国立科学博物館長の篠田謙一が『人類の起源』(中公新書/2022.2.25)で次のように述べていた。
まさしく、2024年4月に放映された「NHKスペシャル 古代史ミステリー」は、この篠田謙一の指摘をある意味では実証してくれた。私は、そのときの番組を見たが、その番組の取材を踏まえてNHK取材班著『新・古代史──グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』(NHK出版新書/2025.1.10)でより詳しい内容が展開されている。
鳥取市青谷町にある青谷上寺地遺跡(あおやかみじち)は、弥生時代前期の終わり頃から古墳時代前期に当たる、約2400年前から約1700年前まで栄えたとされている集落の遺跡である。この遺跡には、とてもたくさんの弥生時代の人骨が見つかっており、それは、墳墓からではなく、集落を囲む溝から見つかったものである。そこには、痛めつけられて殺された痕跡が残っている。これらの人骨を古代ゲノム研究の手法で調査した結果驚くべきことがわかった。
一つは、古代の集落は、人の往来が少ないので、同族の人などの血縁関係がある人が多くなると予想されたが、ほとんどの個体は、母系の血縁が認められなかったことである。つまり、「青谷上寺地遺跡は外部との人的交流が少ない集落ではなく、様々な地域から絶えず人が流入を繰り返す、都市型の拠点であった可能性が高い」と考えられている。
そして、もう一つは、篠田謙一が言っていたことである。
どうやら弥生人とは、主として、農耕をもたらした渡来人系の人たちが縄文人に置き換わって成立したもののようだ。そして、農耕だけでなく、鉄器なども武器や農具としてもたらし、やがて、古墳のよう大土木事業もできる人たちがやってきた。彼らは国づくりや戦闘さえも弥生人の中にもたらしたとも言える。それが、邪馬台国卑弥呼の時代であるらしい。当時は、朝鮮半島とは、いまよりももっと交流が活発であったと思われるのだ。卑弥呼の話は、主として「魏志倭人伝」によるところが大きいが、魏の国とは、あの「三国志」に出てくる、「魏・蜀・呉」の中の「魏」の国である。
そして、五世紀になると、朝鮮半島にも前方後円墳ができるようになった。最初に前方後円墳ができたのは、三世紀の後半の近畿地方であり、つまり、卑弥呼がなくなるころである。朝鮮半島にも前方後円墳があるということは、直接ヤマト政権に所属していたということもあるかも知れないが、それほど、日本と朝鮮半島殿間には、交流があったということである。そうれも当然で、当時の中国、朝鮮は、常に紛争が起きていて、大量の移民が日本にもやってきていたようだし、渡来人の先輩がすでに弥生人になっていたのだ。
残念なことに、『新・古代史』では、卑弥呼の邪馬台国がどこにあったのか、また、墓はどこにあったのかは、いろいろな説をのせているが(全体として近畿説に近いようだが)、断定はされていない。最大の謎は、『日本書紀』や『古事記』に「邪馬台国」も「卑弥呼」も登場していないということだと思う。『日本書紀』によれば、神武天皇が即位したのは、紀元前660年とされているが、その後、彼の子孫が代々天皇になったことになっている。しかし、卑弥呼がいた時代から始まる古墳時代におそらくヤマト政権の基礎ができて、連合国家のようになっていたのだと思われる。そして、古墳時代が終わるころには、中央集権的な大和政権が確立していたようだ。
ところで、日本人が馬に出会ったのは、高句麗との戦いによるという説がある。「広開土王碑」にある倭国との戦いでは、高句麗の騎馬軍団が活躍し、それを見た倭人は驚いたに違いない。そして、日本にも馬がやってきた。
多分、大和王権は、鉄と馬を支配することによって、できあがった王権だったにちがいない。そう考えると戦後すぐに発表された、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」も必ずしも成り立ち得る説だと思われる。
私も、「騎馬民族征服王朝説」が正しいと思っているわけではないが、「邪馬台国」や「卑弥呼」が消された『日本書紀』や『古事記』の歴史の背後に、中国、朝鮮半島との交流の結果、縄文人が弥生人に置き換わっていく過程が隠されていることだけは確かだと思う。その意味では、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」は参考にすべき説だと改めて思った。
<世界史でも日本史でも、私たちが学校で習うのは、文化や政治形態の変遷です。他方で、ヒトの遺伝子がどのように変わって行ったのにかについては考えることはありませんでした。
ヨーロッパ、特に北方地域では青銅器時代以降に、集団の交代に近い変化がありました。日本でも縄文時代から、彌生・古墳時代ににかけて、大規模な遺伝的変化が起こっています。しかし、文化の編年を見るときには、そのことはあまり意識されることはなく、何となく集団としては連続しているように考えてきました。
たとえば、「弥生時代になって古代のクニが誕生した」という言い方をします。このような表現をすると、日本列島に居住していた人びとが、弥生時代になった自発的にクニをつくり始めたと考えがちです。けれども、これまでのゲノム研究の結果からは、おそらくその時代に大陸からクニという体制を持った集団が渡来してきたと考えるほうが正確だということがわかっています。古代ゲノム解析は、これまで顧みられることがあまりなかった、文化や政治体制の変遷と集団の遺伝的な移り変わりについて、新たに考える材料を提供してくれているのです。>(同上/P264・265)
ヨーロッパ、特に北方地域では青銅器時代以降に、集団の交代に近い変化がありました。日本でも縄文時代から、彌生・古墳時代ににかけて、大規模な遺伝的変化が起こっています。しかし、文化の編年を見るときには、そのことはあまり意識されることはなく、何となく集団としては連続しているように考えてきました。
たとえば、「弥生時代になって古代のクニが誕生した」という言い方をします。このような表現をすると、日本列島に居住していた人びとが、弥生時代になった自発的にクニをつくり始めたと考えがちです。けれども、これまでのゲノム研究の結果からは、おそらくその時代に大陸からクニという体制を持った集団が渡来してきたと考えるほうが正確だということがわかっています。古代ゲノム解析は、これまで顧みられることがあまりなかった、文化や政治体制の変遷と集団の遺伝的な移り変わりについて、新たに考える材料を提供してくれているのです。>(同上/P264・265)
まさしく、2024年4月に放映された「NHKスペシャル 古代史ミステリー」は、この篠田謙一の指摘をある意味では実証してくれた。私は、そのときの番組を見たが、その番組の取材を踏まえてNHK取材班著『新・古代史──グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』(NHK出版新書/2025.1.10)でより詳しい内容が展開されている。
鳥取市青谷町にある青谷上寺地遺跡(あおやかみじち)は、弥生時代前期の終わり頃から古墳時代前期に当たる、約2400年前から約1700年前まで栄えたとされている集落の遺跡である。この遺跡には、とてもたくさんの弥生時代の人骨が見つかっており、それは、墳墓からではなく、集落を囲む溝から見つかったものである。そこには、痛めつけられて殺された痕跡が残っている。これらの人骨を古代ゲノム研究の手法で調査した結果驚くべきことがわかった。
一つは、古代の集落は、人の往来が少ないので、同族の人などの血縁関係がある人が多くなると予想されたが、ほとんどの個体は、母系の血縁が認められなかったことである。つまり、「青谷上寺地遺跡は外部との人的交流が少ない集落ではなく、様々な地域から絶えず人が流入を繰り返す、都市型の拠点であった可能性が高い」と考えられている。
そして、もう一つは、篠田謙一が言っていたことである。
<驚くべきことに、分析を行った三二個体のうち三一個体が渡来人系で、縄文人系は全体の3パーセントにあたる一個体しかなかった。つまり、青谷上寺地遺跡の弥生人骨は、縄文人と渡来人が徐々に混じり合って弥生人が誕生したという、これまで盛んに唱えられてきた定説とは異なる結果を示したのだ。>(『新・古代史』p95)
<鳥取県内の遺跡では、弥生時代中期までは、土壙墓群や木棺墓群といった死者を単体埋葬した墓域が確認されており、そこに有力者たちも埋葬されていた。ところが、身分の差がよりはっきりしてくる卑弥呼の時代・弥生時代後期になると事情が異なってくる。支配者層の墳丘墓など巨大な墓が相次いで見つかる一方、被支配者の埋葬地は確認しづらくなるのだ。
棺に入れられることもなく、うちすてられた大量の奴隷の亡骸……。それが青谷上寺地遺跡の出土人骨の正体なのではないかと(青谷上寺地遺跡の発掘調査を担当する鳥取県文化財局の)濱田さんは推測する。もしそうであるならば、各地から連れて来られた奴隷たちは、栄養状態が悪く結核などの病に苦しんだり、争いに巻き込まれたりして亡くなったことになる。決して平穏とは言えない当時の社会状況を、人骨はありありと伝えているのだ。>(同上・p97)
棺に入れられることもなく、うちすてられた大量の奴隷の亡骸……。それが青谷上寺地遺跡の出土人骨の正体なのではないかと(青谷上寺地遺跡の発掘調査を担当する鳥取県文化財局の)濱田さんは推測する。もしそうであるならば、各地から連れて来られた奴隷たちは、栄養状態が悪く結核などの病に苦しんだり、争いに巻き込まれたりして亡くなったことになる。決して平穏とは言えない当時の社会状況を、人骨はありありと伝えているのだ。>(同上・p97)
どうやら弥生人とは、主として、農耕をもたらした渡来人系の人たちが縄文人に置き換わって成立したもののようだ。そして、農耕だけでなく、鉄器なども武器や農具としてもたらし、やがて、古墳のよう大土木事業もできる人たちがやってきた。彼らは国づくりや戦闘さえも弥生人の中にもたらしたとも言える。それが、邪馬台国卑弥呼の時代であるらしい。当時は、朝鮮半島とは、いまよりももっと交流が活発であったと思われるのだ。卑弥呼の話は、主として「魏志倭人伝」によるところが大きいが、魏の国とは、あの「三国志」に出てくる、「魏・蜀・呉」の中の「魏」の国である。
そして、五世紀になると、朝鮮半島にも前方後円墳ができるようになった。最初に前方後円墳ができたのは、三世紀の後半の近畿地方であり、つまり、卑弥呼がなくなるころである。朝鮮半島にも前方後円墳があるということは、直接ヤマト政権に所属していたということもあるかも知れないが、それほど、日本と朝鮮半島殿間には、交流があったということである。そうれも当然で、当時の中国、朝鮮は、常に紛争が起きていて、大量の移民が日本にもやってきていたようだし、渡来人の先輩がすでに弥生人になっていたのだ。
残念なことに、『新・古代史』では、卑弥呼の邪馬台国がどこにあったのか、また、墓はどこにあったのかは、いろいろな説をのせているが(全体として近畿説に近いようだが)、断定はされていない。最大の謎は、『日本書紀』や『古事記』に「邪馬台国」も「卑弥呼」も登場していないということだと思う。『日本書紀』によれば、神武天皇が即位したのは、紀元前660年とされているが、その後、彼の子孫が代々天皇になったことになっている。しかし、卑弥呼がいた時代から始まる古墳時代におそらくヤマト政権の基礎ができて、連合国家のようになっていたのだと思われる。そして、古墳時代が終わるころには、中央集権的な大和政権が確立していたようだ。
ところで、日本人が馬に出会ったのは、高句麗との戦いによるという説がある。「広開土王碑」にある倭国との戦いでは、高句麗の騎馬軍団が活躍し、それを見た倭人は驚いたに違いない。そして、日本にも馬がやってきた。
<最新の化学分析によって導き出された内容を整理しておこう。朝鮮半島から渡ってきた馬は、五世紀のうちに東日本へと拡散。馬の成育に適した火山灰草原を有する広大な牧で、盛んに出産・飼育が行われた後、ある程度まで成長を遂げた個体は機内に移動した。そこでは個体ごとに管理が行われ、厩舎で大切に世話をされていた。古墳時代、日本列島にまたがる馬の生産体制が築かれようとしていたのである。>(『新・古代史』p249)
多分、大和王権は、鉄と馬を支配することによって、できあがった王権だったにちがいない。そう考えると戦後すぐに発表された、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」も必ずしも成り立ち得る説だと思われる。
<騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓(任那)を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたとする学説。単に騎馬民族説(きばみんぞくせつ)ともいう。
東洋史学者の江上波夫が、(1) 古墳文化の変容、(2) 『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承の内容、および、(3) 4世紀から5世紀にかけての東アジア史の大勢、この3つを総合的に解釈し、さらに (4) 騎馬民族と農耕民族の一般的性格を考慮に加えて唱えた、日本国家の起源に関する仮説である。
この説は戦後の日本古代史学界に大きな波紋を呼んだ。一般の人々や一部のマスメディアなどでは支持を集めたが、学界からは多くの疑問が出され、その反応は概して批判的であった。ことに考古学の立場からは厳しい批判と反論がよせられた。21世紀にあっては、この説を支持する専門家はごく少数にとどまっている。
なお、この説の批判者である白石太一郎や穴沢咊光は、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると主張している>(「Wikipedia」より)
東洋史学者の江上波夫が、(1) 古墳文化の変容、(2) 『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承の内容、および、(3) 4世紀から5世紀にかけての東アジア史の大勢、この3つを総合的に解釈し、さらに (4) 騎馬民族と農耕民族の一般的性格を考慮に加えて唱えた、日本国家の起源に関する仮説である。
この説は戦後の日本古代史学界に大きな波紋を呼んだ。一般の人々や一部のマスメディアなどでは支持を集めたが、学界からは多くの疑問が出され、その反応は概して批判的であった。ことに考古学の立場からは厳しい批判と反論がよせられた。21世紀にあっては、この説を支持する専門家はごく少数にとどまっている。
なお、この説の批判者である白石太一郎や穴沢咊光は、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると主張している>(「Wikipedia」より)
私も、「騎馬民族征服王朝説」が正しいと思っているわけではないが、「邪馬台国」や「卑弥呼」が消された『日本書紀』や『古事記』の歴史の背後に、中国、朝鮮半島との交流の結果、縄文人が弥生人に置き換わっていく過程が隠されていることだけは確かだと思う。その意味では、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」は参考にすべき説だと改めて思った。