電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

●弥生人と古墳時代について

2025-02-21 17:41:57 | 政治・経済・社会
 国立科学博物館長の篠田謙一が『人類の起源』(中公新書/2022.2.25)で次のように述べていた。

<世界史でも日本史でも、私たちが学校で習うのは、文化や政治形態の変遷です。他方で、ヒトの遺伝子がどのように変わって行ったのにかについては考えることはありませんでした。
 ヨーロッパ、特に北方地域では青銅器時代以降に、集団の交代に近い変化がありました。日本でも縄文時代から、彌生・古墳時代ににかけて、大規模な遺伝的変化が起こっています。しかし、文化の編年を見るときには、そのことはあまり意識されることはなく、何となく集団としては連続しているように考えてきました。
 たとえば、「弥生時代になって古代のクニが誕生した」という言い方をします。このような表現をすると、日本列島に居住していた人びとが、弥生時代になった自発的にクニをつくり始めたと考えがちです。けれども、これまでのゲノム研究の結果からは、おそらくその時代に大陸からクニという体制を持った集団が渡来してきたと考えるほうが正確だということがわかっています。古代ゲノム解析は、これまで顧みられることがあまりなかった、文化や政治体制の変遷と集団の遺伝的な移り変わりについて、新たに考える材料を提供してくれているのです。>(同上/P264・265)


 まさしく、2024年4月に放映された「NHKスペシャル 古代史ミステリー」は、この篠田謙一の指摘をある意味では実証してくれた。私は、そのときの番組を見たが、その番組の取材を踏まえてNHK取材班著『新・古代史──グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』(NHK出版新書/2025.1.10)でより詳しい内容が展開されている。

 鳥取市青谷町にある青谷上寺地遺跡(あおやかみじち)は、弥生時代前期の終わり頃から古墳時代前期に当たる、約2400年前から約1700年前まで栄えたとされている集落の遺跡である。この遺跡には、とてもたくさんの弥生時代の人骨が見つかっており、それは、墳墓からではなく、集落を囲む溝から見つかったものである。そこには、痛めつけられて殺された痕跡が残っている。これらの人骨を古代ゲノム研究の手法で調査した結果驚くべきことがわかった。

 一つは、古代の集落は、人の往来が少ないので、同族の人などの血縁関係がある人が多くなると予想されたが、ほとんどの個体は、母系の血縁が認められなかったことである。つまり、「青谷上寺地遺跡は外部との人的交流が少ない集落ではなく、様々な地域から絶えず人が流入を繰り返す、都市型の拠点であった可能性が高い」と考えられている。

 そして、もう一つは、篠田謙一が言っていたことである。

<驚くべきことに、分析を行った三二個体のうち三一個体が渡来人系で、縄文人系は全体の3パーセントにあたる一個体しかなかった。つまり、青谷上寺地遺跡の弥生人骨は、縄文人と渡来人が徐々に混じり合って弥生人が誕生したという、これまで盛んに唱えられてきた定説とは異なる結果を示したのだ。>(『新・古代史』p95)


<鳥取県内の遺跡では、弥生時代中期までは、土壙墓群や木棺墓群といった死者を単体埋葬した墓域が確認されており、そこに有力者たちも埋葬されていた。ところが、身分の差がよりはっきりしてくる卑弥呼の時代・弥生時代後期になると事情が異なってくる。支配者層の墳丘墓など巨大な墓が相次いで見つかる一方、被支配者の埋葬地は確認しづらくなるのだ。
 棺に入れられることもなく、うちすてられた大量の奴隷の亡骸……。それが青谷上寺地遺跡の出土人骨の正体なのではないかと(青谷上寺地遺跡の発掘調査を担当する鳥取県文化財局の)濱田さんは推測する。もしそうであるならば、各地から連れて来られた奴隷たちは、栄養状態が悪く結核などの病に苦しんだり、争いに巻き込まれたりして亡くなったことになる。決して平穏とは言えない当時の社会状況を、人骨はありありと伝えているのだ。>(同上・p97)


 どうやら弥生人とは、主として、農耕をもたらした渡来人系の人たちが縄文人に置き換わって成立したもののようだ。そして、農耕だけでなく、鉄器なども武器や農具としてもたらし、やがて、古墳のよう大土木事業もできる人たちがやってきた。彼らは国づくりや戦闘さえも弥生人の中にもたらしたとも言える。それが、邪馬台国卑弥呼の時代であるらしい。当時は、朝鮮半島とは、いまよりももっと交流が活発であったと思われるのだ。卑弥呼の話は、主として「魏志倭人伝」によるところが大きいが、魏の国とは、あの「三国志」に出てくる、「魏・蜀・呉」の中の「魏」の国である。

 そして、五世紀になると、朝鮮半島にも前方後円墳ができるようになった。最初に前方後円墳ができたのは、三世紀の後半の近畿地方であり、つまり、卑弥呼がなくなるころである。朝鮮半島にも前方後円墳があるということは、直接ヤマト政権に所属していたということもあるかも知れないが、それほど、日本と朝鮮半島殿間には、交流があったということである。そうれも当然で、当時の中国、朝鮮は、常に紛争が起きていて、大量の移民が日本にもやってきていたようだし、渡来人の先輩がすでに弥生人になっていたのだ。

 残念なことに、『新・古代史』では、卑弥呼の邪馬台国がどこにあったのか、また、墓はどこにあったのかは、いろいろな説をのせているが(全体として近畿説に近いようだが)、断定はされていない。最大の謎は、『日本書紀』や『古事記』に「邪馬台国」も「卑弥呼」も登場していないということだと思う。『日本書紀』によれば、神武天皇が即位したのは、紀元前660年とされているが、その後、彼の子孫が代々天皇になったことになっている。しかし、卑弥呼がいた時代から始まる古墳時代におそらくヤマト政権の基礎ができて、連合国家のようになっていたのだと思われる。そして、古墳時代が終わるころには、中央集権的な大和政権が確立していたようだ。

 ところで、日本人が馬に出会ったのは、高句麗との戦いによるという説がある。「広開土王碑」にある倭国との戦いでは、高句麗の騎馬軍団が活躍し、それを見た倭人は驚いたに違いない。そして、日本にも馬がやってきた。

<最新の化学分析によって導き出された内容を整理しておこう。朝鮮半島から渡ってきた馬は、五世紀のうちに東日本へと拡散。馬の成育に適した火山灰草原を有する広大な牧で、盛んに出産・飼育が行われた後、ある程度まで成長を遂げた個体は機内に移動した。そこでは個体ごとに管理が行われ、厩舎で大切に世話をされていた。古墳時代、日本列島にまたがる馬の生産体制が築かれようとしていたのである。>(『新・古代史』p249)


 多分、大和王権は、鉄と馬を支配することによって、できあがった王権だったにちがいない。そう考えると戦後すぐに発表された、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」も必ずしも成り立ち得る説だと思われる。

<騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓(任那)を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたとする学説。単に騎馬民族説(きばみんぞくせつ)ともいう。

東洋史学者の江上波夫が、(1) 古墳文化の変容、(2) 『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承の内容、および、(3) 4世紀から5世紀にかけての東アジア史の大勢、この3つを総合的に解釈し、さらに (4) 騎馬民族と農耕民族の一般的性格を考慮に加えて唱えた、日本国家の起源に関する仮説である。

この説は戦後の日本古代史学界に大きな波紋を呼んだ。一般の人々や一部のマスメディアなどでは支持を集めたが、学界からは多くの疑問が出され、その反応は概して批判的であった。ことに考古学の立場からは厳しい批判と反論がよせられた。21世紀にあっては、この説を支持する専門家はごく少数にとどまっている。

なお、この説の批判者である白石太一郎や穴沢咊光は、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると主張している>(「Wikipedia」より)


 私も、「騎馬民族征服王朝説」が正しいと思っているわけではないが、「邪馬台国」や「卑弥呼」が消された『日本書紀』や『古事記』の歴史の背後に、中国、朝鮮半島との交流の結果、縄文人が弥生人に置き換わっていく過程が隠されていることだけは確かだと思う。その意味では、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」は参考にすべき説だと改めて思った。
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●永田和宏著『象徴のうた』(角川新書)を読み終えて

2025-02-17 17:26:36 | 政治・経済・社会
 永田和宏と彼の妻・河野裕子は、2人とも皇居の正殿松の間出行われる歌会始の選者だった。残念ながら、河野裕子は、平成22年に癌でなくなった。永田和宏は、定家にならったわけではないだろうが、それぞれ秀歌100首を集め、『近代秀歌』と『現代秀歌』(ともに岩波新書)つくった。とても、興味深く読んだ。

 その『現代秀歌』の中に、皇后美智子の作品として下記の歌が取られていた。

・てのひらに君のせましし桑の実のその一粒の重みのありて


 この歌は昭和34年につくられたものであり、永田によれば結婚直後の東宮御所の散歩の折につくられたもののようである。彼は「共に住んでまだ日が浅く、庭のひとつひとつの樹々や草花を、先輩である皇太子が教えながら歩かれたのであろう」と解説していた。そして、次のように評している。

<「桑の実のその一粒の重みのありて」という第三句以降に初々しい喜びが感じられる。「君」が手ずから載せてくれた一粒だからこそ感じられる重みなのであり、その重みには「君」の愛情の重みもまた同時に感じられたのであろう。そしてまた、その一粒の重みには、これから皇太子妃、そして皇后として自らが担うことになるであろう特別の人生が、重みとして確かに予感されていたはずである。>(『現代秀歌』p14)

 その解説の後に、参考として、次の歌が掲載されていた。


・かの時に我がとらざりし分去れ(わかされ)の片への道はいずこ行きけむ


 この歌を読んだとき、私は軽い衝撃を受けた。この歌は、結婚後30年を経た時点で詠まれた歌である。そういえば、私は結婚が遅かったので、丁度現在、結婚後30年を経たところである。私と違って美智子皇后は国家的な決定の中にあったわけであり、「片への道」はまったくいまの道とは違っていたはずである。しかし、彼女もまた、私たちと同様に、多分、30年を経て複雑な思いも抱いていたに違いないのだ。

 さて、そんな美智子皇后の相手の平成天皇とは、昭和の天皇とは違って生まれながらにして象徴として日本国憲法と皇室典範に縛られた「象徴」としての存在だった。そして、「象徴」がどうあるべきかは憲法には書かれていない。もちろん、天皇がしなければならない国家行事と役目は決まっている。しかし、「象徴」とな何かについては、何も決まっていない。

<それでは<象徴>とは何か。日本国憲法の第一章第一条は、

 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

と天皇について規定している。私は以前から、これほど大切で、かつこれほど無責任な規定はないのではないかと思ってきた。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と繰り返される「象徴」。しかし、「象徴」とは何か、どうすれば「象徴」たりうるのか、憲法の条文はいっさい何も語らない。これではあたかも「象徴とは何か」は、その地位についた天皇ご自身でお考えください丸投げしているようなものではないか。
 平成の天皇は、その即位のときから、「象徴とは何か」、その誰も答を持たない難問に正面から向き合い、自らの問題として一貫して考えて来られたのだと思う。それが平成時代であり、平成の天皇の歩まれた道であった。>(『象徴のうた』p262・263)

 永田和宏著『象徴のうた』は、まさしくその問に全力で取り組まれた平成天皇と皇后の心が描かれている。もちろん、それなりの教養をつけられている皇室関係者であるから、皆、それなりのうたを詠うことができる。しかし、天皇や皇后のうたからは、それ以上のものが溢れていると思われた。ひとりの「人間」でありながら、しかし「象徴」であることの真摯な姿が、詠われているのだ。永田和宏は、それを「国民と共にある、国民に寄り添う」と言っている。

・贈られしひまわりの種は生え揃い葉を広げゆく初夏の光に

これは、平成31年、平成の天皇皇后両陛下が出席された最後の歌会始で詠われた天皇のうたである。このひまわりとは、「はるかのひまわり」と呼ばれるものである。

<この震災(阪神・淡路)で犠牲になった当時小学校六年生の加藤はるかさんの自宅跡地に、その夏、ひまわりが花をつけた。はるかさんが隣家のオウムに餌として与えていた種が自然に芽をだしたようだ。
 人々はそれを復興のシンボルにすべく、種を全国に配り、「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったのである。両陛下は、その種を蒔き、花が咲くと、そこから種を採り、毎年皇居の庭で育てて来られたのだ。>(『象徴のうた』p258・259)

 こうした天皇の「象徴」としての行為は、自覚的おこなわれたものであり、そのことは天皇が自ら述べている。

<私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間かん私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。>(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(平成28年8月8日)宮内庁>

 私は、日本の伝統的な制度としての天皇制はいつかなくなると思っている。しかし、そのときは、日本国憲法の改定のときになる。今のところ、女性天皇の是非が論じられている程度だ。こちらは、憲法ではなく皇室典範の改定になる。エマニュエル・トッドが言っているように、同じ立憲君主制の国でも、イギリスは男女同権であるが、日本は家父長制を採用している。いずれにしても、「象徴」は「人間」でもあるけれども、基本的人権があるわけではない。彼らは国民でもない。しかし、現在のところ、どんな国会議員より、日本のことを考え、戦争を始めてとして、さまざまな人災・天災の都度、心を痛め、必死に祈ってくれているのが、平成天皇と皇后であったことだけは覚えておくべきだ。
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●平安時代の浄土思想について

2025-02-05 17:21:59 | 生活・文化
 西行は、1118年に生まれ、1190年になくなっている。同時代人は、平清盛だが、出家遁世の生活を送った人としては、私たちは『方丈記』を書いた鴨長明を知っている。鴨長明は、1155年に生まれ1216年になくなっている。歌人の藤原定家は、1162年に生まれ、1241年になくなっている。長明はどちらかというと定家と同世代というべきかも知れない。
 西行は、出家してからあちこちに庵を作って暮らしていたようだが、多分その生活は長明のような生活だったのかもしれない。長明もまた、都からそんなに離れていなくて(西行のような遠くまでの旅はしなかったが)、歌を詠んだり、文を書いたりしていた。

<いま、日野山の奥に跡を隠して後、東に、三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南に、竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を造り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、傍に、普賢を懸け、前に、法華経を置けり。東のきはには、蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に、竹の吊棚を構えて、黒き皮籠三合を置けり。即ち、和歌・管弦・往生要集如きの抄物を入れたり。傍らに、琴・琵琶各々一張を立つ。いわゆる折琴・継琵琶これなり。仮の庵のありよう、かくの如し。
 その所のさまを言わば、南に、懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を外山といふ。まさきのかづら、跡を埋めり。谷しげけれど、西晴れたり。観念の便り、無きにしもあらず。
 春は、藤波を見る。紫雲の如くして、西方ににほふ。夏は、郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、日ぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。冬は、雪をあわれぶ。積もり消ゆるさま、罪障に喩えつべし。>(鴨長明『方丈記』より)


 長明もまた、西方浄土を願って生きている。しかし、法然(1133年~1212年)や親鸞(1173年~- 1263年)のように浄土教を徹底して、極めたわけではない。前に、『源氏物語』について書いた時すこし触れたが、浄土思想が日本でどのように受容されたか興味深い。藤原道長が死ぬとき、釈迦入滅と同じ北枕で極楽浄土があるとされる西の方向に向かって向かって横たり、手には阿弥陀如来像に結ばれた五色の糸が握られていた。

 阿弥陀仏と浄土三部経については、岩田文昭著『浄土思想』(中公新書/2023.8.25)の解説が興味深い。浄土三部経とは、「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」の3つである。

<阿弥陀仏とはどういう仏か。阿弥陀のサンスクリット原語は、「アミターユス」と「アミターバ」である。「アミターユス」とは「無量の寿命(無量寿)」を意味し、「アミターバ」は「無量の光明(無量光)」を意味する。「阿弥陀仏」とは、この無量寿仏と無量光仏の二つの語の意味を含む音写語である。つまり、阿弥陀という仏は、時間的に無量の寿命があり、空間的に制限のない旧済活動をする仏ということを意味する。>(同上p8)


そして、この浄土三部経の語り手は釈尊であり、釈尊が弟子たちに阿弥陀仏の存在と極楽浄土について紹介するという形式をもっている。つまり、釈尊は、阿弥陀仏の極楽浄土の素晴らしさを説明し、そこに生まれて(すなわち往生して)容易に仏になれることを説いているわけだ。ところで、この阿弥陀仏の存在については、「無量寿経」にある宝蔵説話に由来する。

<過去久遠の昔、錠光という仏が世に出現し、多くの衆生を強化したのち、自らに入滅さらた。その後も次々と五十三の仏が出現し、五十四番目に出現したのは世自在王という仏であった。そのとき1人の国王がおり、世自在王仏の説法を聞き無常のさとりをえたいという心を起こし、国も地位も捨て、出家修行者の身となって法蔵と名乗った。才能が秀でて志しも強い法蔵菩薩は、世自在王仏の前で、苦悩の衆生を救いたいという願いを起こす。法蔵菩薩の決意の堅固さを知った世自在王仏は、法蔵菩薩を激励し、二百十一億の諸仏の国土に住む人・天の善悪、国の優劣をしめした。その全てをみた法蔵菩薩は、五劫という永いあいだ思惟して、すべての行きとし生ける衆生を救おうと決心し、四十八の願を建てた。法蔵菩薩はこの四十八願を完成するために兆載永劫(ちょうさいようごう)というはてしない長い時間をかけて行を修め、ついにその目的を達成した。理想の浄土を西方に建立し、自分もまたさとりを開いて仏になった。その仏が阿弥陀仏であり、その浄土が安楽国土(極楽)である。いまから十劫という昔に衆生を済度する救いが完成されたのであり、この極楽に往生すれば間違いなく仏になることができる。極楽では無数の菩薩が阿弥陀仏に供養し、さらに十方国土からも菩薩が集まってくる。
 釈尊は、このように極楽の素晴らしさを説き、この説教は将来にわたりとくに重要なので、素直に信じるようにと注意をして話を終える。>(同上p12・13)


これが、いわゆる法蔵説話といわれるものだが、この中の四十八願のなかの十八番目の願が、問題になってくる。十八願によれば、この誓いを信じ浄土に生まれたいと願い、高度な修行ではなく、念仏するすべてのものを救うことが誓われている。

<わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏をして、もし生まれることできないようなら、わたしは決してさとりをひらきません。ただし五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。>(『浄土三部経 現代語版』二九より)

 つまり、法然や親鸞の称名念仏の教えとは、ここから生まれたものである。西行も長明も浄土思想に目覚め、それを実践しようとした人たちであり、そのために出家遁世をしたのであるが、彼らは法然や親鸞のように徹底できなかった。それは、それでよかったのかもしれない。彼らは、歌を詠み、文章を書くことによって生きる証とした存在であり、それを通して私たちは彼らと向き合うことができる。
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●あらためて、西行を思う

2025-02-03 18:11:29 | 日記
 本当は、1月中に今年の抱負を述べる予定だったが、それができなかった。読んでいる本が、あまりに散漫で、まとまらないのだ。

 たぶん、今年の私の中心になるのは、西行だと思われる。小林秀雄の『モーツァルト・無常という事』にある「西行」から初めて、吉本隆明著『西行論』、いちばん新しい西行論としては、寺澤行忠著『西行──歌と旅と人生』、そして、白州正子著『西行』を今読んでいるところだ。小林と吉本の論は、何度か読みなおしているが、これからの影響は大きいようだ。皆、それとくらべてしまう。それぞれの人が、自分に会わせて西行について語っている。ただ、吉本が、西行の歌を分析する前に、「僧形論」「武門論」を書いているのはすごいと思った。

 大河ドラマで『光る君へ』が放映され、源氏物語というより、平安貴族の生き方のようなものがそれなりに面白く描かれていて、事実とは違っていても面白かった。紫式部も清少納言もまるで現代の女性のように描かれているが、それがかえって興味深かった。『光る君へ』の最後のシーンは、これから勃興する武家の時代を象徴していたように思う。そして、貴族の時代から武家の時代に変わるところで、西行が生まれる。歌人としての先輩には藤原俊成がおり、後輩には藤原定家がいる。しかし、西行は、私たちが知っているのは彼がつくった和歌を通してだけであるが、かれは俊成や定家のような歌壇には属さなかった。しかし、彼の存在は当時の歌人なら誰もよくしっていたようだ。

 西行は、平清盛と同じ年に武家の子として生まれているが、23歳の時に出家して、それ以来死ぬまで僧として生きながら、歌を読み続けた。
 西行の歌として次の2首は有名だ。

 願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃
 仏には桜のはなをたてまつれ 我が後の世を人とぶらはば


 この歌は、『山家集』の春の部に収められているもので、彼が死ぬ十年以上も前によまれたものであるが、彼は、ほぼその歌の願いの通り、文治六年(1190)2月16日(太陽暦で3月30日)になくなっている。

 この歌を読むと、私は大学の後輩が同じ会社に入り、若くしてマンションの屋上から飛び降り自殺をしたことを思い出す。確か30前だったと思う。友人によれば、彼は、西行のこの歌のように生きたいと常に語っていたという。自殺の理由は、わからないとのことだった。そんなことを思い出しながら、今、西行に向き合っている。西行は、自殺ではなく、病で73歳でなくなった。私はといえば、もうすぐ77歳になる。これから残りの人生をどう生きるか、問われているのかもしれない。西行については、また、改めて書いてみようと思う。
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●2025年はどんな時代になるのだろうか?

2025-01-06 08:02:03 | 日記
 ウクライナとロシアの戦争は、依然として続いている。しかし、アメリカの大統領選挙では「もしトラ」と言われていたが、結果をみると、圧倒的にトランプが勝利して、新大統領に当選した。そうかと思っていたら、シリアのアサド政権があっという間に崩壊し、まだまだ混乱が続いているが、難民の一部が自国に戻り始めている。その間、イスラエルは、世界の反対を押し切って、ある意味ではいちばん我が物顔で勝手気ままに振る舞っているようにも思える。

 そんなとき、年末に読んだ齋藤ジン著『世界秩序が変わるとき』とエマニュエル・トッド著『西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか 』の2冊は、衝撃的だった。二人は、おそらく立場はまったく違うし、前者は投資コンサルタントだし、後者は人類学者である。しかし、二人は、世界のこれからの方向については、ほぼ同じ方向に向かっているという分析では一致しているように思われる。

 世界は、いわゆる、新自由主義の時代が終わり、ゲームチェンジが起きているのだ。言葉は違うのだが、新しい「帝国主義」の時代に入っていると言うべきかもしれない。そのために、新しい国家秩序が求められていると言っている。そして、それは、かなり困難な問題でもある。いろいろなところで、紛争が起きていて、それは、そう簡単に終わりそうもない。ウクライナの戦争に北朝鮮が参加したが、それは不気味な存在と化している。その上、何を血迷ったか、尹大統領がとんでもない失策までしている。

 齋藤ジンは「中国の衰退と、そして日本復活」と言っているが、それはどこまで当たっているかはよく分からないが、自民党の崩壊は、ある意味ではその第1歩かもしれない。石破茂首相は、厳しい政府運営を迫られているが、それゆえにこそ、たぶん、現在のところ極めて民主的な政権運営をしているように思われる。一見頼りなさそうに見えるが、これはこれでいいのだと思える。いまほど、マスコミが政治について自由奔放に発言していることはない。

 私は、新聞を取るのをやめてしまったので、情報は、もっぱらネットであり、解説はユーチューブ動画である。できるだけ偏らないように配慮しているが、なかなか難しい。でも、右も左も何を言っているのかは、知っておくべきだろうと思う。ある意味では、朝日新聞の記事と産経新聞の記事を読み比べるような作業をしておくべきだと思う。それは、ウクライナの戦争について、イギリスの情報記事と、アメリカの情報記事と、ロシアの情報記事を検討しておくことでもある。そんなことができるのかと言われるとすこしこまるが、英語もロシア語もほとんど理解できないので、ロシアからの情報は、もっぱら佐藤優の「東京大地塾」での講演を参考にしているが。

 それにしても、世界は、今の世界は、単なるイデオロギーでは動いていないことだけはたしかだ。単純に共産主義とか資本主義では分析できない状況になっている。「地政学」という言葉が流行っているが、それは、たぶん、現在の政治的、経済的な状況が上手く分析できないことの表れだと思われる。日本は、とても長閑な雰囲気のようにみえるが、本当はとても大変な時代なのだと思う。いずれにしても、何が起きるのか分からない状況になってきたので、情報の取り扱いには、できるだけ慎重になりたいと思っている。それが、たぶん、今年の課題なのだと思われる。
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