心の中のBYJと共に!

ようこそ!老年期まっしぐらのハルの韓国旅行時々国内旅行の記録です。最近は旅には出ても、報告アップが滞りがちですが…

有馬温泉とそのついでに行く京都の旅(その10)

2015-02-09 | 国内旅行

         名湯有馬温泉

 

美術館をお暇した後の駅への道は、丁度降り始めた雨を避けてシャトルバスに

乗せていただきました。JR山崎駅を経由して阪急大山崎駅まで10分足らず

時間があり、お天気が良ければ・・天王山もゆっくり散策して見たいところですが

今日は有馬へ急ぎます。

大山崎駅にて有馬温泉までの道のりを路線図で探します。乗り換え二度ほどで

連絡よく行けそうです。阪急電鉄京都線から十三で神戸線へ、そして新開地で神戸

高速線に乗り換え、温泉口経由有馬温泉。新開地ではこんな可愛い電車も見られました。 

新開地からの神戸高速線は、新興住宅地が拡がる通勤線らしく平日のこの日、乗客は

家路を急ぐ人々が殆どの様でした。電車を乗り継いで温泉に行く者は珍しいのかも~。

 

到着は明るいうちにと予定したものの、6時を過ぎて夜の帳が降りて暗くなっていました。

雨降りの為か、平日の所為か分かりませんが、暗くなったとはいえまだ宵の口なのに

駅前メインストリートの土産物店などが、既にシャッターを下ろして、街灯に照らされ

雨に濡れた道路がつめたそうでした。

温泉地というと、浴衣掛けで土産物店を冷やかしながら、そぞろ歩く人の姿が浮かぶ

のですが・・・、これって今はもう大昔昭和のころの残像でしょうか?

 

宿は有馬グランドホテル、何と昨年の夏エアコンを買い替えた時のメーカーの景品で

抽選で当たった招待旅行です。留守中にウリナムピョンが応募したもので、話に聞いて

いましたが、まさかの当選、まさかのご招待でした。

 

当初は気が進みませんでしたが、一旦計画を立て始めると

次々行きたいところ、やりたいことが出てきて楽しみになりました^^

温泉自体もどこにもあるようなありふれたものだろうと思っていたら・・・

 

「日本三古湯」「林羅山の日本三名泉」「枕草子の三名泉」に数えられ、

「江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付け」されていた

との記述が出てきて、どんなお湯か期待を持って出かけるに至ったのです。

 

またこの温泉は「太閤が好んで訪れた温泉」であるとわかって、期せずして

今回訪問を予定した場所がほとんど秀吉と所縁があった事の不思議を

面白がっています。(方広寺・豊国神社はもとより、織部美術館の古田織部は

千利休亡きあと秀吉によって天下一の茶人とされたそうですし、大山崎は

明智光秀を破った合戦場でした)

 

有馬のお湯は【湧出口では透明だが、空気に触れると赤く着色する含鉄

塩化物泉は「金泉(きんせん)」と呼ばれ、 それ以外の透明な温泉は「銀泉(ぎんせん)」と

呼ばれている】とあって、その面で金キラ好きの秀吉が好んだのかも・・・ですが

よいお湯だということは、まさに翌朝実感するに至りました。

夜、就寝前にシャンプーや湯あがり後の身支度含めて1時間足らずの入浴時間

でしたが、翌朝の洗顔時に触れた自分の顔は何時になく張りを感じました^^v

 

40年以上前の一時期関西に住んでいた当時に、さんざん聞いた「ありまひょうえの

こうようかくへ」のコマーシャルソングが、その後関東に移り住むようになって、聞くことに

なった「いとうにいくなら、○とや、は○やに決めた」のコマーシャルと重なって、団体旅行で

行く温泉地(=行きたくないところ)のイメージを作り上げてしまっていました^^;

 

先入観はいけませんね!反省です^^;

(続く)

 

 

 


アサヒビール大山崎山荘美術館ー有馬温泉とそのついでに行く京都の旅(その9)

2015-02-09 | 美術館(国内)

       会うべくして出会った人々のお陰様の美術館(展覧会)

初弘法の見学を楽しく終え午後は大山崎山荘美術館へ向かいます。

四条烏丸から阪急京都線で行こうと思いますが、電車に乗る前にささっと

お昼ご飯です。時間に余裕があれば、昨日お休みだったお店にしたい

ところですが、美術館にたっぷり時間を割きたいし、有馬に暗くなる前に

到着したいので、駅に近いおうどん屋さんにしました。

 

 熱々の鍋焼うどんをいただいてほっこりなって、大山崎までの短い道中は

お昼寝感覚のうちに到着。大山崎駅では改札を出たら、すぐ案内板でもあるだろう

と思っていたら、案に相違して特に目立ったものは何もなく、少し戸惑いましたが

程なく駅前を少し左へ行ったところの右手に道案内の看板を見つけました(安堵)。

     美術館の道案内板(めだたないので赤いモヤモヤで囲みました)

この道へ入ってすぐ、道路沿いのお宅の塀に南天を見つけました。

昨日金閣寺の茶室の床柱に、太い南天の柱が使われているのを見て、初めて

見る南天の柱にびっくりしたばかりです。その印象が新しいうちに、やはり通常

よく見るより、ずっと太目の南天を再び見る偶然に驚き激写^^

    ↑ 変形Yの字に歪んでいるのが南天の茎

最初の案内から100mほど歩くとまた案内板があります。周辺の地図もあります

から、ここまでくればもう迷わず行かれます。天王山ハイキングコースと入り口は

一緒のようです。

(天王山:天下不武を目前にしていた織田信長が、志半ばにして本能寺に倒れるの報を聞き

中国攻めから急きょ引き返した秀吉が、明智光秀と対決したのがこの天王山だそうです。

木津川、宇治川、桂川の三川が淀川へと合流する、古くから水陸交通の要地となっていて

先にここを占領した秀吉が光秀を打ち破ったことから、勝負を決める分岐点を「天王山」、そのような

戦いを「天王山の戦い」というようになったといわれています。)

 

               天王山入り口の記念碑

入り口を少し登ると分かれ道があり、山荘は右へ進みます。

少し行くと大きな看板があり、左へ進むと山荘の入り口になっているトンネルがあります。

トンネルをくぐってお邪魔するのって・・・確か鎌倉の文学館もこんなだったような・・・

 美術館へは長いアプローチの途中に休憩所があり、手荷物を預けられるロッカーが

設置されています。旅行鞄を預けて身軽になって見学です。敷地内は広く素敵な

お庭が拡がっています。

                  山荘本館

          美術館玄関の石像(朝鮮王朝時代のものかも)

 

元は関西の実業家加賀正太郎の山荘だったというこの美術館、建物や室内の調度も

落ち着いた雰囲気で素敵です。若い日にイギリス遊学の経験をもとに自ら設計にあたり

イギリスチューダ様式で造られたものだそうです。

 

氏の没後は遺族の手を離れ、紆余曲折の末一帯を更地としマンションを建てる開発

計画がおき、天王山の横腹に大きなマンション群が林立し、景観が一変してしまうことに

反対した地元の人々が、山荘の価値を見直し、山荘と周囲の森林の保全を訴えたところ

それに呼応した大山崎町、京都府が土地を買い上げ、山荘は所縁の深かった

アサヒビールの創業者山本為三郎のコレクションの美術館となりました。

 

建物は山荘本館と新たに別に隣接して地下に作られた安藤忠雄設計の地中館

(「地中の宝石箱」)、同じく安藤忠雄設計の山手館(「夢の箱」、2012年開館)があります。

 

山本コレクションは、山本氏が大正から昭和初期に柳宗悦らが提唱した「民芸運動」に賛同し

その活動を支援し交流する中で収集された作品や、彼らにインスピレーションを与えた

鮮王朝時代の古陶磁、イギリスの古陶磁といった日常、氏が愛用したもののほか

クロード・モネの絵画『睡蓮』連作等がある。

 

 

訪問した1月21日は、「志村ふくみー源泉をたどる」が開催されていました。

志村ふくみがこの道へ進む契機となったその母小野豊の師が、柳宗悦らの

民芸運動に深く関わった青田五良だといいますから、この展示会もまた山荘と

大いに因縁あるものだったようです。

 

古き良き時代のセンスが活かされた中に、日本の伝統的な染めと織の布や着物

の展示、いつまでも味わっていたい作品達でした。

この展示会は2月15日までと17日から3月15日までの2期に分けて作品が展示

されます。ご興味のある方は是非おでかけくださいませ。

 

美術館内部は、作品をはじめ建物すら撮影禁止でしたので写真はありません。

展示作品のイメージはホームページから借用した写真でどうぞ

志村ふくみ―源泉をたどる

 

見学の途中、展示室内にはソファなど休憩できる椅子が置かれていて、時間を掛けて

見たい人に親切でした。本格的に休憩したい時は本館2階にカフェがあります。併設の

テラスからの眺望は抜群でした。私が訪れたのは冬枯れの季節ですが、花の春は無論

新緑や錦秋の時期も素晴らしいと思われます。

    テラス(人を避けて写したら全然素敵っぽくなくなってしまいました^^;)

  テラスからの眺望(ボーっとして分かりにくいですが眼下には川が・・・)

帰りはシャトルバスの時間に合わせて、阪急の駅まで送っていただきました。

見学している間の気付かぬうちに雨が降り始めて、しっとりした木立の中を

駐車場まで歩くのも良かったです。

 

やっと今回の旅の最終目的地有馬温泉に向かいます。(続く)