長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

罪つくり

2010年08月19日 23時55分00秒 | 稽古の横道
 …小指が痛い。誰かに噛まれたわけでもないのに。
 これは半年前、稽古場の棚を直していて金槌でやっちまった古傷だ。左手なので大丈夫、と思っていたが、調子替わりでねじを上げるとき、若干響く。
 左右の小指を眺め比べてみたら、痛い左指のほうが、心持ち、太くなっている。
 …それで、昨日稽古場で、エクレアの話が出たのを想い出した。

 もう、25年ほど以前。吉祥寺にドイツ菓子のお店があった。ご主人がドイツ人で、故郷のレシピで作った可愛らしい焼き菓子やケーキなどが並んでいた。そこに、その、エクレアがあったのだ。
 日本でいうエクレアは、シュークリームのシューを細長く焼いて、カスタードクリームをサンドし、上にチョコレートをかける。
 しかし、そのお店のエクレアは、私の小指ぐらいの大きさで、ギザギザの口金で絞り出して殻を成形したような感じで、中空のところへ生クリームが入っていた。
 それがものすごく可愛らしく、美味しい。一口で食べてしまえる、小体な握り鮨のようなお菓子なのだ。

 今思い出したが、昔、クリームコロンとかいう市販のお菓子があったでしょう、今もあるのかもしれないけれど…形状はあれに似ていて、それを細長くして、皮はミスドーで見かけるチュロー…調べてみたら、揚げ菓子系でチュロスというのが本来らしいのですが…を、デリケートにしたような感じ。

 その想い出のエクレアを、お稽古場で、たまたま、お菓子談義をしていたときに思い出したのだ。
 …あのお店は今でもあるのでしょうか。

 そういう、店主の腕一本で成り立っている、今でいえば、オーナーシェフ、とか、職人さんの腕でやっているお店は、様々な理由からご本人が仕事できなくなってしまうと、無くなってしまうところが、つらい。
 技術というのは一日にしては成らないから、仕事ができる本職さんというのはそうそういるものではなく、それは他のもので代替になるというような性質のものでないだけに、本当に残念だし、愛用していた者は困ってしまうのだった。

 銀座のあづま通りに、京屋、という草履屋さんがあって、私はそのお店が好きだった。
 ご亭主が鶴のような哲学者的細面の、品のいい方で、扱っている草履の形も細身で歩きやすく、鼻緒もすっきりとスマートで、万事がシャレていた。
 名取になったとき、このお店で楽屋履きを誂えたのだった。焼き印で名入れをしてもらって、とてもうれしかった。
 それが、10年ほど前のある時、お嬢さんとおぼしき方が店番をしていて、草履裏を直してもらったのだが、それからしばらくして、いつの間にかお店を畳んでしまった。
 それ以来、どこを探しても、気に入った草履というものが見つからない。私は、草履屋さん難民になってしまったのだ。

 今でも未練がましく、京屋の紙袋を持っている。デザインは創業時の鑑札を写したものだろう、檜皮色に墨で「諸履物株仲間 明治元年戊辰十一月 東京銀座 京や」と刷ってある。
 
 包丁を捜している。
 これも15年ほど前京都で、京極から壬生寺まで歩いていた途中、たしか堺町通を歩いていたら、たまたま刃物屋さんがあって、何となく覗いたら、割り込みステンレス鋼という珍しい包丁があった。非力な私には軽くて使いやすい、お値段も実に手頃だったので、そんなつもりもなかったのだが買ってしまったのだ。
 大層よく切れて、とても重宝して、大事に使っていたのだが、一昨年、刃がポロポロッと欠けてしまった。
 それで、京都に行くたび、たしかここら辺にあったはずだ…と、お店を探したのだが見つからない。
 唯一の手掛かりは、峰としのぎの間の平の部分に刻まれた銘、将棋の駒に「八段 早川信久」という文字。昨年思い立って、早川刃物店を電話局で探してもらったのだが、なかった。
 …親方。今はどうしているのやら。

 邦楽界でもいま深刻な問題は、職人さんが減ってきていることだ。それが、本職として腕が立つという以前に、基本がわかっていないのに、商売をしている者が増えたらしい。
 三味線を手に入れるのに、インターネットなどで気軽に買えるようになった。ご町内の邦楽器屋さんが極度に少なくなってしまったいま、それは有難いことでもあるが、心あるものには驚くような代物が出回っている、と聞いた。

 三味線の棹にハがない。
 これは、どういうことなのかというと、糸を張って演奏しやすいように、胴の中子に棹を継ぐときに、三味線の棹に若干、微妙な角度がついている。これをハというのだが、それがない三味線が時々出てきて、売ったわけでもないお客さんから弾きづらい…とか言われて修理に出されたりして、街の三味線屋さんも悩むそうだ。

 それから、撥皮の位置。
 表皮の撥が当たる部分に、撥皮という、半月の弧が膨らんだ、弓張り月のような形をした皮が張ってある。これは、皮を保護するため撥が当たる部分に張るわけだが、これが、なんと、胴のキワから、しかもど真ん中に張ってあるのだ。
 胴には木の枠の厚みがあり、そこに撥が当たると撥先が欠けるし変な音がするので、そこには当てない。だから撥皮はそこから張る必要がない。胴の際から7ミリぐらいかなぁ…、ちょうど小指の太さぐらいの空きを持たせて張るのだ。

 本来の三味線の、胴の面積と撥皮の大きさと、ヘリの空きにもたぶん、美しい調和があるように思う。
 だって、撥皮をキワから張った胴は、見た目もヘンだ。三味線屋さんの愚痴を笑い話のように聞いていたら、油断できませんねぇ、お弟子さんの一人が、自力調達したその三味線を、なんか弾きづらい…といって、稽古場に、見て下さい、と、持ってきたのだ。

 芸を極めるために精進するわけだが、三味線がなくちゃ三味線弾きはお手上げだ。
 弘法筆を選ばず、というのは、楽器には当てはまらない。

 自覚しているのかどうか、わからないけれども、シロウト相手に本職のふりをして、安直に商売するなんざ、罪つくりですョ。
コメント (6)
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