瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

明日より瞑想合宿

2007年12月27日 | 瞑想日記
また、久しぶりの日記になった。やはり以前に比べると修行への情熱が衰えているかも知れない。と同時に、書くことへの執着も衰えているかも知れない。

明日からの合宿については、もちろん期待や願いはある。しかし、期待や願いが強すぎ、しかもそうした自分の気持のあり方への充分な自覚(サティ)がなく、合宿最初の数日を振り回されてしまうという経験をいやというほどしてきた。今回は、合宿に臨むにあたっての自分の気持に充分にサティをしつつ臨むことになるだろう。いや、それはこれまでだって同じだったかも知れない。問題は自覚の深さなのか。

充分に自覚しつつ、そして結果をすべて自分を超えたところにゆだねる。そんな気持で臨みたい。

昨日、激しい頭痛があり、やっとの思いで仕事を片付け、帰宅途中、駅で吐いてしまった。一日何も食べていなかったので、吐いたのは水だけだったが。ということで昨日は、期せずして一日断食となった。単なる不摂生か。しかし、もしかしたら、合宿に入るための体の面での調整になったかも知れない。
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「地」と「図」の転換

2007年12月27日 | 瞑想日記
ガンガジの、前回に続く言葉。

「もしもあなたにこうした感情の重なりを最後まで徹底的に経験する意思があれば、あなたは最終的には底なしの深淵に見えるところに辿り着きます。この深淵は、無、空虚、無名と理性が認識するものです。これは非常に重要な瞬間です。なぜなら、完全に何ものでもなく、誰でもないことを進んで受け入れるということは、自由になることを積極的に受け入れるということだからです。何層にも重なった様々な感情はすべて、無の経験、すなわちあなたが自分だと思っているものの死に対する防衛手段です。いったんその防衛手段が崩れ、扉が開いてしまうと、恐れていた無と完全に向き合うことができます。この対峙こそ真実の自己探求によってもたらせれる啓示であり、それによってあなたの心の真ん中にずっと隠されていた真実という秘密の宝石が露にされます。見つかったダイヤモンド、それはあなたです。」(ガンガジ『ポケットの中のダイヤモンド』p181~182)

「誰でもないことを進んで受け入れる」ということは、「何ものも望まない」こと、「何ものも求めない」ことと、私にはほとんど重なり合い、響き合って聞こえる。私たちは、つねに今の私ではない誰かになろうと望み、求めている。そのような一切の希求をしない、そして誰でもないことに充足する。常に求め続ける私たちにとって、それはとてつもなく困難なことなのだろうか。いや、もしかしたらそれは、本当に一瞬「地」と「図」の転換によって起るのかも知れない。
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