瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■ラマナ・マハリシの根本体験

2019年07月01日 | 覚醒・至高体験をめぐって
2019年06月30日 | 覚醒・至高体験をめぐって
『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は障害児の母Jさんのの事例である。
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■ラマナ・マハリシの根本体験
ラマナ・マハリシは(1879~1950)は、南インドの中流のバラモンの家庭に生まれました。マハリシは「偉大な聖者」という意味で、その名の通り、すでにインド の古典的な賢者の一人、最もインド的なグルとみなされています。

ごく平凡な屈託のない少年だった彼が、高等学校に通っていた17歳のとき、その 根本的な体験をします。親戚の一人が亡くなったことをきっかけに、彼は死の体験 を直接探求しようとしました。彼は、驚くべき集中力をもって、自分の体が死んで 行くと想像したのです。

「叔父の家の二階の部屋に一人で座っていたときに、突然、物凄い死の恐怖が私に 襲い掛かってきた。私はめったに病気をしたことがなく、いつもと変わりない健康 状態だったので、その恐怖が身体の異常からくるものであるとは思えなかった。私 はただ死んでしまうのだという想いが頭をよぎり、何をすべきかを考えはじめた。 医者や兄や友人たちに助けを求めようという考えは起こらなかった。私はすぐに、 これは自分で解決すべきものだと感じた。

死の衝撃は私の心を内へと向かわせた。私は心の中でつぶやいた。
『今死がやっ てきた。これはいったい何を意味するのか? 何が死んでゆくのか? この身体が 死んでゆくのだ』。
私は手足を伸ばして、死後硬直が始まったかのように硬くなっ て横たわり、本物の死体に見えるようにした。私は息を止め、どんな音も漏れないようにした。また『私』をはじめどんな言葉も発することができないように唇をギ ュッと閉ざした。

『これでこの身体はもうおしまいだ』と私は心の中で呟いた。 『これから斎場へ運ばれ、焼かれて灰になってしまうことだろう。だが身体が死ん でしまえば私も死んでしまうのか? 果たしてこの身体は私なのか? 身体は明ら かに無言で生起がないが、私は私の人格が十分に機能していることを感じているし、 それとは別に、内側から「私」という叫び声まで聞こえてくるではないか! 私と は身体を超越した魂のことなのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して手を 離れられることはないのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して手を離れら れることはないのだ。私とは、不滅の魂なのだ』。

これらのことは決してとりとめもない漠然とした考えではなかった。それは私に ひらめいた生き生きとした真実であった。

 『私』とはきわめて実在的な何ものかであり、私の現在の状態で唯一実在してい るものであり、私の身体にまつわるすべての意識的な働きは、その『私』に集中さ れた。その瞬間から『私』あるいは真我は、それ自身に注意を集中し、引きつけら れていった。  死の恐怖はこれを最後に消え去った。しかし、私はそれからもずっと絶え間なく 真我に没頭し続けた。他のさまざまな考えは音楽を構成するさまざまな音のように 浮かんでは消えていったが、

「私」はあらゆる音の底に横たわりそれと調和する基 底聖音のように力強く続いた。会話や学習や他の諸活動をしようとも、私はいつ も『私』に注意を集中させた。その転機(死の体験)より以前は、私には真我につ いてのはっきりとした知覚がなかったし、それに興味を持ったこともなかった。ま してやその中に生涯にわたって留まっていようとは思ってもみなかった。」
 

ここに語られた根本体験が、彼の人格の全体を転換させ、その後の生涯を決定的 に方向づけたといいます。 世俗の生活にまったく興味を失った彼は、学校を止めて、内なる力につき動かさ れたかのように聖なるアルナーチャラの丘へと旅立ちました。そこは、何百年にも わたって賢者や苦行者が生活し修行した丘でした。 彼はそこで、語ることもなく、食事もとらず、まったく肉体を無視するかのよう でした。むしろ、肉体を必要としなかったも言われます。やがて次第に彼の周囲に信者が集まるようになり、それにつれて彼の生活も普通の状態に戻りました。
最初ラマナ・マハリシは、南インドの聖なる丘にあって、多くの人々に取り囲ま れながら、ほとんど口を開かなかったといいます。洞窟の中に住み、数年間沈黙がきました。彼は、みずから深く体得した究極の実在について言葉や思想で確認する必要なかったのです。私たちの存在の「源」に横たわる時空をこえた「根源的な気づき」、「究極的な意識」。その輝かしい流れは、彼が目覚めている間も、夢見 や深い眠りの間も、たえず体験され続けていたのです。 ただ周囲の人々が、その説明を求めました。そのため彼は人々にうながされて書物を読み、はじめて不二一元の哲学思想を知ったといいます。その思想は、すでに彼が体得していた体験に形を与えたにすぎないのです。

続きは以下でご覧ください。⇒ ラマナマハルシの根本体験
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