瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

齋藤孝の方法

2011年09月24日 | 読書日誌
9月から、ある短大でコミュニケーション論ということで一コマ、講義をもっている。講義といっても半分は、実践的な演習だ。高校で、カウンセリングや国際交流(異文化コミュニケーション)などに携わっていた関係もあり、その短大に勤める友人から声をかけられたのだ。

その関係もあって、齋藤孝のコミュニケーションに関係する本を何冊も読んで参考にしている。齋藤孝の本については、以前に紹介したことがある。『呼吸入門 (角川文庫)』や『齋藤孝の速読塾―これで頭がグングンよくなる!』である。教育を東洋的な身体論の視点から見直し、しかも現代の教育現場でも違和感なく導入できるような形に充分に咀嚼しているので、以前から興味をもって読んでいた。

今回、この著者のコミュニケーション関係の本を何冊か読んで、改めて彼の力量と創造性、コミュニケーションにかかわる経験の濃密さ、文章力などに驚いた。もともと私が関心をもっている分野に重なる部分が多く、しかも現在は、短大の講義をどう進めるかという実際的な問題もあったので、夢中でよんだ。昨晩は、夢の中でさえ彼と対話をしていたので、自分ながら相当のはまりようだなと思った。

ここ数日で読んだのは、『「意識の量」を増やせ! (光文社新書 522)』、『コミュニケーション力 (岩波新書)』、『偏愛マップ―キラいな人がいなくなる コミュニケーション・メソッド』、『質問力 ちくま文庫(さ-28-1)』などである。

他の著者の、コミュニケーションや対話に関する本もいろいろ読んでいるが、書かれている内容や、踏まえられている実践や経験の濃密さは、齋藤氏の本が群を抜いている。その意味ではやはり、岩波新書の『コミュニケーション力 (岩波新書)』がいちばんだ。学生時代の「対話」に費やされた情熱や、大学の教室などでの膨大な実践での経験が凝縮されている。
この中で紹介されたいくつもの方法が、それぞれ独立の本となっている。『偏愛マップ』や『質問力』がその例だ。

現代の若者に欠けている対話やコミュニケーションの力、かつての日本には満ちていたが、現代の教育現場に欠けている身体に深く根差した教育力など、今の日本に欠けている大切なものを取り戻すために、この人の紹介する数々の実践的な方法が、もっと普及させることが重要だ。
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数息観・言葉の浮遊

2011年09月24日 | 瞑想日記
週末の三日間は、たっぷりと瞑想ができる。今日も朝、1時間ほど行った。残りの4日間も時間は少なくとも、毎日行えるよう工夫したい。

昨日は、かなり雑念・思考が多かったので、試みに100まで数えながら腹の動きに集中した。これはかなり効果があったが、100までというのはいかにも「数える」という感じなので、今日は10まで数えてそれを繰り返す禅でいう「数息観(すそくかん)」を行った。ただし、ひとつ、ふたつと数えつつ、意識は腹の動きに集中した。意識が他に向かえばサティして、また腹の動きに戻る。

この方法は、私にはあっているようだ。思考が起こってもすぐにサティが入りやすい。腹への集中がしやすく瞑想が深まった。

興味深いのだが、日常的な思考が消えても、思考としては意味のない4・5個の言葉のまとまりが、かってに浮かんでは消えるということがある。たとえば「彼らは並んで座っている」とか、「環境が変化した」などという言葉が意味もなく浮かんでは消える。何かしらその前のほとんど無意識の心の動きに関係しているのだろうが、日常的な思考の脈絡からは遊離している。言語脳のいわば「惰性」のような形で言葉が浮遊するのだろうか。
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