ベルトルッチの分身
映画監督の巨匠ベルナルド・ベルトルッチ初期傑作選「ベルトルッチの分身」をシネマジャック&べティで見てきました。
この「分身」はドストエフスキー原作となっていますが、私が想像するに、ベルトルッチは原作のモチーフを使って原作を全て塗り替えて映画制作したものと思います。何分、原作を読んでいないので分かりませんが。。。
主人公のジャコブは大学の演劇部の講師で、物語は既にジャコブの精神が錯乱している状態から始まる。精神的な虚栄と脆弱の中で彼は自作自演の一人芝居のように問答を繰り返す。その詩のような言葉の無意味な連鎖は、まるであちらこちらに置かれた狂った方位磁石のようにずれていく。そのずれた生活の中で、ジャコブは図らずも自分の分身と出会う。それは虚栄と脆弱という対照的な性格を持ちながらも、何処か欠けていて何処か似ている。
原作と大きく異なるところは、多分原作が精神的な心理を追っていくのに対して、ベルトルッチは演劇の舞台としてそれを捉え、映画に演出したところだろう。そこには様々な実験的試みが分身をモチーフに繰り広げられる。ベルトルッチにしてみれば劇中の殺人も言わばモチーフの一つでしかない。ピアノを引く友人をピストルで銃殺。洗濯機の泡の中で抱き合いはしゃぎながら女性を溺死。そこには精神的な罪悪感もなく、ただファッショナブルな事象として狂った方位磁石が与えられているに過ぎない。
この映画は全編を通して、演劇的かつ実験的な演出を試みられている。これはベルトルッチの「分身」をモチーフにした未完成の映画なのだ。そして若きベルトルッチの感性が未完成であり続けるがゆえに、みずみずしいまでに感じられ、いつの時代でも人々を魅了してやまない映画となっている。秀逸な作品であったとMeは思う。
最後に映画のチラシに記載されていたベルトルッチ自身のコメントを載せて終わろう。
「これは、ぼくの映画の中で一番未解決なまま放置した作品だが、それでも映画の魔術に身をゆだねているし抑圧され拒絶されてはいるが幻想性を実現しようとする欲求にあふれている」
まさしくそういうことなのだ。
後記
今日は5時起床。朝食&もろもろ済ませてアジトへ。
「MPI並列プログラミング」(P.パチェコ著)は、残りの章を斜め読みで怒りの読了(祝)。その後、「数学の女王」を読み、曲線の算術:有理点と楕円曲線の章の途中まで読了(P.414/584)。何か読むのがもったいない。ちょっとだけ読んだ。その後はもうまったりまったりタイムを過ごしました。たまにはのんびり過ごすのもいいっす。