瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

禅僧・白隠の大悟まで

2019年07月08日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は禅僧・白隠の事例である。

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 以下にいくつかの資料を参考に、白隠の大悟に至るまでの経過を記す。
 二十四歳から二十五歳に至る一年間、白隠の禅境の一大変化が到来したという。
「二十四歳の春、越後の英巌寺におった。無学を提起して終夜眠らず、寝食ともに忘れていた。忽然として大疑 現前の状態になった。万里一条の層氷の裡に凍殺されるかの如く、胸の裡は分外にさっぱりしている。そして進 むこともできず、退くこともできず、ばかになってしまったようで、ただ無字があるだけである。講義の席に出 て師匠の評唱を聞いても、数十歩外に離れて、講堂の上の議論を聞くようである。あるいは空中を歩いているよ うでもあった。
 そのような状態が数日つづいたが、ある晩鐘の声を聞いて、がらがらとそれが崩れた。水盤の破砕、玉楼の推倒といったようなものだった。そこから忽然として蘇って来ると、自分が巌頭和尚そのものであっ た。三世を貫通して毛一本をも損せず、従来の疑惑も根底から氷のように消えてしまった。
 大声で叫んで言った。
 『不思議だ、不思議だ、不死の逃れ出るべきものなく、菩提のもとむべきものもない。法灯を伝えているといわ れる公案千七百則も、一向ものの役には立たぬ』と。
 そこですっかり得意になり、天狗になって、心ひそかに言 った。『二、三百年以来わしほど痛快にぶちぬいたものはないだろう』と。」
 大悟した白隠慧鶴は、その所見を 性徹和尚に提したが、一顧だにも与えられなかったという。しかし、白隠は、「三百年来、未だ予が如き痛快に了徹するものはあらず、四海を一掃して誰か我が機峰に当たらん」と自ら思ったという。若者の増上慢の言葉であろうが、それほどに見性が了々としていたのだろう。
 そのころ白隠慧鶴は信州から来たある禅者に会い、彼の師・正受老人が飯山の上倉村にみずから結んだ正受庵に住 していることを聞き、四月、その禅者の案内で正受庵をたずねた。たまたま正受老人 は柴を刈っていたが、案内した禅者がこの青年僧を翁に紹介すると、翁は「うん」と素気なくいっただけだった。
 その後、彼は許しを得て入室し、一篇の偈(げ)を呈すると、翁は「こんなもの は学んで得たもの、お前が実地に佛心を徹見したところはどうなんだ」と迫る。彼は「そんな ものがあれば、吐き出してしまいますよ」といって嘔吐の声をした。
 翁は彼をひっとらえて 「趨州の無学を何と見るか」とせめよった。慧鶴「趨州の無学とても手をつけるところなしですよ」と言葉を返したが、翁は彼の鼻頭を抑えて「なんとこんなに手がつけられるわ」といい放った。
 彼はこの時、全身汗流れ、高慢心をへし折られた。翁は高々と笑いながら「このあなぐら禅者め。これしきの境涯で満足しているか」といい、白隠は返す言葉もなかったという。
 その後、翁は彼を見るごとに「このあなぐら禅者め」と叱りつけ、入室の際、彼が門をまたぐ と見るや「なんと落ちこんでいるぞ。楼上から 井戸の底を見ているようだぞ」といわれ、わず かに口を開くと、一喝されて押し出される始末。
 彼は心中穏やかならず、これは翁がかつての自分の痛快なる悟りを知らないからの仕打ちに違いない。こんどこそは死を賭しても徹底的に間答しようものと決意して、ある日入室、所解を呈すると、翁は彼をひっとらえ、数十回鉄拳をくらわせ、押し倒し、彼が縁の下に落ち て茫然としているのを見ながら、からからと大笑いしていた。
 その後、彼は胸つまる苦悶の数日が続いたが、ある日托鉢に出て、とある家の前に立っていると「他の家へ行きなよ」という老婆の声がしたが、彼はうっとりと忘我して立ち続けた。老婆は怒り、大きな竹箒を振り動かして「この坊主、よそへ行けというのにまだここでぐずぐずし ているとは」といって、彼を打った。
 その瞬間に、彼は透脱して本心に開眼したという。歓喜 を内に包んで帰庵し、まだ門のしきみをまたがないのに、正受老人彼を見るや、喜んで「汝徹せり」と いわれた。
 その後、八か月余り、慧鶴(後の白隠禅師)は、翁の左右に侍して、日夜入室、そ の蘊奥きわめ、飯山を後にした。
《参考文献》
『日本の禅語録〈第19巻〉白隠 (1977年) 』 鎌田茂雄、講談社
『さとりの構造―東西の禅的人間像 (1980年) 』安藤正瑛、大蔵出版
『死と生の記録―真実の生き方を求めて (講談社現代新書 144) 』佐藤幸治、講談社

★白隠慧鶴 〈はくいんえかく〉 1685~1768 
禅宗の一派・臨済宗中興の祖、江戸時代中期の禅僧。諱(いみな)は慧鶴(えかく)、鵠林(こくりん)。駿河国、現在の静岡県沼津市原〈はら〉に生まれた(貞亨2年12月25日)。幼時に地獄の話に恐怖し、その恐怖からのがれようと天満天神に祈願するが、みたされず、15歳の時、原の松蔭単嶺〈たんれい〉和尚について出家する
その後、沼津の大聖寺の息道普益(そくどうふえき)、美濃の瑞雲寺の馬翁宗竹(ばおうそうちく)、伊予の正宗寺の逸禅宜俊(いつぜんぎしゅん)などの教えを受ける。1708年(宝永5)越後(新潟県)高田の英厳寺性徹〈しょうてつ〉和尚のもとに居る時、悟りに達したと自覚。(⇒上の資料)
同1708年、信州飯山の正受老人道鏡慧端(えたん)に、「死人のように動きのとれぬ禅坊主)」と批判され、慢心をすてて参禅し、大悟。亨保2年正月10日、先師単嶺和尚の年忌を機に松蔭寺に入り、1718年(享保3)京都の妙心寺の第一座となり、白隠と号す。以後各地に仏法を広めると共に、松蔭寺においても雲集する修行僧、居士等の教化に努めた。
42歳の秋、「法華経」を読誦(どくじゅ)中に、こおろぎのなく声をきいて生涯で最高の悟りをえたという。 以来、師家として活躍すると同時に、貧乏寺にすんで民衆のための説法や著作にはげむ。明和5年12月11日、84歳をもって示寂。
語録に「荊叢毒蘂(けいそうどくずい)」、仮名法語に「遠羅天釜(おらてがま)」「夜船閑話」、自伝「壁生草(いつまでぐさ)」など。

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禅僧・山田耕雲の至高体験

2019年07月06日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は禅僧・山田耕雲の事例である。

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 かつて、ネット上で交流のある友人からメールをいただいた。山田耕雲老師の見性体験記が、なぜ本サイトの事例集に入ってないのかと疑問に思っているとのことであった。 現代の禅宗の老師の体験記としては、かなり貴重なもの、と評価しているとのことであったが、私自身は、山田耕雲老師のお名前を知っている程度で、体験の記された本は読んでいなかった。
友人がメールに添付してくれた、その体験記をここに掲載したいと思う。この体験記が記されているのは『新版 禅の正門(ショウモン) 』という本である。

山田耕雲老師 『再見性の大歓喜』(抄)

三島龍沢僧堂 中川宗淵老師宛の手紙
 拝啓 過日は御取込みのところへ大勢にて参上し、日和はよし、まことに楽しい一日を過ごさせて頂きました。安谷老師も大変およろこびにて、境致はよし、よい指導者を得て雲衲は仕合せだ、と述懐を洩らして居られました。
 
さて、あの席上、アメリカの青年のことを中心に見性に関する御話しが出ましたが、あれから幾日もたたない今日、小生自身の体験を御報告することになろうとは思いませんでした。 貴山へ伺った翌二十四日、ちょうど所用で東京へ出て来た家内と帰りが一緒になりましたので、夕方五時頃二人で横須賀行の電車に乗りました。小生は読みかけの『損翁禅話』という書物を開きました。御承知かも知れませんが、損翁というお方は元禄時代、仙台に居られた曹洞宗の尊宿なる由。
  
 丁度大船より少し手前のあたりで書中「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり」(付記『正法眼蔵即心是仏』の巻にありと)の句に逢着致しました。この文字は決して初めてお目にかかった訳ではないのですが、何かしらハッと固唾を呑む思いでした。謂えらく「自分も禅に参じて七、八年。ようやくこの一句がわかるようになったか」と。そう思うと急に涙のこみ上げてくるのをおさえることが出来ません。人中なのできまりがわるく、ソッとハンカチで眼を拭って居りました。鎌倉へ着き、裏道を帰る途々、何となくすっきりした気分です。

「今日はなんだか大変すがすがしいよ。」
「それはようございましたね。」
「何となく、僕はえらくなれそうな気がする。」と二度ほど同じようなことを申しますと、
「困りますわね、お父様ばかりえらくおなりになって、距離が出来すぎて。」
「いや、大丈夫だ、どんなにえらくなっても心はいつもすぐ側に居るんだから」と、

子供みたいなことを言い合いながら家へ着いたのですが、その間幾度となく、  

「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」と、
繰り返し繰り返し心でとなえていたことを覚えています。

 丁度その日は、弟夫婦が泊まって居りましたので、一緒にお茶などを飲みながら、龍沢寺へお詣りした話、そこから黒衣姿のアメリカの青年が居て、只見性のみを求めて両度渡日したその物語を、貴兄から伺ったまま話してきかせました。お風呂へ入って寝に就いたのは十二時近かったと思います。

 夜中にフッと眼がさめました。初めは何か意識がはっきりしないようでしたが、フト、 「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」 の句が浮かんできました。それをもう一度繰り返したとたん、一瞬電撃を受けたようなピリッとしたものを全身に感じたと思うが否や、天地崩壊す。間髪を入れず怒涛の如くワッと湧き上がって来た大歓喜、大津波のように次から次と湧きあがり押し寄せる歓喜の嵐。あとは只口いっぱい、声いっぱいに哄笑する。哄笑の連続。  
 
 ワッハッハッ ワッハッハッ  
 ワッハッハッハッハッハッハッ   

なあんにも理屈はないんだ。なあんにも理屈はないんだ。とこれも二度ほど叫びました。


続きは、以下でご覧ください。⇒ 「禅僧・山田耕雲
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クリシュナムルティ

2019年07月05日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』を運営していたころに何度かメールでやりとりをしたことのある、ある方からメールをいただいた。それは、クリシュナムルティの覚醒体験についてのもので、旧サイトの「覚醒・至高体験事例集」に加えて、みなさんにぜひ読んでいただきたいとのことだった。その内容を新サイト『霊性への旅』でも再録させていただく。

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一九二二年の八月十七日、彼はカリフォルニアのオーハイでその後の 人生を一変する体験に見舞われます。(すべて「クリシュナムルティ の世界」大野純一編訳コスモス・ライブラリーからの引用です。クリ シュナムルティ二十七歳の年だそうです。)
まずその周辺を知っていただくためにも、短いですがその五日前に彼 がエミリー・ルティエンスという女性に宛てた手紙から引用をしたい と思います。

「私は毎朝三十分ないし三十五分間、瞑想しています。それは六時四 十五分から七時二十分までの間です。短時間ではありますが私の精神 集中は日増しに向上しつつあり、寝る前にも十分ほど瞑想しています。 こういった事実は貴女には少々意外なのではありませんか?私はマス ターの方々との古い接触を取り戻しつつあるのです。詰まるところ、 人生で大切なのはそれだけであって、他には何もないのです……」

(「マスター」というのは、マスター・クーフートミーとマスター・ モーリヤの略称だと思われます。両者ともに神智学協会の教義体系に おいて、超人として伝説化され信仰の対象になっていたようです。これからもわかるように、後に「星の教団」を解散し神智学協会から離れ、真理がいかなる教団や宗派にも属さないことを強調した彼も、若き日にはこのような信仰をもっていたようです。)
そしてその八月十七日から数日間つづいた彼の変容を目撃したのは、 ニティーヤナンダという男性とロザリンドというアメリカ人女性、ワ リントンという人物の三人いたそうですが、そのうちのニティーヤの手紙が残っています。その非常に興味深い記述によると、クリシュナ ムルティは「異様な無意識状態」に陥り、「半覚状態」がつづき、「 ワリントン氏は、この様子を見て、クリシュナの体内で何らかの『プロセス』が進行中であると言った」そうです。ですが、それはあくま でクリシュナムルティの体験の外部的観察ですので割愛して、彼自身の記録を紹介します。

「やがて八月十七日になると、私は首筋に激しい痛みを感じ、瞑想を十五分に短縮しなければならなくなった。私の容態はどんどん悪化し、ついに十九日にそのクライマックスに達した。私は考えることも、何をすることもできずにベッドに横になった。やがて私はほとんど無意識状態になったが、まわりで起こってることはよくわかった。私は毎日正午頃には正気に返った。最初の日、自分がそんな状態で、いつもより周囲のものがはっきり意識に入ってるときに、私は最初の最も不思議な体験をした。

道を補修している人がいた。その人は私自身であった。彼の持っている(つるはし※傍点が付されてあります)も私自身であった。彼が砕いている石までもが私の一部であった。青い草の葉も私そのものであった。私のそばの木も私自身であった。私はほとんどその道路補修工のように感じたり考えたりできた。私は木々の間を通り抜ける風を感じ、草の上にとまった小さな蟻を感じることができた。鳥や、ほこり、 さらには騒音までもが私の一部であった。ちょうどそのとき、少し離 れたところを車が通っていった。

私はドライバーであり、エンジンであり、そしてタイヤであった。自動車が私から遠ざかるにつれて、私は自分自身から離れ出た。私はすべてのなかにあり、というよりはすべてが――無生物も生物も、山も虫も、生きとし生けるものすべてが――私のなかにあった。」


続きは、以下でご覧ください。⇒「クリシュナムルティ
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浄土宗僧・原青民

2019年07月02日 | 覚醒・至高体験をめぐって
『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は浄土宗僧・原青民の事例である。
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 「悟り」は、座禅修行を積んだ禅僧だけに与えられるものではない。
 
以下に挙げるのは、原青民という浄土宗の僧侶の体験である。彼は、肺病にかかり、かかりつけの医者にあと五年しか生きられないといわれ、非常に悩んだという。そのうち弁栄聖者に出会い、その感化で毎日のように念仏を唱えるようになったという。
 
 ある晩、一心に念仏を申しながら自分と自分を取り巻いている万物との関係を考えていました。ところが念仏を唱えているうちに突然なにもなくなってしまいました。自分のたたいている木魚の音も聞こえません。周囲の壁もなければ、天井も、畳もありません。
 すきとおった明るみもありません。色も見えなければ、重くも、軽くもありません。自分のからだすらありません。  まったく無一物になってしまって、ただあるのはハッキリ、ハッキリだけになりました。はっきりした意識だけがあった、意識内容はまったくなくなってしまったわけです。
 しかししばらくして平常の自分にもどり、その晩はそれで寝てしまいました。ところが翌朝目がさめて、庭から外を見ていると、変で変でしかたがありません。きのうまではいっさいのものが自分の外に見えていたものが、けさは自分の中に見えています。それはつぎの日もかわりませんでした。
(佐藤幸治『禅のすすめ (講談社現代新書 27) 』 )
 
 この体験によって彼は、「いっさいが自分の心であり、いっさいの活動が自分の心の働きであることがわかってきて」、ほんとうの安心を得ることができたという。
 宗教的な覚醒体験や悟り体験を特徴づけるのもやはり、これらの例から分かるように「自己」という壁が打ち破られる事実であろう。自己の壁が打ち破られるとは、自己が自己の根源(真の自己)に徹することでもある。自己が真の自己に徹するとき、すべてが自己となり、「万物と我と一体、宇宙と我と不二」という世界が出現するのである。
 
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■ラマナ・マハリシの根本体験

2019年07月01日 | 覚醒・至高体験をめぐって
2019年06月30日 | 覚醒・至高体験をめぐって
『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は障害児の母Jさんのの事例である。
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■ラマナ・マハリシの根本体験
ラマナ・マハリシは(1879~1950)は、南インドの中流のバラモンの家庭に生まれました。マハリシは「偉大な聖者」という意味で、その名の通り、すでにインド の古典的な賢者の一人、最もインド的なグルとみなされています。

ごく平凡な屈託のない少年だった彼が、高等学校に通っていた17歳のとき、その 根本的な体験をします。親戚の一人が亡くなったことをきっかけに、彼は死の体験 を直接探求しようとしました。彼は、驚くべき集中力をもって、自分の体が死んで 行くと想像したのです。

「叔父の家の二階の部屋に一人で座っていたときに、突然、物凄い死の恐怖が私に 襲い掛かってきた。私はめったに病気をしたことがなく、いつもと変わりない健康 状態だったので、その恐怖が身体の異常からくるものであるとは思えなかった。私 はただ死んでしまうのだという想いが頭をよぎり、何をすべきかを考えはじめた。 医者や兄や友人たちに助けを求めようという考えは起こらなかった。私はすぐに、 これは自分で解決すべきものだと感じた。

死の衝撃は私の心を内へと向かわせた。私は心の中でつぶやいた。
『今死がやっ てきた。これはいったい何を意味するのか? 何が死んでゆくのか? この身体が 死んでゆくのだ』。
私は手足を伸ばして、死後硬直が始まったかのように硬くなっ て横たわり、本物の死体に見えるようにした。私は息を止め、どんな音も漏れないようにした。また『私』をはじめどんな言葉も発することができないように唇をギ ュッと閉ざした。

『これでこの身体はもうおしまいだ』と私は心の中で呟いた。 『これから斎場へ運ばれ、焼かれて灰になってしまうことだろう。だが身体が死ん でしまえば私も死んでしまうのか? 果たしてこの身体は私なのか? 身体は明ら かに無言で生起がないが、私は私の人格が十分に機能していることを感じているし、 それとは別に、内側から「私」という叫び声まで聞こえてくるではないか! 私と は身体を超越した魂のことなのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して手を 離れられることはないのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して手を離れら れることはないのだ。私とは、不滅の魂なのだ』。

これらのことは決してとりとめもない漠然とした考えではなかった。それは私に ひらめいた生き生きとした真実であった。

 『私』とはきわめて実在的な何ものかであり、私の現在の状態で唯一実在してい るものであり、私の身体にまつわるすべての意識的な働きは、その『私』に集中さ れた。その瞬間から『私』あるいは真我は、それ自身に注意を集中し、引きつけら れていった。  死の恐怖はこれを最後に消え去った。しかし、私はそれからもずっと絶え間なく 真我に没頭し続けた。他のさまざまな考えは音楽を構成するさまざまな音のように 浮かんでは消えていったが、

「私」はあらゆる音の底に横たわりそれと調和する基 底聖音のように力強く続いた。会話や学習や他の諸活動をしようとも、私はいつ も『私』に注意を集中させた。その転機(死の体験)より以前は、私には真我につ いてのはっきりとした知覚がなかったし、それに興味を持ったこともなかった。ま してやその中に生涯にわたって留まっていようとは思ってもみなかった。」
 

ここに語られた根本体験が、彼の人格の全体を転換させ、その後の生涯を決定的 に方向づけたといいます。 世俗の生活にまったく興味を失った彼は、学校を止めて、内なる力につき動かさ れたかのように聖なるアルナーチャラの丘へと旅立ちました。そこは、何百年にも わたって賢者や苦行者が生活し修行した丘でした。 彼はそこで、語ることもなく、食事もとらず、まったく肉体を無視するかのよう でした。むしろ、肉体を必要としなかったも言われます。やがて次第に彼の周囲に信者が集まるようになり、それにつれて彼の生活も普通の状態に戻りました。
最初ラマナ・マハリシは、南インドの聖なる丘にあって、多くの人々に取り囲ま れながら、ほとんど口を開かなかったといいます。洞窟の中に住み、数年間沈黙がきました。彼は、みずから深く体得した究極の実在について言葉や思想で確認する必要なかったのです。私たちの存在の「源」に横たわる時空をこえた「根源的な気づき」、「究極的な意識」。その輝かしい流れは、彼が目覚めている間も、夢見 や深い眠りの間も、たえず体験され続けていたのです。 ただ周囲の人々が、その説明を求めました。そのため彼は人々にうながされて書物を読み、はじめて不二一元の哲学思想を知ったといいます。その思想は、すでに彼が体得していた体験に形を与えたにすぎないのです。

続きは以下でご覧ください。⇒ ラマナマハルシの根本体験
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