奈良散策 第1383弾
なら歴史芸術文化村主催の「和爾地域周辺の古墳群を歩く」という現地講座に申し込んだのですが、抽選ではずれたので、12月4日に同じルートを歩いてみました。その続きです。
ここが和爾下神社の入り口です。和爾下神社は延喜式神名帳にも載っている古い神社で、御祭神は素盞嗚命、大己貴命、櫛稲田姫命だそうです。
ちょっと歩くと鳥居がありました。
扁額には和爾下神社と書かれています。
この階段を登ると拝殿があります。
これが拝殿です。拝殿の奥には本殿があるのですが、本殿は重要文化財に指定されています。
ジョウビタキがいました。
神社から下りたところに、和爾下神社古墳の案内板がありましたが、肝心の古墳がどこにあるのかよく分かりませんでした。
ここから赤土山古墳に向かいました。
12月になるのにアカトンボがいました。たぶん、アキアカネ?
そして、赤土山古墳に着きました。ここは古墳時代前期に作られた前方後円墳で、今、見えているのが後円部です。築造後間もない時に起きた地震により、後円部で地滑りが起き、墳頂部にあった埴輪列が滑り落ちたとされています。
この後円部の端には造り出し部という出っ張りがあり、そこで大量の家型埴輪が見つかりました。それを再現したものです。
後円部の頂上に上がってみました。
下を見ると、先ほどの造り出し部が見えています。
前方部に向かう細い道がありました。
前方部から後円部を見たところです。
赤土山古墳は広大なシャープの工場や住宅に隣接しています。その隣には東大寺山古墳群もありました。この写真は石室で、シャープの敷地内でも20数基の古墳が見つかったので、その石室を移築したものだそうです。
ここから和爾町に向かって歩きました。こんな山道です。この道を過ぎると櫟本高塚公園に着きます。その横を通って和爾町に入りました。
和爾町のやや上側に和爾座赤阪比古神社がありました。ここも延喜式神名帳に載っている古い神社です。「特選神名牒」という大正時代に書かれた本によると、祭神は赤坂比古神とのこと、一方、明治時代初期に書かれた「神社覇録」によれば備前国赤坂郡にある宗形神社の祭神である吾田片隅命(「先代舊事本紀」に載っている大己貴神の八世孫である阿田賀田須命に比定され、これは和迩君等の祖とされています)が赤坂郡にあるので、赤坂比古と呼ばれるようになったかもと書かれているとのことです。ところで、明治時代に書かれた岡山県注進状には宗形神社の祭神は宗像三女神と書かれているようです。従って、赤坂比古=阿田賀田須命とせず、とりあえず赤坂比古としておき、和爾町にあっても必ずしも和爾氏の祖というわけではないかもしれないとのことです。なかなかややこしい話です。
すぐ横に善福寺という浄土宗のお寺がありました。
和爾町を降りていくと、工場の周辺に植えられている木でスズメが集まって、ちゅんちゅんとうるさく鳴いていました。よく見ると、ニュウナイスズメの群れでした。
さらに下に降りると電線にニュウナイスズメの群れがいました。
この辺りでこの日は引き返すことにしました。帰りに水を抜いたため池を見たら、クサシギがいました。