元旦のブログで書いた通り、12月11日から5日ほどコ〇ナウィルス感染で5日ほど倒れ、12月18日からは前立腺肥大と泌尿器の腫れで少し大変だった。病気としてはむしろ軽い部類だっただろう。しかしこの体験は、私に大切なメッセージを送ってくれたような気がする。
私は、ようやく病気から立ち直った12月29日に『誰もが「あの世」につながっている?臨死なき「臨死体験」の重要なメッセージ』というYouTube動画を投稿した。私は、次にどんな動画を投稿するか計画があるわけではない。その時々に思い浮かんだものを投稿するだけだ。この時も、『神との対話』シリーズで有名なニール・ドナルド ウォルシュが、無名時代にいわゆる臨死なき「臨死体験」をしているのを思い出し、それを巡って短い動画を作ろうと思いついたのだ。この動画、私の他の臨死体験関係の動画同様に再生回数は少なかった。しかし作りながら、臨死なき「臨死体験」についてどう考えるか、自分の考えが確信になっていると感じた。私はこの動画の中で次のように語っている。
「私たちはこの肉体をもって空間と時間に制約された物質的次元に生きていますが、しかし誰もがこの肉体的、物質的な制約を超えた別の次元に開かれているのかも知れません。あるいはふだんは気付かないだけで常につながっているのかも知れません。だからこそ私たちは時に、予感や虫の知らせという形でその次元から何らかのメッセージを受け取ったり、あるいは遠くにいて死に瀕している身内から夢を通してメッセージを受け取ったりという現象がおこったりするのかもしれません。そして肉体的に死に直面していなくとも「臨死体験」をする人々は、何らかの理由で肉体的、物質的な制約から一時的に自由になり、この世とつねに一体となっていて、しかも次元が違う世界に触れる体験をもった人々なのかも知れません。」
肉体的に瀕死の状態になくとも、この物質的次元を超えた別次元の世界に触れてしまう人がかなり多い。その意味での臨死なき「臨死体験」はかなり報告されている。肉体が滅びれば私たちの精神はその次元に移行する。しかし生きていても私達はその次元から切り離されているわけではないから、少し注意深くなりさえすれば私達はその次元から様々なメッセージを受け取ることがある。
そして年末の病気のあと、この考え方への私の確信はますます深まった。病気の2・3か月前から私は、50代前半に熱心に読んでいたアーノルド・ミンデルの本を読み返したいと盛んに思うようになった。そして臨死なき「臨死体験」の動画を投稿した前後から、まだ読んでいなかった彼の本の一冊『身体症状に〈宇宙の声〉を聴く』を読み始めたのだ。読み始めて私は驚嘆した。
ミンデルは、人間を「多次元的存在」をなす生命体であるみなし、それを前提としてプロセス指向心理学(POP)を確立、その実践においても優れた成果を挙げた。ミンデルは、身体と夢とを同じ本流から流れ出た支流と考えて、その「つながり」、「関係性」を注意深く見ていく。体の症状も夢と同じように無意識の創造的な発現である。夢に意味があるように身体に起こっていることにも恐らく意味がある。それは単に悪いものではない。夢=身体(ドリームボディ)における夢と身体との関係には、原因も結果もない。夢と身体には鏡を介在したような相互に反映しあう関係があるだけだという。 夢と身体症状は、お互いに分身であり、夢のイメージも、身体の症状も根元は同じと考え、その共通の根元を夢と身体の一体になった「ドリームボディ」と名づけた。
物質的身体より高次の身体を総称してドリームボディと呼ぶのだとも言える。しかし、後にこれも細分化され、「狭義のドリームボディ」「神話的身体(ミスボディ)」「永遠の身体(エターナル・ボディ)」に分けて把握する。私たちが、肉体ばかりでなく、意識レベルの異なるいくつもの連続した身体を層状にまとっていると捉える点は、神智学と同じだ。
連続した多層的身体の最後をPOPでは、「永遠の身体」あるいは「解放された身体」と呼ぶ。神秘主義的伝統でいわれる「身体を離脱した状態」である。このとき私たちは、さまざまな病や症状を示す現実の身体ばかりではなく、狭義のドリームボディや神話的身体からも離脱・解放されるという。これは時空間を超えた身体である。
「死において私たちは足をもたずに動き、目がなくてもみます。私たちは現実の身体を、まるでそれが松葉杖であったかのように捨て去り、死ぬ際にいわゆる知覚に生まれ変わっていきます。」(ミンデル)
この「知覚(システム)」が、「永遠の身体」であり、それは現実の身体や狭義のドリームボディとも同一視されない「純粋意識」である。「永遠の身体」は、自由、解放、十全性を表わしている。
ミンデルは、かかわりをもつ人間の中に、あるいは人間同士の関係のなかに、さまざまな現実そのものの中に、それらに即して、全体性を回復するうねりのような力を見ている。押さえつけていたもの、無視したり抑圧していたりしたものを明るみに出し、それらが充分に働くようにすれば、それが展開することで全体的な調和が生み出される。「大きい力」を心身や社会という現実そのものに内在する運動と見ている。
タオ=「ドリームボディ」=「大きい力」=「時空を超えた世界」が、実はこの日常的現実とひとつであり、夢や身体症状や偶然の一致や、一見不幸な出来事などの形をとって、絶えずこの現実の中でプロセスを展開しているということ。タオと現実とがひとつらなりであること。その働きかけを自覚してそのプロセスに自らをゆだねることが心理療法という実践のかなめであり、人間の心理的成長にとっても大切なことなのだ。
現実の中の病や人間関係のトラブルや苦悩や絶望や挫折、それらがすべてタオからのメッセージ、いやタオそのものが発現するための大切なきっかけなのだとしたら。そうだとすれば私は、日常を生きながら、その現実のプロセスの中により深い次元を発見し、その深い次元を生きることができる。そこに気づかせてくれるのが、ミンデルのたまらない魅力なのだ。
以上は、プロセス指向心理学の考え方のかんたんな紹介だ。私はおよそ20年ぶりにミンデルの本に触れ、その世界の魅力に改めて驚嘆した。今回はとくに臨死なき「臨死体験」をどう理解するかについて深い確信を持つに至っていたので、その視点から再度ミンデルの世界を眺めると、彼の本のなかの一つ一つの言葉が心の深くに浸透してくるような喜びを覚えた。
「大きい力」=「時空を超えた世界」が、実はこの日常的現実とひとつであり、私たちはそこから絶えずメッセージを受け取っている。年末の病気、臨死なき「臨死体験」のYouTube動画を投稿、20年ぶりにミンデルの世界に触れる、この一連の流れが私には偶然とは思えなかった。病気をきっかけして私は、スピリチャルな世界の探求という20年前の情熱を思い出したのだ。「お前にとっていちばん大切なことを忘れるでないぞ」と病気が私に呼びかけてくれたのだ。私は今、20年前に読んだミンデルの本を全部読み返そうと思っている。そして瞑想も再開しようと思っている。
私は、ようやく病気から立ち直った12月29日に『誰もが「あの世」につながっている?臨死なき「臨死体験」の重要なメッセージ』というYouTube動画を投稿した。私は、次にどんな動画を投稿するか計画があるわけではない。その時々に思い浮かんだものを投稿するだけだ。この時も、『神との対話』シリーズで有名なニール・ドナルド ウォルシュが、無名時代にいわゆる臨死なき「臨死体験」をしているのを思い出し、それを巡って短い動画を作ろうと思いついたのだ。この動画、私の他の臨死体験関係の動画同様に再生回数は少なかった。しかし作りながら、臨死なき「臨死体験」についてどう考えるか、自分の考えが確信になっていると感じた。私はこの動画の中で次のように語っている。
「私たちはこの肉体をもって空間と時間に制約された物質的次元に生きていますが、しかし誰もがこの肉体的、物質的な制約を超えた別の次元に開かれているのかも知れません。あるいはふだんは気付かないだけで常につながっているのかも知れません。だからこそ私たちは時に、予感や虫の知らせという形でその次元から何らかのメッセージを受け取ったり、あるいは遠くにいて死に瀕している身内から夢を通してメッセージを受け取ったりという現象がおこったりするのかもしれません。そして肉体的に死に直面していなくとも「臨死体験」をする人々は、何らかの理由で肉体的、物質的な制約から一時的に自由になり、この世とつねに一体となっていて、しかも次元が違う世界に触れる体験をもった人々なのかも知れません。」
肉体的に瀕死の状態になくとも、この物質的次元を超えた別次元の世界に触れてしまう人がかなり多い。その意味での臨死なき「臨死体験」はかなり報告されている。肉体が滅びれば私たちの精神はその次元に移行する。しかし生きていても私達はその次元から切り離されているわけではないから、少し注意深くなりさえすれば私達はその次元から様々なメッセージを受け取ることがある。
そして年末の病気のあと、この考え方への私の確信はますます深まった。病気の2・3か月前から私は、50代前半に熱心に読んでいたアーノルド・ミンデルの本を読み返したいと盛んに思うようになった。そして臨死なき「臨死体験」の動画を投稿した前後から、まだ読んでいなかった彼の本の一冊『身体症状に〈宇宙の声〉を聴く』を読み始めたのだ。読み始めて私は驚嘆した。
ミンデルは、人間を「多次元的存在」をなす生命体であるみなし、それを前提としてプロセス指向心理学(POP)を確立、その実践においても優れた成果を挙げた。ミンデルは、身体と夢とを同じ本流から流れ出た支流と考えて、その「つながり」、「関係性」を注意深く見ていく。体の症状も夢と同じように無意識の創造的な発現である。夢に意味があるように身体に起こっていることにも恐らく意味がある。それは単に悪いものではない。夢=身体(ドリームボディ)における夢と身体との関係には、原因も結果もない。夢と身体には鏡を介在したような相互に反映しあう関係があるだけだという。 夢と身体症状は、お互いに分身であり、夢のイメージも、身体の症状も根元は同じと考え、その共通の根元を夢と身体の一体になった「ドリームボディ」と名づけた。
物質的身体より高次の身体を総称してドリームボディと呼ぶのだとも言える。しかし、後にこれも細分化され、「狭義のドリームボディ」「神話的身体(ミスボディ)」「永遠の身体(エターナル・ボディ)」に分けて把握する。私たちが、肉体ばかりでなく、意識レベルの異なるいくつもの連続した身体を層状にまとっていると捉える点は、神智学と同じだ。
連続した多層的身体の最後をPOPでは、「永遠の身体」あるいは「解放された身体」と呼ぶ。神秘主義的伝統でいわれる「身体を離脱した状態」である。このとき私たちは、さまざまな病や症状を示す現実の身体ばかりではなく、狭義のドリームボディや神話的身体からも離脱・解放されるという。これは時空間を超えた身体である。
「死において私たちは足をもたずに動き、目がなくてもみます。私たちは現実の身体を、まるでそれが松葉杖であったかのように捨て去り、死ぬ際にいわゆる知覚に生まれ変わっていきます。」(ミンデル)
この「知覚(システム)」が、「永遠の身体」であり、それは現実の身体や狭義のドリームボディとも同一視されない「純粋意識」である。「永遠の身体」は、自由、解放、十全性を表わしている。
ミンデルは、かかわりをもつ人間の中に、あるいは人間同士の関係のなかに、さまざまな現実そのものの中に、それらに即して、全体性を回復するうねりのような力を見ている。押さえつけていたもの、無視したり抑圧していたりしたものを明るみに出し、それらが充分に働くようにすれば、それが展開することで全体的な調和が生み出される。「大きい力」を心身や社会という現実そのものに内在する運動と見ている。
タオ=「ドリームボディ」=「大きい力」=「時空を超えた世界」が、実はこの日常的現実とひとつであり、夢や身体症状や偶然の一致や、一見不幸な出来事などの形をとって、絶えずこの現実の中でプロセスを展開しているということ。タオと現実とがひとつらなりであること。その働きかけを自覚してそのプロセスに自らをゆだねることが心理療法という実践のかなめであり、人間の心理的成長にとっても大切なことなのだ。
現実の中の病や人間関係のトラブルや苦悩や絶望や挫折、それらがすべてタオからのメッセージ、いやタオそのものが発現するための大切なきっかけなのだとしたら。そうだとすれば私は、日常を生きながら、その現実のプロセスの中により深い次元を発見し、その深い次元を生きることができる。そこに気づかせてくれるのが、ミンデルのたまらない魅力なのだ。
以上は、プロセス指向心理学の考え方のかんたんな紹介だ。私はおよそ20年ぶりにミンデルの本に触れ、その世界の魅力に改めて驚嘆した。今回はとくに臨死なき「臨死体験」をどう理解するかについて深い確信を持つに至っていたので、その視点から再度ミンデルの世界を眺めると、彼の本のなかの一つ一つの言葉が心の深くに浸透してくるような喜びを覚えた。
「大きい力」=「時空を超えた世界」が、実はこの日常的現実とひとつであり、私たちはそこから絶えずメッセージを受け取っている。年末の病気、臨死なき「臨死体験」のYouTube動画を投稿、20年ぶりにミンデルの世界に触れる、この一連の流れが私には偶然とは思えなかった。病気をきっかけして私は、スピリチャルな世界の探求という20年前の情熱を思い出したのだ。「お前にとっていちばん大切なことを忘れるでないぞ」と病気が私に呼びかけてくれたのだ。私は今、20年前に読んだミンデルの本を全部読み返そうと思っている。そして瞑想も再開しようと思っている。