電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

●囲碁AIと現代囲碁について

2024-09-07 06:48:26 | スポーツ・ゲーム
 Facebook囲碁クラブの Wenzhe Songという人が、2024/9/4に、AlphaGoがアジアの囲碁産業を破壊したという記事を書いていて、偶然にそれを読んで衝撃的なうけた。私は、技術進化に驚き、そんなことができるようになったのかと開発者たちをどちらかというと賞賛し、人類に新しい一歩がつけ加えられたと思った。しかし、彼は、AIの出現によって、囲碁界は、活況を呈しているように見えるが、本当は囲碁という芸術を破壊してしまったといっている。その上、それゆえ、もう囲碁を勧めることもできなくなったと言っている。

<GoogleのAlphaGoがすでにアジアの囲碁産業を破壊してしまったからです。
AlphaGoに敗れたとき、李世乭は、自分の人生観が覆されたという趣旨の発言をしました。彼は一生をかけて修行が必要な芸術だと信じていた囲碁が、AlphaGoが数時間のトレーニングでその生涯の芸術を消し去ってしまったと感じたのです。
 さらに悲惨なことに、李世乭は最終的に1局勝利しましたが、韓国棋院はしばらくの間、李がAIアルゴリズムを欺いた奇手を打ったとして祝っていました。しかし、そんなことは無駄で、AIにトリックは通用しません。AlphaGoは李世乭の棋譜を使ってさらに強化され、一年後にはまるでアルファ・ティラノサウルスのように強力になって再登場し、柯潔は全局敗れてしまい、1局で泣き出すほどでした。私も泣きそうでした。その後、韓国棋院はAlphaGoとのトレーニングのおかげで成績は良かったと言われていますが、棋士たちは次第に興味を失っていきました。ため息が出ます。>

 李世乭が、この後、確かに囲碁の世界から引退してしまった。彼は、どう頑張っても、自分が世界一になれない世界があると言っている。彼は、囲碁は一種の芸術と考えていたようだが、AlphaGoの登場によってそうでないことがわかってしまったのだ。私は、例えば、陸上競技のように、人間は自動車より、早くは走れないが、機械と競争などしなくでも、人間同士の競技はなりたつのだから、問題はないのではないかと思っていた。要するに、囲碁AIと人間は、共存できるのであり、問題は付き合って行くのかだと考えたわけだ。

 しかし、Wenzhe Songは、もっと本質的な問題があると言っているようだ。

<かつては半ば神秘的な分野であり、人生哲学や深い智慧が織り交ぜられ、「道」のレベルにまで昇華されていました。しかし今や、アメリカ人によってその正体が暴かれました。それは単なる複雑な最適化問題であり、人生の概念を持たない機械が計算した最適解は、神秘主義に基づくものよりもはるかに優れています。何年もかけて吹き込まれた神秘主義、禅学、道学、国学、そして「棋感」などの概念が、強力な計算能力の前には何の価値もないことが明らかになりました。例えば「金角銀辺草肚皮」といった格言も、AlphaGoが中央に一手打つだけで、トップ棋士たちは一気に転げ落ちます。昔は囲碁の解説を見ていて、とてもエキサイティングで、棋士たちがとても優秀に見え、遠い先まで読めることに感心しました。しかし今では、オンラインの解説者がAIを使って簡単に分析し、「あぁ、黒がうまく打てなかったが、白もチャンスを活かせなかった」と言えるようになりました。>


 Wenzhe Songの言っていることはよく分かる。しかし、それでも私は、囲碁や将棋は人間と人間のゲームとしては成り立つのではないかと思っている。だが、彼は、それは幻想かもしれないという。確かに、昔は、誰々は、限りなく神に近い手を打つというようなことを言っていたことがあるが、現実には、人間よりはるかに、神に近いのはAIのほうだったからだ。

 実際、『碁ワールド』では、2024年の新年号から、中根囲碁道場コラボ企画として、「打ち込み十二番碁 中根九段vs.AI」という連載が始まり、9月号現在、6子局までに打ち込まれてしまっている。これは、KataGoというAIとの対局だが、AIに完全に圧倒されている。もちろん、私も趣味として囲碁をやっていて、Webでは四段くらいだが、囲碁AIとプロの最高棋士との力の差は、私とプロの囲碁棋士との力の差くらい違っているとも言えそうだ。

 そして、現在、プロ棋士は、AIと対局したり、AIによってようy打碁の分析をしたりしている。もはや、誰も人間の師匠の教えてもらって強くなるというより、AIが師匠になってしまっている。だから、囲碁は、AI的になっていることになる。つまり、勝つためにはAIのように打たなければならなくなっているのだ。そして、AIと仲良くなっている棋士こそが、棋戦で勝ち上がることができるのだ。これは、自動車と陸上選手が競争などしないということとは、本質的に違った事態だと思われる。そのことは、もう少し、深く考えて見たいと思っている。

 現在NHK杯の中継の時に使われている囲碁AIは、KataGoのようだ。プロ棋士の解説のときに、AIの手の意味の説明をする人は少ないようだが、少なくとも現在のプロ棋士より、3子以上強いAIなのだから、単なる参考ではなく、なぜ、そこに打つとよいのかという解説が欲しい。AIは理由はいわない。ABCの三手を教えてくれるのだから、なぜそこがAなのか知りたいと思う。もう少し、折角、形勢判断と推奨する手を示しているのだから、これを利用しないのはもったいない。もっとも、プロ棋士のメンツがあるのかもしれないが。

●白内障の手術をした

2024-08-20 11:02:37 | 日記
 最初は、4月15日と25日に予定していた白内障の手術が、腰部脊椎管狭窄症の手術のため延期になり、やっと8月1日、と15日に行うことができた。

 手術は所沢市にあるB大学校病院だったので、規定により前日入院し翌日手術、当日は眼帯したまま宿泊して翌日退院というスケジュールになっていた。入院の受付は、9時からだが、8時半ごろ病院にいき番号札をもらって、順番に手続きをすることになっている。最初の時は、4番だったが、2回目は1番の番号札をもらって、手続きを済ませた。手術室は2階だが、入院棟は西M棟の509と506だった、両方とも、4人部屋の窓際の部屋だった。

 パジャマとバスタオル・フェイスタオルはレンタルにした。すると簡単な生活上の日用品も無料で使用可能になっている。リンス・シャンプ、ボディソープ、歯磨きセット、コップ、ティッシュなどがあり、歯磨きセット以外は、それらを利用した。手術後は、顔を洗ったり、頭を洗ったりするのが1週間ほどできなくなるので、入院日は、浴室(シャンプーしかできない)を4時半に予約して、頭と体を洗った。

 翌日は、1日は9時半から、15日は、9時15分からの1番の手術だった。大きな病院なので、入院病棟の5階から2階の手術室までは、車椅子で10分近くかかった。執刀医は、外来で担当してもらっているO先生だが、直ぐ横で先輩の先生がサポート指示をしていた。その他にも数人の先生がいて、看護師も含めると10人近い関係者がいた。点滴をして、部分麻酔をしてベッドに横になって手術だが、部分麻酔なので、会話が聞こえて、時々、心配になったりする。最後に、指導医の人がOKを出し、終了。この間30分くらいかかかった。

 私は、白内障の手術については、深作秀春著『白内障の罠』 (光文社新書/ 2023.12.13)しか読んでないので、いろいろな方法があることは知っていた。B大学校病院では、濁った水晶体の中味を取り除き、患者にあった眼内レンズを入れるというもので、「単焦点眼内レンズ」だけを行っている。これは、健康保険の範囲内での手術になるが、この病院の「水晶体再建術」の解説には以下のように書かれていた。

<現在、世界中で最も一般的に使用されている眼内レンズです。単焦点眼内レンズを挿入すると、手術後の目の調節機能がなくなり、焦点(ピント)が合う範囲が限定されます。つまり、遠くにピントを合わせれば近くが見えにくくなり、近くにピントを合わせれば遠くが見えにくくなります。したがって術後は少なくとも1種類以上のメガネ(老眼鏡など)が必要になります。健康保険の範囲内で手術を行うことができます。>


 実際の手術の過程については、ChatGPTが以下のように教えてくれました。

<白内障手術は、濁った水晶体を取り除き、人工のレンズ(眼内レンズ)に置き換える手術です。以下は一般的な白内障手術の流れです。
手術前の準備:
患者には局所麻酔薬が目に点眼され、手術中の痛みを感じないようにします。
まれに、リラックスさせるための軽い鎮静剤が投与されることもあります。

手術のプロセス:
眼科医は角膜(目の表面)に小さな切開を行います。
小さな超音波プローブを使用して、濁った水晶体を分解し、吸引します。この手法を「超音波乳化吸引術」と呼びます。
残った水晶体のカプセル内に折りたたまれた状態の人工レンズ(眼内レンズ)を挿入します。レンズは自然に広がり、元の水晶体の位置に固定されます。

手術後のケア:
手術後、目に保護パッチがつけられることがあります。
数日間、抗生物質や消炎剤の点眼薬が処方されます。
通常、視力は数日から数週間で改善し、完全に回復するまでにはさらに時間がかかる場合もあります。


 これがオーソドックスの手術過程であり、私の手術もこのように行われました。私は、元々近視だったので、焦点距離50cmの固定レンズにしてもらった。ということは、50cmの距離のものがいちばんよく見え、それより短い距離のもの、長い距離のものは見にくくなる。多分、2種類のメガネが必要になると思われれるが、視力が安定するまでにすこし時間画かかりそうだ。

 術後1週間ほど頭を洗えないのは、夏場はきつい。また、視力が安定するまで、メガネを浸かられないので、文庫本を読んだりするのは難しい。だから、しばらくは、読書は、もっぱらKndle版にして、iPadやKindle Paperwhiteで読んでいる。

 いちばん驚いたのは、見えるものがとても大きく見えることだ。私は、中学生のときから近視になり、それいらメガネを書かしたことがない。手術前の視力は、裸眼だと0.3以下だったし、かなり強力な近視用のメガネをつけていた。そのせいか、裸眼だけでものを見たり、読んだりしたことがほとんどない。白内障の手術後初めて、メガネにない生活をして、周りのものがとても大きく見えることには本当にびっくりした。

●東京都知事戦が終わった

2024-07-10 17:18:29 | 政治・経済・社会
 東京都知事戦が終わり、小池百合子が圧勝した。 3選を決めた現職の小池百合子(71)は291万8015票を獲得。 前広島県安芸高田市長の石丸伸二(41)は165万8363票で次点に入った。 元参院議員の蓮舫(56)は128万3262票で、3位に沈んだという結果になった。投票率は60・62%(前回55・00%)で、平成以降の計11回の都知事選では、衆院選と同日だった2012年に次いで2番目の高さとなった。私は、石丸伸二の得票数にびっくりした。

 結果的には、自民党、公明党のバックアップがあった小池が、立憲、共産党のバックアップを受けた蓮舫を圧倒したことになる。そのこと自体は、不思議でもなんでもなく予想された通りだった。不思議に思えたのは、前広島県安芸高田市長の石丸伸二(41)が165万8363票で次点に入ったということだ。石丸は、ネットなどでは、ホリエモンなどの支援を受けていて、どちらかというと新保守的な立場の人である。都民は、小池百合子の続投を臨んだのだが、若い世代が石丸をのぞんでいたようだ。

 ネット、特にユーチューブ動画などでは、小池批判や蓮舫批判が多く、小池の学歴詐称問題や強引なん都庁運営などの批判も目立ったが、自民、公明の組織票に勝てなかったという結果だと思われる。特に、蓮舫は、共産党との共闘が裏目に出た印象であり、自民党の金権政治に批判が空回りしていた。そういう意味では、石丸が健闘したと言うべきで、分析する対象としては、彼をなぜ皆が支援したかにあると思う。石丸は、ネットをとても上手く活用していたと思う。選挙参謀が、維新系の人だといわれているが、とても上手く、今後の、選挙活動の方法に一石をと投じたと言ってもよいと思われる。

 私は、小池百合子が都知事になる前に、都民を止めて埼玉県民になったので、今回の選挙は横目で眺めていたが、興味深い選挙だったと思う。8時の開票と同時に、小池百合子の当確が発表された。NHKはなぜ大河ドラマを放映品かかったのかと疑問に思った位だ。石井妙子著『女帝』を読んだ者としては、一方ではひどい女性なのだなという印象を持ったが、他方では、日本の政治家の世界で女性が生きていくには、このくらいの性格を持っていないとやっていけないのかもしれないとも思った。

 いずれにしても、自民党には逆風になっているが、そうかと言って代わりになる政党は存在しないというのが現在の日本の政治状況だ。この点が、欧州やアメリカなどとまったく異なった状況である。日本人は、円安やインフレのなかでもそれなりに、まだ自分たちの生活は安泰だと思っている人が、かなりいると思われる。

 最近、マルクス・ガブリエル著『倫理資本主義の時代』という本を読んだが、ある意味では、日本の経営者や労働者たちは、企業がもっと倫理的に運営されれば、日本の社会はよくなると思っているのかもしれない。ガブリエルが、最初にこの本の日本語版を出版(ドイツ語版より前に)した理由が、何となくわかる気がする。ガブリエルは、脱成長論者ではない。倫理資本主義による経営が成長することがいずれ今の世界の危機を救う道なのだと言っている。そして、日本の経団連の人たちがそれを聞いた何を考えたかは、私にはわかるような気がする。

 確かに、斎藤幸平や、白井聡、大澤真幸、そして、柄谷行人などが資本主義の批判をしているが、資本主義を超える理念を打ち出せていない。この本の監修者が斎藤幸平だというところもすごいのだが、ガブリエルの提案が日本では受け入れられようとしているのかもしれない。しかし、多分、この動きと日本の政治状況とは上手くマッチしていないように思われる。日本の政治は、対米従属のなかで、主権さえ保てなくなりつつあるのを見ていると、日本の保守とは一体何なのか、考え直す必要がありそうだ。

●生成AIの限界と可能性について

2024-06-27 07:03:35 | デジタル・インターネット
 2022年の年末に登場したChatGPTは、あっという間にAIについての話題を獲得し、昨年はそれらがものすごい勢いでアップデートされ、いろいろなことができるようになっていった。それを見ていると、もうすぐ、AGIができて、人間の知性を超えるAIが登場しそうに見える。ソフトバンクの孫正義のユーチューブ動画もそんな方向を示していたように思う。(参考:「SoftBank World 2023 孫 正義 特別講演 AGIを中心とした新たな世界へ」)しかし、そう簡単には、AGIは実現できない気がする。孫正義は、ASIのためにソフトバンクはあるのだと言っているが。

 生成AIは、大規模言語モデル(LLM)であり、個々のトークンを大規模なベクトル空間に位置づけ、アテンション(自己注意機構)を使ったトランスフォーマーと次の単語を予測するという「自己教師あり学習」という二つの技術をつかっている。そして、いまのところ詳細は不明ながら、自然言語に対応した文章が生成できるようになっている。そして、知としても、学習した言語の内容に合ったところまで生成可能になっているので、ネット空間にある普通の知は生成できることになっている。もちろん、それは、質問者の問いとその文脈に応じた知的生産ということである。多分、言語の翻訳、文章の要約、言葉の使い方の間違い、言語の文脈から考えられる提案などで力を発揮する。しかし、その生成物が正しいかどうか、また、適切かどうかは、質問者自体が判断するしかない。

 私は、前に、生成AIの活用によって、知の民主化が起こると言うようなことを述べたことがあるが、生成AIの生成物を本当に活用できるためには、知的な訓練が必要であると最近気がついた。本来、ハルシネーションが起きることを知ったときからそれはわかっているべきであった。おそらく、生成AIの進化の影で、そうした知的作業の格差も秘かに進行していると思われる。知とは、知的作業の中でこそ生きるのであり、知的な作業に生きるためには、知的な対応が必要になるのである。だから、おそらく、人が言うほど、知的な作業は、AIに置き換わるわけではないと思われる。もっとも、不十分な知は、役立たなくなる可能性があるというべきかも知れない。

 大切なことは、それぞれのプロは、その場面における知を鍛えることによってのみ、生成AIの本当の活用を実現できることだいうことを理解しておくことだとだと思う。現在のところ、いかなる生成AIも人間による操縦なしには、上手く作業しないのであり、その操縦次第で、とてつもない結果を生み出す可能性を持っているということはできる。それは、将棋の藤井聡太が将棋のAIソフトを活用できて、自分の将棋を向上させることができるのは、まさに藤井聡太だからこそそのソフトを最高に活用できるということになっているのと同じだと考えるべきだ。ただし、藤井聡太がそうであるように、私たちの知的作業も、もうすでに、生成AIの活用なしには更なる向上は難しくなっているということかもしれない。
 
 そして、話は、単純なところに帰着するのだが、私たちは、ネット上の知を収集し、分類し、整理し活用することが甚だ簡単にできるようになったが、それを活用するには、それを活用する能力が必要であるということであり、その情報活用能力を活用することが大事だということだ。ただ、その場合、前より便利になり、参入障壁が低くなったのは、自然言語を使ってそれができるようになったからであり、そういう時代になったということである。ただし、そうはいっても「プロンプトエンジニアリング」という言葉や、「生成AIにおける言語学」ということが言われるようになったように、自然言語に対する本質的な理解も必要になって来たことも確かだ。

 ところで、6月26日のクローズアップ現代で、デジタル赤字について取り上げていた。

<デジタル分野のサービスでの国際収支で、去年は5.3兆円に上った日本の「デジタル赤字」。日本企業がDXを進めれば進めるほど、クラウドサービスの利用料など海外IT大手への支払いが増える。新サービスを生み出すスタートアップも、海外IT大手への支払いがかさみ、米IT企業の“デジタル小作人”と言われるまでに。>

 確かに、昨年のインバウンドでは3.6兆円だったというから、そのインバウンドの利益をはるかに超えている。特に、デジタル分野ので赤字は、円安によって、さらに悪化して行く。現在、生成AIの基盤技術や、それらを活用するクラウドサービスは、圧倒的にアメリカが有利になっている。もちろん、アメリカでのクラウドサービスは、Amazonや、Google、Microsoftなどいくつかの大手があり、いまのところ日本は負け組になっている。クラウドサービス自体が、AIを活用できるようになっていて、それを活用すればするほど、日本は、アメリカに依存していくことになる。

 東大の松尾豊によれば、IT事業でははっきり負け組にいるということを自覚して挑戦して行けば、生成AIの活用の分野では挑戦可能だという。というより、日本の独自の活用方法を開発していくことしか、ここでの突破口がないというべきかもしれない。日本語という特殊な自然言語をどう活用するかや、日本独自なシステムの活用などが、「稼げる小作人」になる道かもしれない。確かなことは、生成AIの分野は、まだ始まったばかりだということだ。

●ライターという職業について

2024-06-23 11:38:12 | デジタル・インターネット
 2024年6月13日付けの「デジタル新文化」で次の記事を読んだ。

<「嫌われる勇気」300万部突破/ダイヤモンド社発売10年半で/同社全書籍で歴代1位/世界40の国・地域で翻訳、1000万部超
 ダイヤモンド社が刊行する岸見一郎/古賀史健『嫌われる勇気』の発行部数が67刷目で300万部を突破した。2013年12月に発売して約10年半で大台に乗った。ビジネス書としては異例の記録。売行きは今も好調で、今後も様々な仕掛けで増売していく。>


 これまでダイヤモンド社の書籍のなかで売り上げトップは、岩崎夏海著『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』だったそうだが、今回はそれを超え、特に中国では300万冊のベストセラーになっているという。中国でなぜそんなに売れているのかは、いろいろな説があるが、自己肯定感が強く、日本より激しい競争社会を生き抜くには、「嫌われる勇気」は必要な資質なのかもしれない。

 私がこの記事に注目したのは、『嫌われる勇気』が岸見一郎と古賀史健の共著になっていることだ。ある意味では、古賀史健の名前が知れ渡ったのはここからだと思われる。これとよく似た作りの本に、養老孟司著『バカの壁』というベストセラーがある。もちろん、この本は、養老孟司が語ったことを編集者がまとめたものである。『嫌われる勇気』は、いわば岸見一郎と古賀史健の対話をもとにしてできあがった本なので、共著でいいのだとは思うが、ここで初めて「ライター」が表に出たというべきかもしれない。『バカの壁』には、編集者の名前は載っていない。

 同じ「デジタル新文化」の同日の記事に、児童書の購入の仕方の変化についての発言がある。

<また、本の選び方も変化しているようです。以前と比べて親御さんも子どもたちも自分で本を選ぶというより、アニメや映画などのメディア化作品やテレビ番組、SNSで話題になっている作品を購入する方が増えているように感じます。人気作品を手にする傾向が高まっているのは『購入して失敗したくない』という気持ちの裏返しなのかもしれません。>(「児童書で本好きを増やす」座談会のトーハン書籍部の下田祐美発現)

 そして、いつの頃からか、一般書に編集協力者やライター、編集担当者の名前が載るようになった。つまり、最終的には読者に安心して手にとってもらえるようになる。また、忙しい書店員に対するアピールにもなる。もちろん、それだけが本の内容の保証になるわけではないが、読者にも参考になる。実は、SNSなどの普及により、個別の読者が書店で実物を見聞して本を選ぶ際の参考になっている。この間の事情は、永江朗著『私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏』(太郎次郎社エディタス/2019.11.25)で本の流注の業界(出版社⇔取次⇔書店⇔読者)の寒霞渓の変化について興味深い指摘をしている。

 ここまでは、余分も情報の紹介であるが、私が興味を持ったのは、『嫌われる勇気』の著者の1人の古賀史健についてである。そんな彼は、2021年にはダイヤモンド社から『取材・執筆・推敲──書く人の教科書』を書いた。ある意味では、彼が初めてライターとは何かを定義してみせ、どうすれば優れたライターになれるのかという教科書を提出してみせた。彼が想定していたのは、紙の本だったが、彼のライター論は、紙の本を超えて、ネットの時代になったからこそ余計重要になったのだともいえる。この本の中で定義されている編集者とライターの定義は、とても興味深い。

 古賀史健によれば、ライターというのは、「コンテンツをつくる人」であり、「コンテンツとは、エンターテイン(お客さんをたのしませること)を目的につくられたものである」という。
 それなら編集者は何を「編集」しているのか。原稿を編集するのは、あくまでもライターであり、そして編集者は、原稿の外側にあるものを、つまりコンテンツの「パッケージ」を編集する人間である。「誰が(人)」「なに(テーマ」」「どう語るか(スタイル)」のパッケージを設計していくのが編集者の最も大切な仕事だという。

 いま、「原稿を編集するのは、あくまでもライター」であり、そして編集者は、原稿の外側にあるものを編集(=設計)すのというように書いた。おそらく、このときの編集者とライターの役割を大事にしないといい本はつくれない。もちろん、編集者=ライターという仕事をしている場合は、編集者は、2重の役を果たすことになる。いままでは、ライターは影の存在で編集者が中心だった。それは、出版の歴史とともにあった長い蓄積がある。よき編集者もたくさんいる。だから、ライターはただ、編集者のオファーに応えていればよかった。しかし、いま、時代が変わりつつあるという。

<いま、ライターを名乗る人のほとんどは「ウェブ」を主戦場としている。それ自体はまったく自然の流れだし、ウェブメディアだからこそできることも多い。問題は、オウンドメディアを筆頭に、専業の──あるいはプロと呼べる──編集者をもたないメディアた急増していることだ。一般にウェブディレクターと呼ばれる彼らの多くは、アクセスデータを読むことはできても、編集ができない。進行管理はできても、編集ができない。そのため、つくられるコンテンツの多くは「いま流行っているもの」や「最近数字がとれたもの」の後追いになってしまう。残念ながら世のなかにあふれるコンテンツの質、その平均値は明らかに減退している。>(『取材・執筆・推敲──書く人の教科書』より)

 これを超えるには、ライターは、これまで以上に「編集」に踏み込む以外にないという。そして、人気を集めているライターは、文章力以上に「編集力」の確かさで支持を得ていると主張している。つまり、ラインターも編集力を身につけるほかないが、それでもライターとしての役目の自覚も大事だという。古賀史健は、「ライターとは、空っぽの存在である」という。だからこそ、ライターは取材するのであり、自分と同じ場所に立つ読者に代わって、取材するのだという。

<小説家が小説を書き、詩人が詩を書き、エッセイストがエッセイをかくのだとした場合、ライターは何を書いているのか?
 取材したこと、調べたことをそのまま書くのがライターなのか?
 違う。絶対に違う。僕の答えは、「返事」である。>(同上より)


 古賀によれば、「取材者」であるライターは取材相手への返事を原稿にしているのだという。

<ライターは、取材に協力してくれた人、さまざまな作品や資料を残してくれた作者、あるいは河川や森林などの自然に至るまで、つまり空っぽの自分を満たしてくれたすべての人や物ごとに宛てた、「ありがとうの返事」を書いているのである。>(同上より)


 この本では、「返事としてのコンテンツ」をどのようにつくるのか、「取材・執筆・推敲」の過程を通して、具体的にとてもわかりやすく説明されている。現在「言語化」という言葉が流行っているが、ここに本来の意味での「言語化」の作業の大切さ面白さが、古賀史健の経験を踏まえて書かれている。そして、ライターの奥深さが理解できる。もともと著者として出発した人を別にして、編集者からライターに変身しようとしている人にとってとても大切な基本が書かれていると思った。特に、前の経験に引きずられることなく、常に新たに、自分を空っぽにして取材から始めるということは、とても大切なことだと思った。