瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』09

2012年04月20日 | 読書日誌
引き続き、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約。今回は第4章である。

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第4章 時間/永遠,空間/無限

◆絶対的主体性
「自己は客観化されえないから、つまりほかの何ものにも認識されずにすべてを見る見者であるから、主体/客体の関係や見かけの自己の主観性は、相対性の地平に存在するだけで、絶対的な次元では消滅する。」(ラマナ・マハリシ)P126

見ているのは、わたしの主観的な自我的自己であるはずはない。なぜなら、それは見られうるものだからだ。‥‥わたしの「自己」は知覚されうるゆえに、知覚している当体ではありえないのだ。P128

この主体を知るには、いますぐここで自分自身に深く探りを入れ、問わなければならない。「善悪に基づいて考えるもの、見るもの、聞くものとは何か?」と。こういったやり方で自分自身を深く問えば、きっとあなたは悟るであろう。(ラマナ・マハリシ)P128

絶対的主体性とは非二元的意識であり、その性質は、「知る」対象と一つであるところにある。ところが、われわれは過って自我的自己を真の主体とみなし、それによって、この「自己」を「外的な」対象から切り離してしまい、二元論的な象徴的かつ「客観的」知の様式に足を踏み入れる。‥‥これがあらゆる幻想の根源である。P130

われわれの二元論的な幻想の源泉は、客観化のプロセス、つまりリアリティを主体を通した客体として知ろうとするプロセスである。この企ては、必ず失敗に終わる。なぜなら、絶対的主体はそれ自体であることをやめずに、(すなわち、それ自体から切り離されずに)対象になることはできないからだ。P133

絶対的主体性ないし心は一般的に無限かつ永遠なるものとして説明されるが、これらは非二元的な知の様式によって明らかにされるリアリティを表す二つの概念にほかならない。
P138

◆無限 P139~P144
「全包括的」な無限なるものは、対立するものをもたず、何ものからも離れては存在せず、
比喩的な意味で、いかなる境界ももたない。‥‥無限は、空間のあらゆる点に存在する。つまり無限にとって、すべての空間は絶対的なここである。‥‥無限なるものは有限の存在の対立物ではなく、むしろその「基盤」なのである。(cf:青で描かれた図形と青色との関係)P139
華厳では、こういった洞察が事理無碍、すなわち「無限と有限の間には、いかなる障害物もない」と表現されている。曹洞宗の洞山禅師の「偏中至」も同じで、「無限は有限の事項を通して理解される」ということだ。ブレイクの「一粒の砂に世界を見る」と同じである。P139

鏡の比喩 P140 (般若心経の不生不滅も鏡の比喩で説明されることがある。)

「内部の主体」と「外部の客体」との分裂、すなわち隔たりとは、微妙な幻想である。真の自己は、世界と距離を置いたところから知るのではない。介入する隔たりの痕跡を少しも残さず、世界であることによって、世界を知るのだ。そして隔たりのないものは無限である。P144

◆永遠 P144~P149
無限のすべてが空間のあらゆる点にもれなく存在しているように、永遠のすべては時間のあらゆる点にもれなく存在している。‥‥無限にとってすべての空間が「ここ」であるように、すべての時間はまさしく「今」である。とすれば当然、過去と未来は、はなはだしい幻想であり、「唯一の現実(リアリティ)は現在の現実である」ということになる。P144

仏教のあらゆる実践形態の第一のねらいは、ただ単に永遠なる現在に目覚めることである。
「始まりのない時間と現在の瞬間とは、同じものである‥‥。時間が実在するものではないことを理解すればよいのだ」(黄檗)
「この霊的世界では、過去、現在、未来といった時間区分はない。それらは、生命が真の意味で躍動する現在の一瞬に収斂してしまっているからである」(鈴木大拙)
「心が永遠であることを自覚することが究極の悟りと呼ばれる」(大乗起信論)
禅の教えの骨子、「絶対的瞬間の把握の仕方を知ってさえいれば、究極のリアリティは日々の体験の核心に横たわっている」(チャン・チュン・ヤン)P147

(時間は我々の観念が作り出した虚構にすぎないのだとすれば、その虚構から解放されたとき、永遠しか存在しえない。)

◆空間・時間・物体の相互浸透性 P149~
空間は、物体を離れては存在しえない。なぜなら定義上、空間とは物体を取り囲むものだからである。‥‥物体は存在するためには、持続しなければならない。‥‥翻っていえば、継続時間の有無は物体に依存する。なぜなら、持続する物体なくしては、いかなる継続期間もありえないからである。こういった意味で、時間と物体とは一つである。そして、ひいては時間と空間も、一つであることになる。このように、空間、時間、物体は、相互に依存しあい、不可分であるため、これら三つのうちのいずれか一つの非現実性は、ほかの二つの非現実性を示唆するのだ! ということは空間と時間は幻想であるから、われわれは、多少異なったやり方で、中観派の「物体」の空の「教義」と、華厳の事々無碍、すなわち「万物の相互浸透性」の教義を証明してみせたにすぎない。P150

参考:般若心経
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 
是故空中 無色‥‥‥

「物」とは、単なる思考の産物にすぎず、宇宙を構成する実体ではない。「物」とは選択的に注目された断片であり、全感覚的ゲシュタルトから不可分の「背景」を無視することによって切り取られた「形」にほかならない。‥‥これらの注目された断片は、言葉、名称、その他のシンボルによって意味を付与されることにより、真の、生きている、独立した「物」という想像上の地位に祭り上げられる。P151・152

「「空」とは、「縫い目のない」ことを意味するのであって、「特徴のない」ことを意味するのではない。いずれにせよ、思考が、世界とは「外部」に存在する数他の分離独立した「物」であるというもっともらしい幻想を呈示するのは、われわれが習慣的に縫い目のない場の特定の面だけ注意を向けているからにほかならない。P152

◆まとめ
世界を正しく見ること、絶対的主体性を体験すること、それを無限や永遠として知る事とは、単に、過去対未来といった時間的な二元論や主体と客体という空間的な二元論を放棄するという問題ではない。すべての二元論同様、これらの二元論は偽りというより、むしろ幻想であり、それらを放棄しようとする試みも誤りではなく、無意味なのだ。時間や空間は、それらが存在しないといまっとうな理由では、破棄されえないのである!P160-

「内なる自分自身」と呼ばれる感覚と「外部の対象」と呼ばれる感覚とは、つねに、一つの感覚なのである。この瞬間、あなたはこの頁自体を読むこの頁なのだ!
さて、観察者が観察されるものであるこのような永遠の現在の非二元的な自覚の状態を、われわれは心と呼んできた。在るのは、つねにこの状態のみである。自覚の有無にかかわらず、実際に、主体は決して対象から分断されないからだ。‥‥あなたがこの目撃者、至高の知者、絶対的主体性、知覚者を見い出すために、相対的な主体の「背後」へと回りこんでも、そこに見い出すのは、知覚の対象だけである。これは知るものと知られる世界とが同一であることを確認するものである。非二元的把握そのものが心なのだ。P162
あなたが、「こちら側の主体」としての自分自身と「あちら側の対象」としての残余の世界との分裂とみなしたものが、実は微妙な幻想であり、実のところ世界は決して見るものと見られるものとに分断されず、見るものと見られるものとは、現在の行為のなかでつねに融合されていることが明らかになる。したがって、真実の世界を唯心とか唯意識とか絶対的主体性とか読んでも、まったくさしつかえない。‥‥このように「空」、「法界」、「ブラフマン」などと同じように、「絶対的主体性」とは、世界自体から不可分の、それゆえ世界自体に対して偽りのない真実の世界を指す別称にほかならない。P163

「内部」の観察する主体としての自分と、「外部」の観察される対象との間にある隔たりは、絶対的主体性のなかにあっては欠落している。そして、隔たりのないものは無限である。同様に、過去と未来との間の時間は絶対的主体性のなかにはまったく見出しえない。今以外に、時間は存在しないからだ。そして、時間のないものは、永遠である。P165
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K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』08

2012年04月07日 | 読書日誌
引き続き、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約。第3章の四回目である。

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第3章 意識としてのリアリティ(続き)

◆華厳派
分離した「物」は存在しないということは、すべての「物」は同一であるということであり、華厳派は、この同一性を強調するアプローチを選ぶ。すなわち空を吟味して、深遠な法界(ダルマダートゥ;リアリティの領域)の教義にまとめた。

世界は、一個一個の宝石がほかのすべての宝石を反映し、逆にその反映がほかのすべての宝石のなかに存在する輝く宝石の網にたとえられる(因陀羅網の喩え)。無限の法界においては、個々の物がすべて、いついかなるときにもいささかの欠陥も省略もなく完璧な形で、同時にほかの一切も含む。

分離したすべての「物」の基盤、すなわちリアリティは、心である。世界は一粒の砂であり、天界は一輪の野花であり、内部はことごとく外部であるなら、個々の物は実は心にほかならない。

そして、法界は華厳「哲学」の基礎をなすものとはいえ、究極的には哲学ではなく、非二元的な知の様式に基づく体験であることを忘れてはならない。法界の相互浸透と相互同化の教義は、それ自体、言葉ではとても表現できない匿名の無にとどまる非二元的なリアリティ体験を言葉に置き換えようとする人類最高の試みである。(P108~110)

西洋思想において、法界の考え方に近いものは、システム理論、ゲシュタルト心理学、ホワイトヘッドの有機体哲学のなかに見い出される。西洋科学は全体として法界的な宇宙観に急速に接近しつつある。「一方通行の因果律の内で活動する分離可能な単位という枠組では不充分であることは判明したこと、それが現代科学の一特徴といってよかろう。したがって、全体性、包括的、有機体的、ゲシュタルトといった概念の科学の全領域における出現は、われわれが最後の手段として、相互作用しあう要素からなるシステムに照らして考えなければならない。」(ベルタランフィ)(P111)

◆瑜伽行派(唯識)
瑜伽行派は、主体と客体の二元論の役割を、幻想を生み出し、世界を自己欺瞞に陥れるものとして強調している。瑜伽行派はそれを、一貫した深遠な心理学の基礎に据えたがゆえに取り上げる価値がある。対象化はすべて幻想である。あるいは単に、あらゆる対象は、すべて幻想である。そして、あらゆる対象は頭の産物である。これが瑜伽行派の洞察の核心をなす洞察であろう。主体と客体が二つのものでないことを心底から悟ると、プラジュニャー(般若)、つまり非二元的な知の様式が目覚める。唯心のリアリティが明らかにされるのは、この様式においてにほかならない。(P113~116)

世界のおもな伝統の簡単な概観の締めくくりとして

大半の伝統では、類推的、否定的、指示的という三つのアプローチがすべて活用されるが、そのいずれに強調点を置くかは、伝統によって異なる。

人間が自己を世界から切り離し、そこから「知識」を引き出せないのは、目が目自体を見ることができないのと同じことである。ところが人間は、二元的な知識に頼り切っているので、意味をなさないことを試み、自分が成功したと思い込む。けれども、もち世界を見るものと見られるもの、知るものと知られるもの、主体と客体に分断することによって、否応なく世界が世界自体から分け隔てられて、自己欺瞞に陥るのであるなら、「主体と客体が一つのものである」ことを理解することによってのみ、現実世界の認識が可能となる。この認識のみが「絶対的真実」なのである。(P118~120)

リアリティとは、主体と客体が分断されず、時空に広がる分離した対象に抽象化されない縫い目のない衣である。それゆえ真の世界の発見は、「対象から疎外された主体」や「時空の中に浮かぶ独立した物の総体」が、実は「一つの身体の部分」であることを明らかにする。これは、リアリティとその知覚とが、同じ一つのものであることを意味する。それは「世界の世界による知覚」(R・H・ブライス)と呼ぶこともできる。(P121・122)
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K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』07

2012年01月04日 | 読書日誌
引き続き、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約。第3章の三回目である。

リアリティについて語る三つのおもな方法、類推法、否定法、指示法のうち、中観派は、その否定的は方法の徹底性において群を抜いている。以下はその中観派の方法のかんたんな説明である。

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第3章 意識としてのリアリティ(続き)

◆中観派‥‥否定的方法のもっとも純粋な形態を代表する
言語は二元的ないし相関的であり、それゆえどんな肯定も否定も、自らに対立するものとの関連でのみ意味をもつ。いかなる言説も、それと対立するものとの兼ねあいによってのみ意味をなす。それゆえ中観派は、すべての言説が純粋に相対的であることを明らかにする。ただし中観派は、絶対的な実在はないと主張しているのではなく、リアリティに適用できる観念などないと指摘するのである。それはリアリティを理解せんとする理性の拒絶である。リアリティとは理性の不在(空)なのである。(P97~99)

中観派は、「真実をおおい隠す観念の諸構築物」を根こそぎ引き抜いて廃棄することを本分とする。そのため特定の哲学ではなく、あらゆる哲学の批判なのである。彼らがすべての二元論的概念を破壊する唯一の理由は、象徴的・地図の様式の知にのみ依存せんとするわれわれの習慣をぶちこわし、そのことによって、それのみがリアリティをに触れている非二元的な様式の知に門戸を開かせるためである。思考の全面的否定は虚無主義ではなく、智慧、すなわち非二元的洞察の入口なのである。(P103 )

われわれのリアリティの知覚は、ほとんど気づくこともない無意識の概念によっていつも歪められている。物とは、たまたま実用的あるいは美的にわれわれの興味を引き、その興味のゆえに名称が与えられ、排他的で独立した存在と錯覚される感覚的性質の集合体である(ジェームズ)。思考はリアリティを、簡単に把握できる小片に切り刻むことによって物を生み出す。人は考えているとき、リアリティを歪め、物を作っているのだ。「そうすることで現実の本質そのものが、流れ去ることを許してしまう。」(ベルグソン)こうしてわれわれは、世界を幻だらけにしてきた。だからこそ中観派は、リアリティとは概念的な敷衍の不在であり、分離したものの不在(法;ダルマ)であるというのだ。(p104~107)
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K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』06

2012年01月03日 | 読書日誌
引き続き、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約。第3章の二回目である。

前回の最後で、リアリティについて語る三つのおもな方法が列挙された。それは、類推法、否定法、指示法の三つであった。以下、この三つの方法を用いて、絶対者に関心を寄せる世界のおもな伝統が概観されるのだが、ここではその主なものをかんたんにまとめただけなので、それぞれの分野でこの三方法がどのように用いられているかまでは、要約されていない。ただ、それぞれの領域で、それぞれの仕方でリアリティが語られいるのだということは分かっていだだけると思う。

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第3章 意識としてのリアリティ(続き)

◆量子力学
ジェームズ・ジーンズ(Sir James Hopwood Jeans 、1877年~ 1946;イギリスの物理学者、天文学者、数学者)‥‥「自分自身を時間と空間のなかで見るとき、われわれの意識は明らかに一個の粒子のように分離した個であるが、時間と空間を超えるとき、それらは切れ間のない生の流れの構成要素をなすのかもしれない。光や電気と同じことが、生命にもあてはまるのかもしれない。」(P81)

◆大乗仏教‥‥唯心(チッタマトラ)、一心(エカチッタ)
「真理とは、非二元的洞察を介した知恵によって、内的に体験される自己実現であり、言葉、二元性、ならびに知性の領域には属さない‥‥すべてが心なのである。」(『瑜伽経』)
「画家がさまざまな色を混ぜあわせえるように、心の偽りの投影により、あらゆる現象のいろいろな形が作られる。」(『華厳経』)
「絶対者という意味で、心それ自体リアリティ(法界:ダルマダートゥ)の領域であり、全体性の内にある、ありとあらゆる存在の局面の本質である。「心の本質」と呼ばれるものは、不生、不滅である(時間と空間の超越)‥‥」(『大乗起信論』)(P83・84)

◆キリスト教
「あなたがたが二つのものを一つにするとき、内部を外部、上を下とするとき、そして男と女を一つにするとき‥‥、あなたがたは(王国)に入るでしょう。」(『トマス福音書』)
「イエスはいわれた。‥‥一片の木を割ってみなさい。わたしはそこにいる。石をもちあげてごらんなさい。そこにわたしを見い出すでしょう。」(同上)(P87)
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K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』04

2012年01月01日 | 読書日誌
引き続き、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第2章 二つの〈知〉の様式(続き)


主体と客体という認識論的な二元論に対応する存在論的なそれが、霊と物質(精神と物質)という二元論であった。科学者は確かにいかなる霊の素子も見出すことはできなかったが、重要なことは、彼らはいかなる物質の素子をまた見出せなかったということである。つまり量子力学は、精神と物質というもう一つの二元論をも絶滅の危機に追いやり、消滅させてしまう。二元論の放棄こそが新しい物理学がなしたことである。(p41・43・44・45)

主体と客体、霊魂と身体、エネルギーと物質とは、一つのリアリティへの二通りの接近方法であるにすぎない。このことに気づかず、「対立するもの」を互いに拮抗させ、どちらが「本当に」現実かを割り出そうとすることは、意味のない問題を解こうとするのと同じだ。‥‥求められているのは、非象徴的、非二元論的な知識、「科学の象徴の背後にある実在の直接的知識」である。(p47・52)

        象徴的・推論的・二元論的知識    直接的、無媒介的・非二元論的知識
道教           慣習的知識            自然の知識
ヒンドゥー教    低い知の様式(アパラヴィドゥヤ)    高い知の様式(バラヴィドゥヤ)
エックハルト      黄昏の知識            曙の知識
大乗仏教          識(ヴィジュニヤーナ)      智慧(プラジュニャー)

ホワイトヘッドはとくに、二つの知の様式を区別する根本的な重要性を強調した。「抽象化とは真理の一部を省略すること以外の何ものでもない。」また象徴的な知の様式は分岐、すなわち「縫い目のない世界の衣を切断することによって」機能する。‥‥この知の様式に対立するものが、ホワイトヘッドが会得(プレヘンジョン)と呼んだものであり、非二元論的な実在の知覚なのである。(p57)





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