紙袋に一杯のオレンジを持っていました。二人は見つめ合い、彼はついに言います。「きみはリスだね!」。
ゲオルグはあきれます。好意を抱いている女性に初めてかけるセリフが「きみはリスだね!」だとは。もっともそれはゲオルグ自身の体験とも重なっているのですが(ゲオルグも思春期なのです)。
父子には別の共通点もあります。ハッブル宇宙望遠鏡に興味があること。それがこの「オレンジガール」と題された小説(遺書)とどのような関係があるのかは、最初は「謎」として提示されるだけです。
さらに大きな「謎」があります。ヤン=オーラヴはゲオルグに問います。もしもこの広大な宇宙の中で、たった1回の生を生きそしてすべてを失って死ぬか、あるいはそれを辞退するか、それが選択できるとしたら、君はどちらを選択するだろうか?
いくつものレベルの謎が重層的に提示され、それぞれが生き生きと有機的な関係を持っています。オレンジガールとは誰なのか。なぜヤン=オーラヴはこのような遺書を息子に残して死んだのか。白いトヨタの男は誰なのか。ハッブル宇宙望遠鏡は人類にどんな意味があるのか。
「人生とは何だ?」と大上段に振りかぶってはいません。身近な話題と謎を使ってとても深いところまで心に食い込んでくる本です(ただ、二人のなれそめとかセックスのこととかを子どもに知られるのは、親としてはばつの悪い思いでしょうけれど)。
ヤング・アダルトと、ヤング・アダルトの部分が心に残っている人には、お勧めです。



ピアノの下で寝る

2010-07-18 17:33:49 | Weblog
友人に「グランドピアノの下に寝ている」と聞かされたことがあります。奥さんがピアノを弾く人で、ところが住んでいるところが小さなアパート。それで六畳間にセミコン(フルコン(フル・コンサート・ピアノ)より少し小型のグランドピアノ)を無理矢理入れて、その下に布団を敷いていた、というわけ。ピアノの上に寝るわけにはいかないでしょうからしかたないのですが、急に起きたとき頭を打たなかったのかな。とっても良い音が響いたりして。

【ただいま読書中】『パリ左岸のピアノ工房』T・E・カーハート 著、 村松潔 訳、 新潮社、2001年、2000円(税別)

パリの片隅、著者の住居のすぐそばの狭い通りに小さなピアノ店〈デフォルジュ〉がありました。部品と修理工具の販売を専門にしているようですが、著者は好奇心をかき立てられます。こんな商売がこんな場所で成り立つのか?と。「一見の客、お断り」のお店でしたが何ヶ月も粘り、秘密めかしたそぶりでなかなか開けてもらえなかったドアをやっと通り抜けることができた時、著者は「ピアノの黄金郷」を発見します。生きている(演奏されるべき)ピアノと死んでいる(博物館に行くべき)ピアノとが複雑に並べられたアトリエを。著者はあっという間に贅沢な夢の世界にどっぷりつかってしまいます。狭いアパートにグランドピアノを置く、という危険な夢に。
工房の助手で腕の良い調律師でもあるリュックの導きで、著者は豊かな知識を得、ピアノ一台一台に個性があることを知ります。店に通い始めて何ヶ月か後、リュックは「あんたにぴったりのピアノが来た」と告げます。1930年代に製造されたオーストリアのベビー・グランドピアノ、シュティングルです。このピアノを選定し、決断し、そして搬入(人が一人で250kgのこのピアノを背中に担いでアパートの階段を昇ったのです。信じられます?)……それらが一々「ドラマ」ですが、実はここまでは本書のオープニングにすぎませんでした。お話はここから本当に始まるのです。知らないピアノの鍵盤のふたをあけるときに「いつでも、こういうときは、別の世界へ通じるドアをあけるみたいにわくわくする」と述べる人です。「不思議な店でピアノを一台買いました」で終わる本を書くわけがありません。
ピアノの歴史/ピアノの構造/ピアノのお国ぶり/ピアノの個体差/ピアノ曲/音楽の楽しみ/音楽教育/子どもへのピアノのレッスン/大人へのピアノのレッスン/パリでの人間関係の面白さとアメリカとの違い/家族とピアノ/世界最高のピアノ/夢のピアノ……さまざまな話題が静かに展開していきます。そして突然現われる「魔法的な瞬間」。

著者はパリに住むアメリカ人で、だからでしょうか、アメリカ文学とフランス文学の良い部分が両方一緒に味わえる雰囲気の文体です。さらに本書の文章には、ピアノと音楽の魔法がかかっています。文字の一つ一つがまるで音符のようで、気持ちよく読むリズムがそのままトレモロやアルペジオになります。それで奏でられる主題は「ピアノへの想い」というか「ピアノとともに暮らす生活への想い」。そういえば本書の始めにリュックはこう宣言しています。「あんたはピアノといっしょに暮らすことになるし、ピアノはあんたと一緒に暮らすことになる」と。そう、本書は「あんたと一緒に暮らすピアノの本」です。



地デジ

2010-07-17 17:47:06 | Weblog
一体誰が何の目的で決めたのか知りませんが、今のテレビはあと1年で見られなくなる、ということで、しかたなくアナログから地上デジタルに変更しました。と言ってもわが家はケーブルテレビで契約しているので、テレビそのものは買い換える必要がありません。配信の契約をアナログからデジタルに変更し、ケーブルテレビのセットトップボックスを交換するだけで作業は終了……のはずなのですが、やってきた作業の人が悩みます。テレビの裏の配線がもつれあったスパゲッティ状態だったので。ビデオデッキとプレステとミニコンポをセレクターにまとめて、テレビだけを見る/テレビを見ながらその音をミニコンポへ出す/録画する/ビデオを見る/プレステで遊ぶ、をすべてセレクターの切り替えで簡単に行なうようにしていたのですが、そこに新しいセットトップボックスが参入すると「この行動をしたいときにはこの配線でOK」とかの確認を一々しなければならない様子。しかも「パナソニックと他のメーカーとの相性が……」などでも悩んでいる様子です。
私が驚いたのは、画像がきれいになったこと。今使っているのは10年選手の20インチブラウン管テレビなのですが、今まで触ったことがなかったデジタル入力端子に接続をしてくれたら、まあみごとにくっきり鮮やか。いや、君は実は秘められた能力を持っていたんだね、と見直しました。「使われる側」ではなくて「使う側」の問題で実力が発揮できずにいる、は、テレビだけではなくて世の中にはいろいろあるのではないか、なんてことも想いながら、きれいになった画面を見ています。

【ただいま読書中】『神仏習合』義江彰夫 著、 岩波新書(新赤版)453、1996年、631円(税別)

八幡大菩薩は、もとは北九州宇佐地方の土着信仰神で、奈良時代に国家鎮守の神に高められ平安時代初期に王城鎮護の神として石清水宮に勧請されました。そこで著者が注目するのはその名前です。「菩薩」とは悟りを開く前の釈迦のこと。つまり「八幡大菩薩」は「菩薩のかたちをした八幡神」なのです。
935年、平将門は伯父を殺し、938年に朝廷に公然と反旗を翻しました。平将門の乱です。939年に上野国府に進駐して新皇即位の儀式を行ないますが、そこでは、神がかりをした一人の巫女が「自分は八幡大菩薩の使者で、自らの位を子孫である将門に与える。その位記(辞令)は菅原道真の霊が書いた」と口走りました。
はい、八幡大菩薩の登場です。さらに菅原道真(平将門の乱の数十年前に没。観自在天神(帝釈天の弟子)に転生したと考えられていた)まで登場するという豪華なラインナップ。それを巫女が伝えるのですから、神も仏もある儀式だったのです。
著者は「宗教は、文化の特質が集約的に表現され、社会構造との有機的な関係をダイナミックに把握できる“通路”である」という態度で宗教研究に臨むそうです。「日本人は無宗教」と言われますが、なぜそうなったのか、本当に無宗教なのか、に対する解答もそこから見えてくるのではないか、と。その点で「神仏習合」という「普遍宗教と基礎信仰の結合の一形態」はちょうど良い研究材料、といえるのでしょう。
763年に、伊勢・美濃・尾張の神である多度大神は人の口を借りて「仏教に帰依したい」と告白しました。その数年前には鹿島大神が、それからしばらく経った8世紀末には賀茂大神が、9世紀はじめには若狭彦大神が同様の告白を行なっています。これは何でしょう? 著者は、地方豪族に“それ”を望む理由があったのではないか、と推定しています。
もともと全国の神社を中央集権的にまとめる神祇制度は、律令体制と密接な関係を持っていました。納税という概念を理解できない庶民には、神々への感謝としての初穂という形で収めさせることが有効な手段と考えられていました。ところがその制度が揺らぎ始めたのです。その原(の一つ)は貧富の拡大でした。富めるものは納税を渋り、貧しい者は納められなくなったのです。
仏教に帰依した神々は各地で神宮寺を建立します。それを維持管理するのは私度僧が主で、その基盤は不安定なものでした。それを強化したのが空海です。宗教的には大乗密教という太いスジを神宮寺に通し、政治的には王権の庇護、さらに王権擁護までやってのけたのでした。
ところで、どうして小豪族たち(富める者)は、仏教に帰依したくなるのでしょう。本書では、それまでの伝統では冨は分配されるものだったのが、権力によって私腹を肥やすようになり、それが村人たち(さらには祭りなどを通して分配システムを動かしていた神)を裏切ったという意識になって仏に救いを求めるようになった、と説明されています。神を利用して人を支配してきた人は、自らの苦悩を神では解決できないのです。さらに仏教では、僧への布施により在家の信者は贖罪と救済が保証されます。悩める支配者には非常に都合がよい構造です。
10世紀に話はややこしくなります。菅原道真など政争で敗死した人の怨霊です。この怨霊信仰もまた神仏習合の一形態でした。怨霊から王権を守るために解決の前面に出るのは密教ですが、それは逆に「仏教が怨霊を公認する」効果を持っていました。さらに、怨霊を鎮めるために色々約束をしたり祭ったりする行為は、逆に王権に対する反乱を正当化する口実にも使えました。
物忌みや浄土信仰も神仏習合です。どちらも「穢れ」を忌避して、現実世界では細かい規定に従って物忌みをしますし、あの世では浄土(つまりは穢れのない世界)を求めるのです。さらに、浄土を求める人々の要望に応えてか、本地垂迹説が登場します。どの神を拝んでも仏を拝むことになるのですから、大変都合が良いのです。ただしこれまた、殺生と穢れを忌む王朝社会の価値観が揺らぎ、世界に死と穢れが満ちている(さらには「死」を職業とする武士が勃興している)世相の変化を反映した現象でした。
本書では、インドでの仏教とヒンドゥー教の関係、ヨーロッパでのキリスト教とゲルマン・ケルト信仰の関係にも言及があります。十分とは言えませんが、新書では仕方ないでしょう。私は日本の修験道もこの流れの中での理解が可能だと思いますが、ともかく面白い着眼による一冊でした。



ブリキの太鼓計画

2010-07-16 18:55:31 | Weblog
少子高齢化に対して、どうしたらいいのか、それなりに真剣に考えて、一つの案を思いつきました。題して「ブリキの太鼓計画」。
あの映画では主人公の少年オスカルは「大人にはならない」と決心することで成長を止めました。子どもが成長を止めるのは至難の業です。しかしそれでさえできる人がいる。だったら「成長を遅くする」のはもっと多くの人に可能でしょう。
ということで子どもたちに「ゆっくり成長する」と決心してもらうのです。すると子ども世代に少しずつ人数が貯まります。いつかは大人になりますから上から順々に抜けては行きますが、実はそれより速いペースで老人があの世に行くこと、これがこの計画のキモです。少子高齢化とは「少子」だけが問題なのではありません。「高齢者比率が異常に多い」これが「少子高齢化」の本質なのです。だったら、それらの人が天寿を全うするまでゆっくりと子どもたちの人数を増やしてその比率を逆転すれば、少子高齢化はみごとに解決するのです。さて、オスカル君に肉体にその決心を浸透させるためにどうしたのか、具体的な手段を教えてもらわなければ。

【ただいま読書中】『文明のあけぼの ──古代オリエントの世界』三笠宮崇仁 著、 集英社、2002年、3500円(税別)

日本が縄文時代だった頃、古代オリエントでは多くの民族が栄枯盛衰を繰り返しました。それが統一されたのはアケメネス朝ペルシア。そのペルシアがマケドニア王アレクサンドロスに滅ぼされたのは約2300年前、日本で弥生時代が始まった頃のことです。
旧約聖書の天地創造は今から3000年くらい前に書かれました。しかし、それよりもっと古い天地創造神話があります。古代オリエントのシュメル人のものです。彼らは粘土板に楔形文字で、混沌から天地が分かれたことや男の肋骨(ティ)から女神(ニン)が生まれてニンティと名付けられたことなどを書きました。また、洪水神話もありますが、これは見事にノアの方舟の“原型”です。
紀元前2000年頃にはシュメル人にかわって、バビロニアの主役はセム語族となります。
法典も作られました。有名な「ハンムラビ法典」より100年前には「リピト・イシュタル法典」が書かれていますが、内容は「ハンムラビ法典」の原型と言えるものです。なお「ハンムラビ法典」は、バビロン第一王朝の第6代の王ハンムラビ(前1792-1750)が制定しました。
アッカド王朝時代には、フリ人が歴史の舞台に登場します。紀元前1500年頃にはエジプト人がシリア南部のカナアン地方を「フル(フリのエジプト式発音)」と呼ぶようになります。おそらくそのあたりをフリ人が支配するようになったからでしょう(旧約聖書では「ホリ」と書かれています)。民族大移動をしていたのはフリ人だけではありません。バルカン半島にはアカイア人が、エジプトにはアジアからヒクソスが移動してきて、前17世紀にはエジプトはヒクソスの支配下に置かれます。しかしエジプト人はヒクソスの戦車(馬に引かせる兵車)戦術を学び、それを使ってヒクソスを追い出します。さらに前15世紀、トトメス三世はアジア遠征を行ないます。メギッドの戦い(現在のイスラエル)、シリア遠征、そしてついに王はユーフラテス川を渡ります。
地中海ではクレタ人が隆盛を誇っていましたが、前14世紀には没落し、そのかわりにカナアン人が登場します。
で、これまでちらりちらりと出てきた「イスラエルの民」がそろそろ表に出てきます。しかし、ダビデ王国についての史料は「旧約聖書」だけです。ユダヤ教とキリスト教とイスラムとではそれぞれ旧約聖書の解釈は異なりますが、歴史学研究の立場ではさらに異なる読み方をする必要があります。
次から次へと様々な○○人が登場しては移動し退場し、古代オリエントの歴史は大変複雑で忙しいものです。立体的な地図でどこでもすぐに拡大して細かい状況がわかるようになっていてしかも時間軸に沿って“早送り”ができる、なんて装置があれば、全体が理解しやすくなるかもしれません。本書も、取り上げられる話題は多岐にわたり、図版も多く、歴史の入門書として、古代オリエントについてある程度の概略をつかむことは可能です。もうちょっと太い「軸」を時間に対して縦か空間に対して横に一本か二本通したら、もっと面白くなっただろうとは思いますが、一冊の本に何もかもは望めませんね。(私だったら、旧約聖書がいくつもの文献のつぎはぎでできていることを、日本の記紀と対比させて書いたものを読みたくなりました)


足に軽傷

2010-07-15 17:23:56 | Weblog
この豪雨で、ローカルニュースははじめは「避難勧告が××地域にでた。負傷者は○人」と報じて、負傷の内容も「逃げようとしてガラスを踏んで足に軽傷」などとけっこう詳しく言っていましたが、そのうちに「死者が○人、避難した人が×千人」などと言うようになりました。最初に「足に軽傷」で報じられた人、なんだかちょっと気の毒に思えます。もちろん亡くなった人はもっと気の毒なのですが。

【ただいま読書中】『ハジババの冒険(1)』J・モーリア 著、 岡崎正孝・江浦公治・高橋和夫 訳、 平凡社(東洋文庫434)、1984年、2100円(税別)

これは、イギリスから種痘が世界中に広がり始めた時代のお話です。
ペルシアのエスファハンで床屋の息子として生まれたハジババは、教育も受け、腕の良い床屋になりますが、冒険心を押さえられず、隊商に加わって冒険旅行に出発しました。しかし一行はトルコ人の盗賊に襲われハジババは捕虜になってしまいます。盗賊に取り入って一緒に行動し、なんと生まれ故郷を襲撃する手引きまでやってからやっと脱出したハジババは、別の街で水売りになって成功し、ついで煙草売りになります。そこでひどい目にあったハジババは、行者(要するに詐欺師)になろうとして結局やめ、テヘランに流れ着いて侍医頭に召使いとして仕えることになります。西洋からの医者が王に取り入ろうとするのを撃退したり恋に落ちたり、それなりに忙しい日々を送っています。しかし恋に落ちた相手は、仕えている医者のハーレムにいる美しのゼイナブ。ちょっと障害がありすぎます。それでも二人の心は接近しますが、そこにもっと大きな障害が。王が恋敵として登場したのです。これは敵いません。ハジババはゼイナブの幸せ(と無事(王の不興を買ったら、即座に死刑なのですから))を祈ります。
ハジババの人生は、ちょっと上がるとすとんと落とされ、そこからまたちょっと上がるとまたすとん、の繰り返しです。なかなか素直にわらしべ長者のようなコースは歩めません。ただ、その場その場で小ずるい手を使っては何とかしてしまうところが、笑えます。ハジババは小悪党なのです。
さて、失恋直後のハジババは、何を思ったか医者のふりをして、そのまま刑吏となります。いくらでたらめに職を転々とするとはいっても、ちょっと極端すぎますが、そこでも彼は本領を発揮、うまく権力者に取り入っていきます。

本書は、著者が「ペルシアの物語を翻訳した」体裁で著したものだそうです。つまりは、西洋人による『千一夜物語』もどき。そのせいでしょう、雰囲気はたしかにペルシア風ですが、たとえば詩の掛け合いのところなどは、味わいの点で『千一夜物語』には遠く及びません。ハジババの小悪党振りはなかなか魅力的ですが、それを引き立てるだけの“ライバル”が力不足です。ただ、西洋の読者には「異国風味」が強烈で、それだけで十分だったのかもしれません。さらに登場するのが小物ばかりだったら、西洋の優越性も満足できますから。


おちょこ

2010-07-14 18:40:13 | Weblog
今日もすごい雨でした。職場でも「定時になったらさっさと帰れ」のお触れが出ました。でも、帰る頃になったら雨は上がっているのですから皮肉なものです。
そういえば私の子ども時代の梅雨では、ここまで激しい雨はあまり記憶にありません。しとしと降ってはちょっと梅雨の晴れ間、またしとしと降ってはまた晴れ間、というのどかな梅雨でしたっけ。雷が鳴るのは梅雨が明けるとき。で、いつだったか、東京は空梅雨で水不足。だったらこちらの雨を集めて送ってあげられたらいいのになあ、とおちょこにした傘に雨を貯めながら友人たちと学校から帰ったこともありましたっけ。今の豪雨でそれをやったら、おちょこが壊れてしまいそうですけれど。

【ただいま読書中】『初版 金枝篇(上)』J・G・フレイザー 著、 吉川信 訳、 ちくま学芸文庫、2003年、1500円(税別)

人類学というとついつい20世紀後半からのことを思ってしまう私ですから、ジェイムズ・ジョージ・フレイザー(1854~1941年)は“ちょっと古い人類学”と呼んでしまいたくなります。それでも本書が私を呼ぶ声が強烈だったので、ページを開くことにしました。
古代ローマ、ときに「アリキアの湖と木立」と呼ばれるディアナ・ネモレンシス(森のディアナ)の聖なる木立と聖所では、現職の祭祀職を殺した者がその跡継ぎになれることになっていました。さらにその挑戦をする前に、ある特別な木の枝(黄金の枝)を折り取らなければなりません。この野蛮な慣例の奥底には、人間社会に普遍的に存在する何らかの動機があるのではないか、と著者は考えます。
人と自然の関係に関する考察から「共感呪術」が生まれます。原理は「どのような効果もそれを真似ることで生みだされる」。日本だったら丑の刻まいりの藁人形ですが、同じ発想は世界中で見られます。この「共感」は「自然を操ることができる人間神」に繋がります。古代に「人」と「神」は実は地続きだったのです。
日本では、神木や鎮守の森で「樹木崇拝」は今でも生きていますが、ヨーロッパでもかつて全域が森林に覆われていた頃には樹木崇拝が広く行なわれていました。その例も広く紹介されます。
本書の中では「共感呪術」について広く世間で語られている、という印象を私は持っていますが、実に豊穣な内容の本で、とてもここで簡単に説明できるようなものではありません。もしお暇がありましたらゆっくりと手に取ってみられることをお勧めします。
丸山圭三郎さんは「19世紀の“枠組み”を批判して『20世紀』の基礎を作った人たち」として、マルクス・ニーチェ・フロイト・ソシュールを挙げていますが(『ソシュールを読む』岩波書店)、フレイザーの本書も上記の4人に通底する部分を持っているように私には感じられました。「ヨーロッパを絶対的な存在としないこと」「キリスト教の神で“世界”を説明しないところ』などは同じ匂いがするのです。特に近代科学が「集めること(博物学)」を一つのルーツとしていることと、本書が世界中から文献を集めて構成されていることも、また似た匂いを私は嗅ぎつけています。そういった点で、本書は時代を超えている、と言ってよいでしょう。


メディカル・ツーリズム

2010-07-13 18:39:30 | Weblog
最近日本のあちこちで「メディカル・ツーリズム」が謳われているそうです。海外から観光客を呼んで、観光のついでに日本の病院で人間ドックを受けてもらい、それでお金を落としてもらおう、という算段です。それは良いんですけど、日本は今医者不足なんでしょ? どこからその「ツーリズム用の医者」を調達する気なんでしょうねえ。それとも、現在の“日本人枠”を削って、海外向けに回すのかな?

【ただいま読書中】『脳外科医になって見えてきたこと』フランク・ヴァートシック・ジュニア 著、 松本剛史 訳、 草思社、1999年、2300円(税別)

著者は冒頭で「脳神経外科医は、傲慢な職業である」と断言します。この世で人間にとって一番大事なものの一つである「脳」を、自分の手でいじくり回すのですから。しかも、脳の神経細胞には再生能力がありません。外科医が一度切れば、そこはずっと切れたままなのです。メスを入れる場所が1mmずれたら、ちょっと手が震えたら、それは患者に永遠に残る傷を残したり、あるいは生命を奪うことさえある、そんな緊張感のあるお仕事なのです。それを平然と行なう人たち、脳神経外科医は、だから「傲慢な職業」なのです。
著者は、まるでカオス効果のような偶然に連続によってメディカル・スクールに入り、さらにその3年生のときほんの偶然で脳神経外科の世界に触れることになり、それで人生が決まります。そこでの働きぶりが気に入られたのか、脳外科の“ボス”から直々に「われわれの一員にならないか」と誘われたのです。
脳外科で著者が出会ったのは、様々な病気や怪我でした。まるでドラマの「ER」のような緊急事態の連続です。さらにそこに次々登場するのは……「普通の人々」です。患者も医者も、みないろいろな面を持つ「普通の人々」なのです。著者は……ちょっとユーモア感覚がひねくれ気味ではありますが、やはり「普通の人」です。普通の素晴らしい人で、だから良い医者になれたのではないか(彼は自分では「自分はよい医者だ」とは主張しませんが、ことばの流れからそれは読み取れます)、と私には感じられます。
研修医として大学病院に入った著者を直接鍛えたシニア・レジデントのゲーリーがきわめて印象的に描かれています。口が悪くだらしなく、だが腕はピカイチ。緊急事態には軽薄の仮面をすぐに投げ捨て、判断も腕の動きも速い一流のプロとしてきびきび動き、さらに見込みのある若手には手を惜しまず鍛え上げます。どんな商売でも、このような先輩にマンツーマンで鍛えられたら、少なくとも素質のある人はぐんぐん成長することでしょう。さらに、後日レジデントを鍛える立場になった著者がゲーリー(たち)をモデルとして行動しているところが笑えます。
心温まるほのぼのとしたエピソード、人情味溢れるお話、心が痛む話……医療の世界ですから、そこに登場する話には「生と死」がどうしても色濃く投影されるのですが、単純なお涙ちょうだいを突き抜けた著者の語り口には惹かれるものがあります。冷静さと暖かさとユーモアと真剣さが無理なく同居しているのです。高校生に、というか、これからの自分の人生を真剣に考える人間には(それが医療系ではなくても)お薦めできる本です。


次の選挙

2010-07-12 18:50:28 | Weblog
新聞のどこかに「次の世代のことを考えるのが政治家で、次の選挙のことを考えるのは政治屋」とありました。すると「次の世代のことを報じるのはマスコミ。次の選挙のことだけを報じているのはマスゴミ」なんでしょうか。

【ただいま読書中】『図書館の親子』ジェフ・アボット 著、 佐藤耕士 訳、 早川書房、1998年、860円(税別)

シリーズ第3作です。オープニングは、図書館長のジョーダンの12歳の時の九死に一生を得たエピソード。その時母親はまだ若くて美しく、現在のアルツハイマー患者との対比が痛切なくらいこちらの心に響きます。ただ、このオープニングが本筋にどのように絡むのだろう、とも思うのですが。
ジョーダンは図書館でいくつかの気になる(問題を抱えていそうな)親子の姿を目に止めます。自分を含めて、というところが彼らしいのですが。
そして、オープニングで出てきたジョーダンの友だちが町に帰ってきます。ジョーダンの姉と結婚し、そしてロデオをするために妻と息子を捨てて町を出て、ジョーダン一家に限りない悲しみを与えた男が、他の女と子供と一緒に。ジョーダンは怒りくるいます。ところがその日、町で殺人事件が起きます。殺されたのはジョーダンの幼なじみで高校時代の親友クリーヴィー。翌日はやはり幼友達のトレイが。そして現場には「これで二人」の血文字が残されていました。あまりに自分に近い殺人事件のため、ジョーダンも、そして警察署長でジョーダンの幼なじみのジューンバッグも、とまどい、自分自身を見失いそうになります。しかし続いて第三の事件、ジューンバッグが頭と胸を撃たれたのです。
実はジョーダンたちの「12歳のエピソード」は、ハリケーンのさなかの肝試しでした。そこで彼らは自らが死ぬような目に遭いますが、同時に若い黒人女性の死体を発見していました。そして、現在の連続殺人事件に、その昔の話が関係しているようなのです。ジョーダンは例によって動き始めます。「次は自分かもしれない」という恐怖と戦うために。そして、昔からの親友でさえ知らない幼なじみたちが抱えている謎と心の闇を解明するために。
「なぜ」が何重奏にもなって繰り返し演じられます。トレイはなぜすべてを捨てて町を出たのか。なぜ帰ってきたのか。なぜ殺されたのか。クリーヴィーは友人たちが知らないところで何をやっていたのか。なぜ殺されたのか。なぜジューンバッグは狙撃されたのか。なぜジョーダンの家は荒らされたのか。なぜ? なぜ? 事件は「現在」起きていますが、その背景には「過去」があります。ジョーダンはそのことに確信を持っています。ただ、証拠も筋道だった説明も得られません。あるのは、伝聞と推測だけなのです。
ジョーダンはかつて思春期の少年でした。その過去が何度も彼の前に立ち上がります。それと二重写しになるのは、ジョーダンの甥やその友だちなどの、現在思春期の少年をやっている人たち。そのことの重要性にジョーダンはなかなか気がつきません。さらに彼が無視をしているのは、自分よりも年長の人たちもまたかつては思春期を過ごしていた、ということですが、これは本書の本筋とはあまり関係がないので省略をしても良いでしょう。本筋と関係があるのは「プライド」かな。肝試しで始まる本書は、「プライド」で読み解くと意外と簡単に真犯人が見つかるかもしれ……いや、無理ですね。本書では「容疑者リスト」が有効に使われます。いかにもあやしげな人、いかにもあやしくないからこそあやしげな人、ところが真犯人は……いやもう、このシリーズの“恒例”と言って良いのでしょう、二段落ちの落差の激しさにはこちらは腰を抜かしそうです。未読の人は、しっかり安全ベルトを締めてから読み始めてください。でないと、最後に、それまで泣けなかった人が泣くところで、涙に攫われてしまいますよ。



卑怯

2010-07-11 20:27:28 | Weblog
ヘボ将棋の中盤や終盤、ときどき「待った」と言う声がかかることがあります。「時よ戻れ」と言うわけですが、これが相手の指し手を見る前の「待った」だったら縁台将棋レベルなら問題はないでしょうが、相手の指し手を確認してから言っている場合には、卑怯なやり口です。
「卑怯」と言えば「待ち駒は卑怯」という言い方があります。王が逃げようとする退却路に「そこには逃がさない」と戦力を投入された場合に使われます。これはつまり相手に「お前はその手で勝ってはならない」「お前は王手をするべきだ」と命令をしているわけですが、それは下らないセリフです。だって、そのセリフの後にはかっこ付きで「そうすれば自分は負けないですむ」がくっついているのですから。そもそも対局中に相手に指し手の指示はできません。
相手の王が詰む、あるいは、最低かけた方が有利になる場合には王手をかけるべきですし、そうではない手が最善なら王手ではない手、つまり常に自分に思いつく最善手を指すのが将棋では当然なのです。それを相手に向かって「お前は最善手を指してはならない。最善手を指すのは卑怯だ」と主張するのは、いくら負けるのが悔しいからといって、それこそ卑怯なセリフです。負けたくなかったら、最初からやらない、あるいは途中で潔く投了して「自分の王は詰んでいない」と言いながらリセットをかける、という手もあるんですけどねえ。
いや、たかがヘボ将棋で堅いことは言いたくありません。だけど、自分が卑怯なことをしておいてそれが相手のせい、と言うのはあまりに変、と言いたいだけです。

【ただいま読書中】『羽生善治のみるみる強くなる将棋入門 終盤の勝ち方』羽生善治 監修、池田書店、2010年、950円(税別)

今年の名人戦は、スコアこそ4−0のワンサイドでしたが、とてもはらはらどきどきする対戦が続いて、私は十分堪能できました。相手の研究領域にでも平気で突入していき、そこで相手以上の読みを披露する羽生名人の“芸”の凄さは、読みを完全に理解することはできませんが(なにしろ居並ぶプロでさえ唖然とする手が登場するのですから)、すくなくともその“凄さ”だけは感じることができました。
さて、将棋は「序盤」「中盤」「終盤」に大まかに分けられます。序盤では小さなポイントを稼ぎながら突破口を探り、中盤ではなるべく駒損をしないようにしながら相手玉に迫ります。しかし、終盤では発想をがらりと切り替える必要があります。「肉を切らせて骨を断つ」「駒得より速度」になるのです。将棋の目的は「王手をかけること」でもなければ「駒を得すること」でもなくて「相手玉を詰ませること」なのですから。ここで羽生さんは「王を取る」という発想を持ってはいけない、と説きます。それだと「王手至上主義」になってしまうからです。あくまで将棋の目的は「相手玉を詰ませる」こと。ですから、王手以外も広く考える必要があるのです。
本書は将棋の入門書ですから、練習問題は基本的で素直なものが並んでいます。ある程度の力を持った者には物足りないかもしれません。ただ、単なる問題集としてではなくて、将棋の思想(と言ったら大げさかな、だったら発想)を学ぶための本、と思えば、たとえば有段者でも学べるものがありそうに思えます。たとえばアマチュアでは「詰めろ(次で詰めるぞ)」を軽視している人が多いのですが、本書では「詰めろ」がいかに重要か、繰り返し繰り返し説かれます。「今厳しい手」と「次に厳しい手」の価値の比較は、実はけっこう難しいのですが(下手すると、その人の将棋の実力だけではなくて、人生観まで曝露されます)、歯を食いしばって読み決断をし、そしてその結果を受け入れる、それを繰り返すのが将棋だし、人生にも同じことが言えるのだ、と私は感じます。
たかが将棋。されど将棋。


宣教師の視線

2010-07-10 16:01:58 | Weblog
KKKって最近はあまり聞かなくなりました。正式名称はたしか「クー・クラックス・クラン」で、白人至上主義を標榜し、主に黒人をリンチすることや黒人の味方をする白人を襲撃することが大好きな集団でした。その意識の根底は、「黒人はクズ」という軽蔑の念でしょう。少なくともKKKのメンバーが黒人と対等の関係を築こうとした、とは言えません。
KKKのことを書いたら、宣教師のことを連想しました。
ルネサンスやら新教の勃興に危機感を深めた旧教は、世界中に宣教師を送り出して勢力の拡大を図りました。教会のためだけではなくて、野蛮人どもにキリスト教を信じるという恩恵を与えられるのですから、やってる人は大満足。だけど、その根底には「こいつらは無知な野蛮人。おれがすべてを教えてやる」という軽蔑の念がありました。野蛮人だから何をやっても許されるし相手と対等の関係を築く必要もありません。だから宣教師は平気で現地の文化を破壊しました。(「インディオは人間である」宣言を教会がしたのは、宣教が始まってからずいぶん後のことだったはずです)
で、「ザ・コーヴ」という映画。これまた「ジャップはこんな野蛮なことをやっている」という軽蔑の念があるように私には感じられます。で、野蛮人は教化してやらなければならないが、相手が野蛮人だったらなにをやっても許されるし、相手と対等に会話する必要もない、と。つまり、KKKやかつての宣教師たちと通底するものを持っているのではないか、と私は感じるのです。
もちろん「ジャップめが!」ではなくて「日本人は対等の存在で、尊敬もしている」と主張するかもしれませんけれどね。ただし、もし後者の主張だとしても、私は映画を撮った人が、たとえばKKKに対しても同じ視線と同じ手法で映画を撮影して公開したら、その主張を認めることにします。遊園地でのジェット・コースターのように、安全が確実に保証された上での「危険」を楽しむような「隠し撮り」を見ても、感心しないのです(日本の漁村での隠し撮りって、その程度でしょ?)。本当に命を賭けてのKKK(それも地下組織の過激派)の隠し撮りだったら、その“覚悟”を認めても良いですけど。
なお、私が批判しているのは映画の手法とその“視線”です。その主張については……私個人はイルカ肉は好物とは言えないので、「イルカを食べるな」という主張に反対はしません。賛成もしませんけどね。だって、自分の食い物の好みを他人に押しつけるほど、私は傲慢な人間ではありませんので。

【ただいま読書中】『ピーター☆パン イン スカーレット』ジェラルディン・マコックラン 著、 こだまともこ 訳、 小学館、2006年、1900円(税別)

1926年、ロンドンのあちこち、あるいはロンドンから遠く離れた場所でも、立派な紳士となった「もと男の子」たちが悪夢に襲われるようになりました。共通点は、その夢がネヴァーランドの夢であること、そして「もと男の子」たちがかつてネヴァーランドで暮らしたことがあること。ウェンディは言います。「ネヴァーランドで何か悪いことが起こっているのよ。だから、わたしたち、あそこへもどらなきゃ」
だけど、どうやって? ウェンディはてきぱきと準備を進めます。まず妖精を見つけなきゃ。それから、自分たちは子どもに戻らなきゃ。だって、子どもが妖精の粉を浴びて楽しいことを考えたら空を飛べるのですから。
さあ、出発! 不安と期待で一杯の一行を迎えたのは、変わり果てたネヴァーランドでした。海に人魚が見えず、森で小鳥は歌わず、ピーター・パンはひとりぼっち。ティンカー・ベルの姿もありません。木々の色も変わっています。動いてはいけないはずの「時間」が、動いているのです。
そして島にはラヴォッロサーカス団が来ていました。子どもしか来られないはずのネヴァーランドに、どうして大人のラヴォッロが? さらに危険な「わめき屋たち」も。
ピーター・パンの性格も変わっていました。前は無邪気で残酷だったのが、今は邪気のある冷酷さが臭うようになっているのです。ピーター・パンは宝探しに出発します。それは楽しい冒険のはずでしたが、いつしか本当の危険に満ちた旅になっていました。そして氷雪の山のてっぺんで彼らが見つけた宝箱には、“冬眠”をしていたティンカー・ベル。そして、フック船長が“復活”します。
ただ、フックは変貌していました。ここで明かされる彼の衝撃の過去は、一読の価値があります(ちょっと大げさかな?)。さらに戦争の影。成長したウェンディは弟を第一次世界大戦で失っていましたが、それがフックとウェンディの心を一瞬つなぎます。現実が夢物語を侵食するこのシーン、私はちょっとほろりときます。
『ピーター・パン』は彼の影のことで話が始まりましたが、本書は彼の影のことでページを閉じます。ぐるりと話が回ったような気がして、また『ピーター・パン』を読みたくなってきました。