中谷巌さんが書いた『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル刊/2008.12.20)がベストセラーになっている。昨日の朝日新聞では、「中谷巌氏『転向』の波紋」として、中谷さんへの賛否両論が取り上げられていた。確かに、小淵内閣の経済戦略会議議長代理として構造改革の旗振り役だったということを考えると、「アメリカ主導のグローバル資本主義、新自由主義的政策は貧困や格差拡大を生み社会の絆を破壊したから、日本の伝統や文化をふまえ、北欧などもモデルに方向転換せよ」(朝日新聞3/14朝刊)という発言は、少し無責任な気がした。たとえ、今までの自分の理論が間違っていたと懺悔したとしても、この主張が正しいといういう保証になるわけではないことは確かだ。
中谷さんの経済学は、基本的には支配者の論である。というより、経済学という学問自体がそもそも、そういうものとして成立してきたのだ。マルクスはだから、サブタイトルに「経済学批判」という言葉をつけていた。私の感想では、中谷さんは、経済政策の自己批判をしているだけであって、経済学批判をしているようには思えなかった。「グローバル資本主義」というのは、経済の動向なのか、それとも経済学の主張なのか。「新自由主義政策」というのは、いわゆる「市場に全てを任せればよい」という経済理論だ。つまり、その方が資本主義社会は健全に発展していくという主張である。
ところで、経済格差や環境破壊、はたまた階級社会の出現は、グローバル資本主義の結果なのであろうか。中谷さんは、そうだという。アメリカ流の一神教の考え方がそうさせたのだという。おそらく、中谷さんは、資本主義には、罪はないのであって、新自由主義的な政策に罪があるのだといっているように思える。本当にそうだろうか。私には、資本主義が持っている矛盾であるように思える。私は、だから社会主義がいいとは思わない。私たちには、ソ連や中国の失敗を見てきた。けれども、中谷さんのように、構造改革の失敗が現在のグローバル資本主義をもたらしたのだとは思わない。
そもそも、現在の事態を「資本主義の自壊」ととらえることが変だ。アメリカのいくつかの大企業が倒産したり、経営危機に陥り、それを政府が救出するために強大な財政支出をしたりしていることは、「恐慌」的な事態ではあっても、「資本主義の自壊」ではない。ある意味では、資本主義社会の市場の論理が今自らの論理を貫徹している結果なのだ。問題は、こうした事態は、ある意味では罪のない人まで巻き込んでいってしまうということなのだ。企業は、資本家だけのものではない。つまり、資本は、常に労働者を雇うことなしには、資本たり得ないからだ。貨幣は、それだけでは利潤を生み出すことはできない。もしそうだとすれば、それは幻想だったということだ。また、幻想もときには、利害を与えることもあり得るということでもある。
日本は世界の中でもひときわユニークな文化伝統を持った社会である。
たとえば、閉鎖的な島国の中で暮らしてきたことで生まれた「損して得取れ」という信頼第一の思想、あるいは階級感覚が薄い社会であるがゆえに培われてきた「現場力の重視」の思想など、日本人には他国にない思想、発想がある。このような文化伝統は一朝一夕に、他国が真似することはできるものではない。こうした文化伝統を再発見していくことが、実は国際競争力につながってくるのではないだろうか。
そういう意味では、日本は無尽蔵ともいえる未来への可能性をもっている国なのである。
その一例をあげるならば、日本人が縄文時代から有してきた自然に対する尊敬の念、自然との共生の思想があるだろう。もっと大きく言うならば、日本ならではの自然哲学、自然観がそれである。(『資本主義はなぜ自壊したのか』p345より)
こうした発想から、「貿易立国」から「環境立国」という考えがすぐに出てくる。しかし、ことはそんなに簡単ではないと思われる。なぜなら、「環境立国」というように言うけれども、その実態は「世界でもトップレベルの省エネルギー技術、あるいは太陽電池など代替エネルギー技術を持っている」からそれを輸出することになるからだ。基本的な経済的な構造は少しも変わっていない。自動車やエレクトロニクスから新しい技術に変わっただけだ。それが、そんなに簡単なことだとは思わないし、問題はそこにあったのでないと思う。
なぜ、私たちは、年功序列や談合がだめで、公正な市場競争のほうがいいと考えたのだろうか。まじめに稼ぎの少ないやつは、野垂れ死んでも仕方がないと思うようになったのだろうか。自己責任という言葉がこれほど大手を振って通るようになったのはなぜだろうか。挙げ句の果ては、金を納めなければ高齢者になってもちゃんとした治療をうけることができなくなってしまったのは、なぜなのだろうか。確かなことは、こうしたことは、新自由主義政策の結果ではない。むしろそうした考えが生まれてきたからこそ、新自由主義政策が進められてきたのだ。
中谷さんが、人間に優しい経済をという気持ちは、わからないでもない。しかし、これは「懺悔の書」ではない。私には、経済状況に即対応した普通の提言としか読み取れなかった。あくまでも、現在の為政者や経営者に向けての政策提言であり、その内容は人間に優しそうに見える。しかし、「グローバル資本主義というモンスター」については、本質的なことはほとんど語られていないのではないか。要するに、中谷さんが語っているのは、経済合理性だけで進めてはいけないよということしか言っていないように思われる。経済合理性だけで進めると、経済格差や環境破壊がおきるよと言っているだけのように思われるのだ。
私たちは、戦後の貧しい時代から高度経済成長を経て、豊かな社会になったと騒いでいたのは、ついこの前だった。一億総中流社会といって世界第2位の経済大国になったと自慢もしていた。それが、非正規雇用者が1000万人を超えて、今や自国内に賃金の安い労働者を抱えて、賃金の安いアジア諸国とコスト競争をするほどまでになってしまった。どこかで、何かが、狂ってしまったような気がする。それがなんだったのか。それこそが、「グローバル資本主義というモンスター」であったのかもしれない。今のところ、モンスターは少しも自滅などしていないように思われる。ただ、コントロールできると思い込んだ者たちを自滅させたことだけは確かだと思われる。
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