旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は禅僧・白隠の事例である。
=========================================================
以下にいくつかの資料を参考に、白隠の大悟に至るまでの経過を記す。
二十四歳から二十五歳に至る一年間、白隠の禅境の一大変化が到来したという。
「二十四歳の春、越後の英巌寺におった。無学を提起して終夜眠らず、寝食ともに忘れていた。忽然として大疑 現前の状態になった。万里一条の層氷の裡に凍殺されるかの如く、胸の裡は分外にさっぱりしている。そして進 むこともできず、退くこともできず、ばかになってしまったようで、ただ無字があるだけである。講義の席に出 て師匠の評唱を聞いても、数十歩外に離れて、講堂の上の議論を聞くようである。あるいは空中を歩いているよ うでもあった。
そのような状態が数日つづいたが、ある晩鐘の声を聞いて、がらがらとそれが崩れた。水盤の破砕、玉楼の推倒といったようなものだった。そこから忽然として蘇って来ると、自分が巌頭和尚そのものであっ た。三世を貫通して毛一本をも損せず、従来の疑惑も根底から氷のように消えてしまった。
大声で叫んで言った。
『不思議だ、不思議だ、不死の逃れ出るべきものなく、菩提のもとむべきものもない。法灯を伝えているといわ れる公案千七百則も、一向ものの役には立たぬ』と。
そこですっかり得意になり、天狗になって、心ひそかに言 った。『二、三百年以来わしほど痛快にぶちぬいたものはないだろう』と。」
大悟した白隠慧鶴は、その所見を 性徹和尚に提したが、一顧だにも与えられなかったという。しかし、白隠は、「三百年来、未だ予が如き痛快に了徹するものはあらず、四海を一掃して誰か我が機峰に当たらん」と自ら思ったという。若者の増上慢の言葉であろうが、それほどに見性が了々としていたのだろう。
そのころ白隠慧鶴は信州から来たある禅者に会い、彼の師・正受老人が飯山の上倉村にみずから結んだ正受庵に住 していることを聞き、四月、その禅者の案内で正受庵をたずねた。たまたま正受老人 は柴を刈っていたが、案内した禅者がこの青年僧を翁に紹介すると、翁は「うん」と素気なくいっただけだった。
その後、彼は許しを得て入室し、一篇の偈(げ)を呈すると、翁は「こんなもの は学んで得たもの、お前が実地に佛心を徹見したところはどうなんだ」と迫る。彼は「そんな ものがあれば、吐き出してしまいますよ」といって嘔吐の声をした。
翁は彼をひっとらえて 「趨州の無学を何と見るか」とせめよった。慧鶴「趨州の無学とても手をつけるところなしですよ」と言葉を返したが、翁は彼の鼻頭を抑えて「なんとこんなに手がつけられるわ」といい放った。
彼はこの時、全身汗流れ、高慢心をへし折られた。翁は高々と笑いながら「このあなぐら禅者め。これしきの境涯で満足しているか」といい、白隠は返す言葉もなかったという。
その後、翁は彼を見るごとに「このあなぐら禅者め」と叱りつけ、入室の際、彼が門をまたぐ と見るや「なんと落ちこんでいるぞ。楼上から 井戸の底を見ているようだぞ」といわれ、わず かに口を開くと、一喝されて押し出される始末。
彼は心中穏やかならず、これは翁がかつての自分の痛快なる悟りを知らないからの仕打ちに違いない。こんどこそは死を賭しても徹底的に間答しようものと決意して、ある日入室、所解を呈すると、翁は彼をひっとらえ、数十回鉄拳をくらわせ、押し倒し、彼が縁の下に落ち て茫然としているのを見ながら、からからと大笑いしていた。
その後、彼は胸つまる苦悶の数日が続いたが、ある日托鉢に出て、とある家の前に立っていると「他の家へ行きなよ」という老婆の声がしたが、彼はうっとりと忘我して立ち続けた。老婆は怒り、大きな竹箒を振り動かして「この坊主、よそへ行けというのにまだここでぐずぐずし ているとは」といって、彼を打った。
その瞬間に、彼は透脱して本心に開眼したという。歓喜 を内に包んで帰庵し、まだ門のしきみをまたがないのに、正受老人彼を見るや、喜んで「汝徹せり」と いわれた。
その後、八か月余り、慧鶴(後の白隠禅師)は、翁の左右に侍して、日夜入室、そ の蘊奥きわめ、飯山を後にした。
《参考文献》
『日本の禅語録〈第19巻〉白隠 (1977年) 』 鎌田茂雄、講談社
『さとりの構造―東西の禅的人間像 (1980年) 』安藤正瑛、大蔵出版
『死と生の記録―真実の生き方を求めて (講談社現代新書 144) 』佐藤幸治、講談社
★白隠慧鶴 〈はくいんえかく〉 1685~1768
禅宗の一派・臨済宗中興の祖、江戸時代中期の禅僧。諱(いみな)は慧鶴(えかく)、鵠林(こくりん)。駿河国、現在の静岡県沼津市原〈はら〉に生まれた(貞亨2年12月25日)。幼時に地獄の話に恐怖し、その恐怖からのがれようと天満天神に祈願するが、みたされず、15歳の時、原の松蔭単嶺〈たんれい〉和尚について出家する
その後、沼津の大聖寺の息道普益(そくどうふえき)、美濃の瑞雲寺の馬翁宗竹(ばおうそうちく)、伊予の正宗寺の逸禅宜俊(いつぜんぎしゅん)などの教えを受ける。1708年(宝永5)越後(新潟県)高田の英厳寺性徹〈しょうてつ〉和尚のもとに居る時、悟りに達したと自覚。(⇒上の資料)
同1708年、信州飯山の正受老人道鏡慧端(えたん)に、「死人のように動きのとれぬ禅坊主)」と批判され、慢心をすてて参禅し、大悟。亨保2年正月10日、先師単嶺和尚の年忌を機に松蔭寺に入り、1718年(享保3)京都の妙心寺の第一座となり、白隠と号す。以後各地に仏法を広めると共に、松蔭寺においても雲集する修行僧、居士等の教化に努めた。
42歳の秋、「法華経」を読誦(どくじゅ)中に、こおろぎのなく声をきいて生涯で最高の悟りをえたという。 以来、師家として活躍すると同時に、貧乏寺にすんで民衆のための説法や著作にはげむ。明和5年12月11日、84歳をもって示寂。
語録に「荊叢毒蘂(けいそうどくずい)」、仮名法語に「遠羅天釜(おらてがま)」「夜船閑話」、自伝「壁生草(いつまでぐさ)」など。
=========================================================
以下にいくつかの資料を参考に、白隠の大悟に至るまでの経過を記す。
二十四歳から二十五歳に至る一年間、白隠の禅境の一大変化が到来したという。
「二十四歳の春、越後の英巌寺におった。無学を提起して終夜眠らず、寝食ともに忘れていた。忽然として大疑 現前の状態になった。万里一条の層氷の裡に凍殺されるかの如く、胸の裡は分外にさっぱりしている。そして進 むこともできず、退くこともできず、ばかになってしまったようで、ただ無字があるだけである。講義の席に出 て師匠の評唱を聞いても、数十歩外に離れて、講堂の上の議論を聞くようである。あるいは空中を歩いているよ うでもあった。
そのような状態が数日つづいたが、ある晩鐘の声を聞いて、がらがらとそれが崩れた。水盤の破砕、玉楼の推倒といったようなものだった。そこから忽然として蘇って来ると、自分が巌頭和尚そのものであっ た。三世を貫通して毛一本をも損せず、従来の疑惑も根底から氷のように消えてしまった。
大声で叫んで言った。
『不思議だ、不思議だ、不死の逃れ出るべきものなく、菩提のもとむべきものもない。法灯を伝えているといわ れる公案千七百則も、一向ものの役には立たぬ』と。
そこですっかり得意になり、天狗になって、心ひそかに言 った。『二、三百年以来わしほど痛快にぶちぬいたものはないだろう』と。」
大悟した白隠慧鶴は、その所見を 性徹和尚に提したが、一顧だにも与えられなかったという。しかし、白隠は、「三百年来、未だ予が如き痛快に了徹するものはあらず、四海を一掃して誰か我が機峰に当たらん」と自ら思ったという。若者の増上慢の言葉であろうが、それほどに見性が了々としていたのだろう。
そのころ白隠慧鶴は信州から来たある禅者に会い、彼の師・正受老人が飯山の上倉村にみずから結んだ正受庵に住 していることを聞き、四月、その禅者の案内で正受庵をたずねた。たまたま正受老人 は柴を刈っていたが、案内した禅者がこの青年僧を翁に紹介すると、翁は「うん」と素気なくいっただけだった。
その後、彼は許しを得て入室し、一篇の偈(げ)を呈すると、翁は「こんなもの は学んで得たもの、お前が実地に佛心を徹見したところはどうなんだ」と迫る。彼は「そんな ものがあれば、吐き出してしまいますよ」といって嘔吐の声をした。
翁は彼をひっとらえて 「趨州の無学を何と見るか」とせめよった。慧鶴「趨州の無学とても手をつけるところなしですよ」と言葉を返したが、翁は彼の鼻頭を抑えて「なんとこんなに手がつけられるわ」といい放った。
彼はこの時、全身汗流れ、高慢心をへし折られた。翁は高々と笑いながら「このあなぐら禅者め。これしきの境涯で満足しているか」といい、白隠は返す言葉もなかったという。
その後、翁は彼を見るごとに「このあなぐら禅者め」と叱りつけ、入室の際、彼が門をまたぐ と見るや「なんと落ちこんでいるぞ。楼上から 井戸の底を見ているようだぞ」といわれ、わず かに口を開くと、一喝されて押し出される始末。
彼は心中穏やかならず、これは翁がかつての自分の痛快なる悟りを知らないからの仕打ちに違いない。こんどこそは死を賭しても徹底的に間答しようものと決意して、ある日入室、所解を呈すると、翁は彼をひっとらえ、数十回鉄拳をくらわせ、押し倒し、彼が縁の下に落ち て茫然としているのを見ながら、からからと大笑いしていた。
その後、彼は胸つまる苦悶の数日が続いたが、ある日托鉢に出て、とある家の前に立っていると「他の家へ行きなよ」という老婆の声がしたが、彼はうっとりと忘我して立ち続けた。老婆は怒り、大きな竹箒を振り動かして「この坊主、よそへ行けというのにまだここでぐずぐずし ているとは」といって、彼を打った。
その瞬間に、彼は透脱して本心に開眼したという。歓喜 を内に包んで帰庵し、まだ門のしきみをまたがないのに、正受老人彼を見るや、喜んで「汝徹せり」と いわれた。
その後、八か月余り、慧鶴(後の白隠禅師)は、翁の左右に侍して、日夜入室、そ の蘊奥きわめ、飯山を後にした。
《参考文献》
『日本の禅語録〈第19巻〉白隠 (1977年) 』 鎌田茂雄、講談社
『さとりの構造―東西の禅的人間像 (1980年) 』安藤正瑛、大蔵出版
『死と生の記録―真実の生き方を求めて (講談社現代新書 144) 』佐藤幸治、講談社
★白隠慧鶴 〈はくいんえかく〉 1685~1768
禅宗の一派・臨済宗中興の祖、江戸時代中期の禅僧。諱(いみな)は慧鶴(えかく)、鵠林(こくりん)。駿河国、現在の静岡県沼津市原〈はら〉に生まれた(貞亨2年12月25日)。幼時に地獄の話に恐怖し、その恐怖からのがれようと天満天神に祈願するが、みたされず、15歳の時、原の松蔭単嶺〈たんれい〉和尚について出家する
その後、沼津の大聖寺の息道普益(そくどうふえき)、美濃の瑞雲寺の馬翁宗竹(ばおうそうちく)、伊予の正宗寺の逸禅宜俊(いつぜんぎしゅん)などの教えを受ける。1708年(宝永5)越後(新潟県)高田の英厳寺性徹〈しょうてつ〉和尚のもとに居る時、悟りに達したと自覚。(⇒上の資料)
同1708年、信州飯山の正受老人道鏡慧端(えたん)に、「死人のように動きのとれぬ禅坊主)」と批判され、慢心をすてて参禅し、大悟。亨保2年正月10日、先師単嶺和尚の年忌を機に松蔭寺に入り、1718年(享保3)京都の妙心寺の第一座となり、白隠と号す。以後各地に仏法を広めると共に、松蔭寺においても雲集する修行僧、居士等の教化に努めた。
42歳の秋、「法華経」を読誦(どくじゅ)中に、こおろぎのなく声をきいて生涯で最高の悟りをえたという。 以来、師家として活躍すると同時に、貧乏寺にすんで民衆のための説法や著作にはげむ。明和5年12月11日、84歳をもって示寂。
語録に「荊叢毒蘂(けいそうどくずい)」、仮名法語に「遠羅天釜(おらてがま)」「夜船閑話」、自伝「壁生草(いつまでぐさ)」など。