瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

日本になぜキリスト教は広まらなかったのか?(4)

2010年02月22日 | 瞑想日記
今回は、三つの論点のうち(2)を取り上げる。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

日本文化のユニークさの背景に、日本人が牧畜生活を知らず、また遊牧民との接触がほとんどなかったことがあると指摘する論者は何人かいる。(『日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)』、『日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)』、『アーロン収容所 (中公文庫)』など)

日本には、牧畜・遊牧文化の影響がほとんどない。日本に家畜を去勢する習慣がなく、したがって人の去勢たる宦官がいなかったのもそのためである。ユーラシア大陸のどの地域にも宦官は存在したのである。また人の家畜化である奴隷制度も根付かなかった。奴隷制度が根付かなかったのは、世界的にはむしろ例外に属するようだ。

ヨーロッパの牧畜文化が、その思考法や価値観にどのような影響を与えたかを考察することによって、日本人の思考法や価値観との違いを浮き上がらせたのが、鯖田豊之の『肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)』である。

旧約聖書の中には、人間と他の動物を明確に区別する考え方がはっきりと表現されている。

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。‥‥神はいわれた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。』」(創世記)

旧約聖書を生んだヘブライ人は、もちろん牧畜・遊牧の民であった。ヨーロッパでもまた牧畜は、生きるために欠かせなかった。農耕と牧畜で生活を営む人々にとって家畜を飼育し、群れとして管理し、繁殖させ、食べるために解体するという一連の作業は、あまりに身近な日常的なものであった。それは家畜を心を尽くして世話すると同時に、最後には自らの手で殺すという、正反対ともいえる二つのことを繰り返して行うことだった。愛護と虐殺の同居といってもよい。その互いに相反する営みを自らに納得させる方法は、人間をあらゆる生き物の上位におき、人間と他の生物との違いを極端に強調することだった。

ユダヤ教もキリスト教も、このような牧畜民の生活を多かれ少なかれ反映している。たとえば、放牧された家畜の発情期の混乱があまりに身近であるため、そのような動物との違いを明確にする必要があった。その結果が、一夫一婦制や離婚禁止という制度だったのかも知れない。

「肉食」という食生活そのものよりも、農耕とともに牧畜が不可欠で、つねに家畜の群れを管理し殺すことで食糧を得たという生活の基盤そのものが、牧畜を知らない日本人の生活基盤とのいちばん大きな違いをなしていたのではないか。

日本人が、ヨーロッパ人の言動に違和感を感じるとき、よく「バタッくさい」という言葉をつかったが、これはまさに牧畜文明に対する馴染みにくさを直感的に表現していたのかも知れない。キリスト教の中にも同じような馴染みにくさを感じるからこそ、日本にキリスト教が定着しなかったのではないだろうか。
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日本になぜキリスト教は広まらなかったのか?(3)

2010年02月20日 | 瞑想日記
前回、日本文化のユニークさとキリスト教が広まらなかった理由を、仮りに3点からまとめてみた。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

今回以降は、この三点のそれぞれについて、少しだけ考察してみたい。今日はまずは(1)について。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

縄文文化については、稲作がどの程度普及していたのかという点も含めて、今なお論争が続いているが、縄文土器や土偶などに見られるような縄文時代の心性が、日本文化の基層を形づくったことは確かだろう。

今から二千数百年前に、本格的な稲作技術をもった渡来人が大陸から日本列島に渡ってきた。その渡来人の人口は、縄文人のおよそ2倍から3倍と言われる。しかし、一度に大量に渡来したのではなく、およそ千年の間に徐々に渡ってきたものと思われる。それゆえ、渡来人が縄文人の文化を圧殺したり駆逐したというよりは、むしろ縄文文化に溶け込み、同化する面が多分にあったと思われる。

縄文時代は、中期にすでにひとつの言語的なまとまりが成立していたと言われる。したがって小集団ごとに渡来した人々は、長い年月の間に言語的にも縄文人と同化していったであろう。

縄文文化が基層文化として生き残ったのは、日本が大陸から適度に隔たった島国であるということや、その大半を山岳と森に覆われいたという地理的な条件に負うところも大きいだろう。海で隔てられていたからこそ徐々にしか渡来できなかった。また山と森に覆われていたからこそ、縄文人と弥生人の緩やかな住み分けと共生が一定期間可能であったのである。

こうして縄文的基層文化は、弥生時代になっても消えることなく、銅鐸の文様に縄文的な図形が描かれ、弥生土器にも縄文土器の流れをくむものが見られるのである。

その後大陸から仏教がもたらされるが、仏教は縄文的な基層文化に合うように変形され、受け入れられていくのである。それは、神道と仏教が、それぞれの要素を取り入れながら並存していくという形としても現れた(本地垂迹説など)。仏教に対しても縄文的な基層文化は根づよく生き残ったのである。

ちなみに朝鮮半島では、仏教以前の宗教の痕跡がほとんど残っていないという。ヨーロッパでは、キリスト教以前のケルト文化などが注目されるが、それはほとんどの地域でキリスト教によって圧殺されていったのである。

やがて日本にもキリスト教が伝来する。しかしこの宗教は日本列島にはほとんど定着することができなかった。キリスト教は、日本の基層文化にとってあまりに異質なために受け入れ難く、また受け入れやすく変形することも難しかったのである。

キリスト教は、形を自由に変えて受け入れることを拒む強固な原理性をもっている。日本に合うように形を変えてしまえば、それはもはやキリスト教とは言えないのである(正統と異端の問題)。仏教が、原始仏教と大きくかけ離れても仏教でありうるのとは好対照をなしている。

西洋文明は、キリスト教を背景にして強固な男性原理システムを構築した。男性原理的なキリスト教に対して縄文的な基層文化は、土偶の表現に象徴されるようにきわめて母性原理的な特質を持っている。その違いが、日本人に直観的に拒否反応を起こさせたのではないか。一神教は、砂漠の遊牧文化を背景として生まれ、異民族間の激しい抗争の中で培われた宗教である。牧畜・遊牧を知らない縄文文化と稲作文化によってほぼ平和に一万数千年を過ごした日本人にとってキリスト教の異質さは際立っていた。キリスト教的な男性原理を受け入れがたいと感じる心性は、現代の日本人にも連綿と受け継がれているのである。

日本文明は、母性原理を機軸とする太古的な基層文化を生き生きと引き継ぎながら、なおかつ近代化し、高度に産業化したという意味で、文明史的にもきわめて特異な文明なのである。

《参考文献》
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
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日本になぜキリスト教は広まらなかったのか?(2)

2010年02月18日 | 瞑想日記
去年の10月20日に同タイトルの(1)を書いたあと、なぜかそれほど続きを書く気持が起らず、そのままになっていた。ところが最近また、読者の方からメールをいただき、このテーマに関心があり、続きを読みたいとのことだった。

その後、私の日本文化論への関心はますます深まり、様々の本によって刺激を受け、問題意識も深まってきた。読んできたものを整理すると、日本文化のユニークさということについて、大きく次の三点が浮かび上がると思う。そして、その三点がそのまま「日本にキリスト教は広まらなかった」理由に深く関係していると思う。今日は、大雑把にこの三点を紹介してみたい。

(1)1万2000年続いた縄文時代人の心やその文化が、現代の日本文化の底流としていき続けているということ。土器を伴う、高度な狩猟・採集文化というユニークさ。

(2)日本の稲作文化は、本格的な牧畜文化とは無縁で、また遊牧民との接触もなかったということ。

(3)明治時代以前には、異民族との戦争をほとんど知らず、異民族による侵略、強奪、虐殺、文化の抹殺など悲惨な体験をもたないこと。したがって異民族の強大なイデオロギーによる支配も経験せず、それに対抗するため自らを強固なイデオロギーで武装する必要がなかったこと。

これら三点が密接にからみあいながら、日本の歴史や文化のユニークさを形づくっており、また日本にキリスト教が広まらなかった(現在も広まらない)要因にもなっている。それをかんたんに書くと以下のようになる。

(1)現代日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、アニミズム的、多神教的な傾向が、無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教など一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。

(2)キリスト教は、遊牧民的ないし牧畜民的な文化背景を強くにじませた宗教であり、牧畜文化を知らない日本人にとっては、根本的に肌に合わない。絶対的な唯一神とその僕としての人間という発想の宗教が、縄文的・自然崇拝的心性には合わない。

(3)ユーラシア大陸の諸民族は、悲惨な虐殺を伴う対立・抗争を繰り返してきたが、それはそれぞれの民族が信奉する宗教やイデオロギーの対立・抗争でもあった。その中で、自民族をも強固な宗教などによる一元支配が防衛上も必要になった。キリスト教、イスラム教、仏教、儒教などはそのような背景から生じ、社会がそのような宗教によって律せされることで「文明化」が進んだ。

しかし、日本はその地理的な条件から、異民族との激しい対立・抗争にも巻き込まれず、強固なイデオロギーによって社会を一元的に律する必要もなかった。だから儒教も仏教も、もちろんキリスト教も、社会を支配する強力なイデオロギーにはならなかった。

したがって、日本文化には農耕・牧畜文明以以前の自然崇拝的な心性が、圧殺されずに色濃く残る結果となった。要するにユーラシア大陸に広がった「文明化」から免れた。ヨーロッパで、キリスト教以前のケルト文化などが、ほとんど抹殺されていったのとは、大きな違いである。

以上が大雑把な枠組みだが、このほかにも考察すべき論点は山ほどある。日本文化とは何かを問うことが、人類の文明とは何かを問うことと同じになってしまうということは、驚くべきことだ。

ゆっくりと、きままにアップしていこうと思っている。
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新井満氏の「至高体験」

2010年02月14日 | 瞑想日記
数日前にサイト『臨死体験・気功・瞑想』の読者の方からメールをいただいた。

先日の朝日新聞に「千の風になって」を作曲した新井満氏のことが載っており、その記事から、新井氏も大学生の頃、おそらく「至高体験」のような経験をしているのではないか、と教えてくださる内容であった。

さっそくインターネットで調べると、新井氏の「至高体験」に至るまでが、いくつかのニュースやブログに掲載されていた。それらから要約してここにまとめてみたい。

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新井満氏は、「中学生時代の私は丸々と太っており、90キロはあり、相撲部の部員だったた。相撲は強く、横綱だった。仲間からは『豚満』とあだ名されていた」という。しかし、「豚満といわれたボクは、針金のような細く、情けない身体になってしまった。それは大学一年のとき、学生寮で猛烈な腹痛に襲われ、開腹手術を受けたからです。」「もう30分間、遅かったならば、死んでいた」と医師からいわれたという。

十二指腸の全摘だった。術後には腸閉塞を起こした。「その痛みをあえて表現すれば、華道で使う剣山(けんざん)を口のなかから押し込まれ、腸でかき回すような激痛でした。それは地獄の苦しみでした」と語る。

手術後、一年間休学した新井氏はふるさと新潟に帰った。「顔はやせ細り、幽霊のようで、友人はだれも新井満だと気づかなかった」。体格の良かった自分が突然、なぜこんな身になったのか。「病気が発症する1年前、高校3年生のときに新潟地震に遭った。あの恐怖に原因があるとわかったのです」 そのトラウマが猛烈な腹痛となって発症したのだ。

1964年6月16日の午後1時2分。マグニチュード7.7の新潟地震が発生した。高3の新井氏は鉄筋4階建て校舎の、4階の教室にいたのだ。教室の床が大きく揺れた瞬間、彼は机や椅子とともに吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。立ち上がり、窓からグランドを見ると、オホーツクの流氷が割れるように、稲妻状に地割れが走っていた。無数の蛇のようでもあった。割れ目からは真っ黒な泥水が噴出す。体操時間で、グランドにいた生徒は悲鳴を上げながら逃げ惑う。体操着が真っ黒だ。

「一日で、一生分の恐怖を味わった。」恐怖の体験が心に深い傷を作り、内面で増殖し、1年後に発症したのだという。それはPTSD(心的外傷後ストレス障害)によるもの。恐怖が深いトラウマとなったのだ。不安と不眠、日に何度も浮上する悪夢の記憶など、新井氏は心のなかに一生消えない重傷を負ってしまった。

ともに地震を体験した友人たちも、心に癒されない傷を負った。ある男子は4年後に首を吊って自殺した。ある女子は薬を飲んだ、服毒自殺だった。もう一人は殺人を犯し、刑務所に入り、出所後に自殺した。

彼はたぶんにもれず、生きることよりも、死ぬことばかりを考えていた。ビルの屋上から飛び降り自殺を試みたけれど、体力がなくてフェンスを登れなかった。

そんな新井氏が、立ち直るきっかけとなったのは、レンギョウの花だった。ある日土手を散歩していて、ふと足が止まった。土手いっぱいに黄色いレンギョウの花が咲き乱れているのが目に入った。「なんという美しさだろう…」 

そして、けなげに咲いている小さないのちの形をみているうちに、涙が溢れてきた。その光景のあまりの美しさに、みるみる生きるエネルギーが湧いてきて、道行く人にその美しさを伝えたくなって、みんなに声をかけてまわったという。「生ける屍状態にあった19歳の私が、再生への第一歩を踏み出したのはあの瞬間だったと思う。『生きよう。もっともっと生きよう。死んだ人の分まで、生きてやろう……!』

そして、美しさを伝えるのが自分の使命だと思って、電通に入社したのだという。

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以上は、

恐怖の体験。18歳から自殺は何度も考えた=新井満さん - livedoor ニュース
まさかり半島日記・新井満さんと「千の花」
いただいたメールの文章などを参考にし、再構成しました。
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