瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』03

2011年12月29日 | 読書日誌
しばらく間隔があいたが、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第2章 二つの〈知〉の様式

外界の認識者兼探求者としてのわれわれの内実の意識は、究極的に理解の対象とはなりえず、知られざるもの、示さざるもの、把握されざるものとしてとどまる。‥‥ナイフがナイフ自身を切れないように、世界は自ら対象とすることはできない。すなわち、世界を知識の対象として知ろうとする試みは、いかんともしがたい矛盾を抱えている。‥‥世界を主体と客体――真実と虚偽、善と悪など――に分断するこの種の二元論的知識というものが、西洋の哲学、神学、科学の試金石そのものなのだ。(p26・28)

二元論的アプローチがこれまで有害であったおもな理由一つは、二元論の誤謬が思考の根を形成し、そのために思考によってその根を引き抜くことがほとんどできなくなる、ということである。この二元論を極限まで推し進め、その矛盾をできる方法は、二元論の信念を曲げずに究極の結論にまで推し進めてみることである。その意味で科学は二元論を根こそぎにする厳密なアプローチを提供しうる可能性を秘めている。徹底した実験主義と精巧な機器の使用が、二元論を極限にまで推し進めることを可能にする。(p30)

1600年ごろ、ケプラーとガリレオが、自然の法則が測定によって発見できるという原理を考案し、ヨーロッパ人は、この測定の観念、すなわち量の観念に夢中になった。究極的実在は測定できるものになった。すべての知識は客観的次元、すなわち、数、位置、動きといった「一義的な」客観的性質に還元できるものとされた。一方、主観的な側面、すなわち情動、感覚、直観といった「二義的な」性質は、つきつめれば非実在であるとして、完全に抹消されるべきものとみなされた。‥‥主体と客体という二元論に関する疑問には、新しい科学は応えず、単に回避されたのである。(p33)

科学は測定できないもの、客観的でないもの、証明できないものをにべもなく拒絶した。にもかかわらず、究極の結論に向かってわき目もふらず論理を推し進め、その究極的なところに到達した。(p35)

何かを測るにはある種の器具が必要である。ところが電子はきわめて小さいので、たとえば一個の光子としての「光」をでさえ、それによって電子を測ろうとすると、その測定行為によって電子の位置を変えてしまう。人は影響を与えることなく二元論的に世界をいじくりまわす ことができるという仮定が、支持できないことが判明した。ある種の神秘的な形で、主体と客体は緊密に一体化されていた。世界の「究極的実在」を正確につきとめることができないことを数学的に表したのが、ハイゼンベルクの不確定性原理だった。それは実在に関する古典的、純二元論的アプローチの終焉を告げるものだった。量子革命が革命的だったのは、それが古典物理学の試金石そのもの、その全構造がその上に立つ土台を攻撃したからである。その土台とは、主体と客体の二元論である。(p37~39)
要するに、世界が主体と客体、見る状態と見られる状態に分断されるとき、必ず何かが取り残されるのだ。この状態にあっては、世界は「つねに自身の一部を把握しそこねる」。どんな観測系も自らの観測する姿を観測することはできない。見るものは自ら見ているところを見ることはできない。あらゆる目は盲点をもっている。そのような二元論的な試みの行き着く所で、われわれが不確定性や不完全性しか見いだせないのは、まさにこういう理由からなのである。(p41)
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K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』02

2011年10月05日 | 読書日誌
引き続き、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第1章 意識のスペクトル(続き)

自我のレベルと実存のレベルとは、一体となって個別の自立した個人という一般的な感覚を構成する。たいていの西洋的なアプローチが着目してきたのは、これらのレベルである。それに対し、東洋の哲学はおおむね心のレベルにより大きな比重をおき、自我中心のレベルを一顧だにせずにやり過ごしてしまう傾向がある。つまり、西洋の心理療法は個人の自我を「取り繕う」ことを目指すのに対し、東洋のアプローチは自己を超えることを目指すのである。(p12)

ほとんどの西洋的アプローチの表向きのねらいは、自我の強化、自己の統合、自己イメージの矯正、自信の確立、現実的目標の設定などと説明される。これに対し、おおかたの東洋的アプローチの中心をなす目的は、自我を強化することではなく、完全かつ全面的に自我を超越し、解脱、絶対者の徳、悟りを獲得することにある。(p15)

(以下、心のレベルに対する西洋人の否定的な先入観に対して) ヴェーダーンタとか禅とかいった東洋の教えは、理論でも哲学でも、心理学でも、宗教でもない。それらは何よりも、厳密に科学的な意味で、ある種の実験の組み合わせなのである。それらは一連の規則や指示を含んでいる。そういった規則は、正しく実行に移されれば、心のレベルを発見する手引きになる。‥‥われわれが心や絶対や神秘的自覚について語るとき、純粋に思弁的な観点から語っているのではなく、実験的に獲得されたデータを述べているにすぎない。(p17・18)

意識のスペクトル論をモデルとして使うことによって、互いに矛盾しあうことが多い複雑に入り組んださまざまな心理学的システムのなかに、何らかの秩序、内的論理、あるいは道筋を見出すことができるだろう。‥‥もし、意識のスペクトルやその主要テーマに寄与する偉大な形而上学的伝統に何らかの真実があるとすれば(洋の東西の)さまざまな心理療法の学派はめいめい異なったスペクトルのレベルに主眼を置いているということが即座に明白になる。(p23)

「永遠の心理学」にしたがうなら、個人的な自己を(ある意味で)幻想と、そしてそれが住む世界を夢と見なさざるを得ない。一方、東洋的な教えがこの夢からわれわれを目覚めさせることができるとしても、それまでの間、西洋のそれは夢が悪夢になることを防いでくれるだろう。(p24)
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K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』01

2011年10月03日 | 読書日誌
ある会合で知り合った方から、数か月前にいっしょに読書会をやらないかというお誘いを受けた。それぞれに何を読むか提案しようということだった。彼は、現象学や仏教に関心が深いので、私からケン・ウィルバーの本を提案し、それが受け入れられた。彼と私のほかにもう一人の参加者がいて、お二人ともケン・ウィルバーは読んだことがないというので、『意識のスペクトル 1』を読むことを提案した。ウィルバーが29歳のときに出版した処女作だ。私自身も十数年ぶりに読み返したいと思っていたので、7月に一度やった読書会は楽しかった。ただその後は、読書会の提案者の方の家庭の事情で行っていない。

以下は、そのときのレジュメである。章ごとに要約している。読書会が再開されるか否かにかかわりなく、第3章以降の要約も、このブログに掲載していこうと思っている。


K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 

第1章 意識のスペクトル
(意識のスペクトル論のごく簡単な紹介)
意識を一つのスペクトルとみなすことで、ある包括的な視点が得られる。意識のさまざまな探求者たち、とりわけ「東洋的」、「西洋的」と呼ばれる人たちは、互いに異なった言語、方法論、論理を用いているため、自分たちが全員、まったく同一のスペクトルの異なった帯域、あるいはレベルにのめりこんでいることに気づいていない。互いに互いが誤っているとする論争は、各人が別々のレベルから一つのスペクトルについて語っていることを認識することによって、はじめて解決される。(p5)

意識のスペクトル論

1)自我のレベル‥‥自分の役割、自分自身の像、自己イメージの意識的側面と無意識的側面を含むとともに、知性ないし「精神」の分析的、識別的性質をも包摂する帯域。

2)実存のレベル‥‥有機的全体、肉体と霊を含む、すなわち存在、つまりは生の基本感覚と、その感覚を多様に形どる文化的前提をあわせて包含する。
自己イメージの「奥」に感じ取られる全有機体的な存在感覚自分が自らのあらゆる体験の主体として個別に存在するという内的確信。(→cf:ロジャーズの自己実現※)

3)心のレベル‥‥一般には神秘的意識と呼ばれ、自分が根本的に宇宙と一つであるという感覚をともなう。(p11・12)

※「自分が"自分"になる」ということ(実存のレベル)の真意は、ロジャーズの次の言葉に端的に示されている。 「私が自分自身を受け入れて、自分自身にやさしく耳を傾けることができる時、そ して自分自身になることができる時、私はよりよく生きることができるようす。 ‥‥言い換えると、私が自分に、あるがままの自分でいさせてあげることができる 時、私は、よりよく生きることができるのです」 こうして、現実の、あるがままの自分を心の底から認め受け入れた時、どのよう な変化が生じるのか。これもロジャーズ自身によって次のように表現されている。
1)自分で自分の進む方向を決めるようになっていく
2)結果ではなく、プロセスそのものを生きるようになる
3)変化に伴う複雑さを生きるようになっていく
4)自分自身の経験に開かれ、自分が今、何を感じているかに気づくようになって いく
5)自分のことをもっと信頼するようになっていく
6)他の人をもっと受け入れるようになっていく  
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齋藤孝の方法

2011年09月24日 | 読書日誌
9月から、ある短大でコミュニケーション論ということで一コマ、講義をもっている。講義といっても半分は、実践的な演習だ。高校で、カウンセリングや国際交流(異文化コミュニケーション)などに携わっていた関係もあり、その短大に勤める友人から声をかけられたのだ。

その関係もあって、齋藤孝のコミュニケーションに関係する本を何冊も読んで参考にしている。齋藤孝の本については、以前に紹介したことがある。『呼吸入門 (角川文庫)』や『齋藤孝の速読塾―これで頭がグングンよくなる!』である。教育を東洋的な身体論の視点から見直し、しかも現代の教育現場でも違和感なく導入できるような形に充分に咀嚼しているので、以前から興味をもって読んでいた。

今回、この著者のコミュニケーション関係の本を何冊か読んで、改めて彼の力量と創造性、コミュニケーションにかかわる経験の濃密さ、文章力などに驚いた。もともと私が関心をもっている分野に重なる部分が多く、しかも現在は、短大の講義をどう進めるかという実際的な問題もあったので、夢中でよんだ。昨晩は、夢の中でさえ彼と対話をしていたので、自分ながら相当のはまりようだなと思った。

ここ数日で読んだのは、『「意識の量」を増やせ! (光文社新書 522)』、『コミュニケーション力 (岩波新書)』、『偏愛マップ―キラいな人がいなくなる コミュニケーション・メソッド』、『質問力 ちくま文庫(さ-28-1)』などである。

他の著者の、コミュニケーションや対話に関する本もいろいろ読んでいるが、書かれている内容や、踏まえられている実践や経験の濃密さは、齋藤氏の本が群を抜いている。その意味ではやはり、岩波新書の『コミュニケーション力 (岩波新書)』がいちばんだ。学生時代の「対話」に費やされた情熱や、大学の教室などでの膨大な実践での経験が凝縮されている。
この中で紹介されたいくつもの方法が、それぞれ独立の本となっている。『偏愛マップ』や『質問力』がその例だ。

現代の若者に欠けている対話やコミュニケーションの力、かつての日本には満ちていたが、現代の教育現場に欠けている身体に深く根差した教育力など、今の日本に欠けている大切なものを取り戻すために、この人の紹介する数々の実践的な方法が、もっと普及させることが重要だ。
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主観的体験とクオリア05

2010年03月22日 | 読書日誌
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より;脳の中のホムンクルス(小人)

《まとめ》「私」という視点が成立するメカニズムの、もっともナイーヴなモデルは、脳の中に小人(ホムンクルス)がいて、脳の中のニューロン活動をモニターしているというものである。現在では、脳の中にホムンクルスがいると信じる脳科学者はいない。

しかし、脳のある特定の領域に「自我」の中枢があり、他の脳の領域の活動がここに伝播されると「私」にそれが感じられるというようなモデルがあるとすれば、それは、暗黙のうちにホムンルクスの存在を仮定するといえよう。

そのような説明で脳全体に宿る主観性の構造を説明したとしても、今度は、脳の特定の領域のニューロン活動によって支えられるであろうホムンクルスの主観性自体がどのようにして生まれたのか、その起源を明らかにするという新たな問題が生じる。つまりホムンクルスに基づくモデルは、無限後退に陥ってしまう。(46)

◆非物質的なホムンクルス?
「ニューロンを一つ一集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」という茂木の率直な告白から、一歩進めて、ニューロンの物理・化学的な過程から主観性を説明することは、原理的に不可能なのだと認めたらどうなるだろうか。

それは非物質的なホムンルクスの存在を認めることになる。「脳のある特定の領域に「自我」の中枢がある」ともせず、したがって、その中枢を特定することもしない。

とすれば、ホムンルクスを、脳の特定の領域のニューロン活動として説明する必要はなくなるから、「無限後退」に陥る必然性はなくなる。

つまり、まったく別の説明原理を導入すると、脳と主観性に関する難問は、違った照明の下で、違った姿で見え始める。クオリア、主観性、心という問題には、物理・化学的な原理では説明し尽くされない次元が含まれるということを勇気をもって認めるということだ。

しかし、そのためには、物理・化学的な過程によって主観性の根本的な特性を説明することができないということを、原理として説明する必要がある。
 
今の私の考えでは、主観性を根本的な特性を説明するためには、目的論的な説明原理を持ち込まなければならないはずで、物理・化学的な説明原理からは、目的論的な説明原理を導き出せないということが、しっかりと論証できればよいのではないか。

基本的に「主観性」とは、世界を、生命維持という「目的」のために、意味的な統一として把握する機能だからである。

ところで、ホムンクルスについては、茂木の他の著書『脳内現象 (NHKブックス)』では若干違った解釈、違った視野のもとで論じられている。これもいずれ触れることになるだろう。
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