電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『ゆる言語学ラジオ』の三上章エールに共感

2024-05-26 12:22:32 | 日記・エッセイ・コラム
 2021年1月にスタートした人気ポットキャスト『ゆる言語学ラジオ』を初めて知ったのは、今井むつみと秋田喜美との共著である『言語の本質』を読み、その後YouTube動画を検索したら、そこに今井むつみが登場していたのを視聴したことがきっかけだ。この動画サイトは、その名の通り、ゆるく楽しく言語の話が楽しめる番組である。

  その後、この番組の評判にあやかって、『ゆるコンピュータ科学ラジオ』というのも始まっている。『ゆる言語学ラジオ』のほうは、ホスト・聞き役を務めるのは堀元見で、そして言語学の知識を駆使して見事に解説するのが水野太貴であるのに対して、『ゆるコンピュータ科学ラジオ』の方は主客逆転して、水野太貴がホスト・聴き役で、コンピュータ科学についての知識を駆使して解説しているのが堀元見である。(本人たちが、完全に栁の下の2匹目のドジョウを探して始めたと言っているところが面白い)

 水野太貴(みずのだいき)は1995年生まれ。愛知県出身。名古屋大学文学部卒で、言語学を専攻し、卒業後 出版社で編集者として勤務するかたわら、『ゆる言語学ラジオ』で話し手を務めている。また堀元見(ほりもと・けん)は1992年生まれ。北海道出身。慶應義塾大学理工学部卒で、専攻は情報工学で、言語学素人の堀元見と言語オタクの水野太貴が「言語」にまつわる話をするところが面白い。(ちなみに、『ゆるコンピュータ科学ラジオ』では、勿論立場が逆になっている)。

 私は、堀元見については、ほとんど知らなかったが、著書に『教養(インテリ)悪口本』(光文社)、『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』(徳間書店)、水野太貴との共著に『言語オタクが友だちに700日間語り続けて引きずり込んだ言語沼』(バリューブックス・パブリッシング)などがあることを知って、彼のボケ風な会話の背後にある知的教養について納得した。

 勿論最近の話題も面白いのだが、初回から視聴していて、10回目と11回目で語られた三上章の「『像は鼻が長い』の謎」と「主語を抹殺せよ」についての回はとても興味深かった。水野が三上章の文法論について知ったのは、金谷武洋著『日本語には主語はいらない』(講談社選書メチエ/2002.1.10)を読んだからだそうだ。日本の文法学界からはほとんど無視された三上章ではあったが、日本語教育に関わる金谷武洋から熱いエールを送られていて、水野もそれに賛同していた。(三上の説は、「は」は、主語を表すわけではなく、副助詞で主題を提示する言葉だと言っている)

 私も、金谷武洋著『日本語には主語はいらない』が出た時これを読んで、三上章の本も再読した。その後、月本洋著『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ/2008.4.10)や『日本語は論理的である』(同シリーズ/2009.7.10)を読んで、とても納得したことを覚えている。日本の学校教育の中では、いまでも橋本進吉のいわゆる橋本文法が主流だが、これを変えるためには日本の教科書そのものを大改革しなければならず、難しいのも事実である。勿論、多少は変わってきているが、古典文法では、ほとんど橋本文法が中心であるといってもよい。確かに、その方が説明しやすいというところはある。

 金谷武洋は言語学者だが、月本洋は工学博士で人工知能の研究者であり、三上章も東京大学工学部建築学科の卒業で、数学教師であった。それらが言語学界から無視された要因になっているのかもしれない。そういう意味でも、『ゆる言語学ラジオ』での三上章エールは嬉しかった。いずれにしても現在では、365回まで(1回につき30分からものによっては1時間以上の番組もある)続いているが、私は暇ができると過去の番組を聞いている。
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腰部脊柱管狭窄症の手術をした

2024-05-11 14:04:25 | 日記
 2024年3月22日、埼玉県日高市にあるM病院に入院した。その1週間前ほどから、腰部の痺れが増加し、体を伸ばすと痛くなって戻せなくなったり、ペットとの散歩の時に、屈むと立ち上がれなくなったりしていた。
 
 2019年の11月にMを訪れ、MRIで確認して腰部脊柱管狭窄症と診断され、その後、薬を飲んでいたが、リハビリを一時提案されたのが、2021年5月だった。この病院に通いははじめて5年、リハビリを受けて3年が過ぎている。
 
 そして、その痛みが最高になり、ついに、21日に通っていたM病院に電話して相談して、22日に入院することになった。そして、入院したとき、K先生に「手術をお願いします」とはっきりとお願いした。あまりの痛みに、逡巡している暇がなかった。手術をするのだから、病院を調べ直した方がいいのではないかとも思ったが、K先生の人柄に感銘して、M病院に任せた。
 
 外科手術は、頭でやるのものではない。それは、一種の料理人の腕のような経験と技術によってできるものだ。もちろん、いい設備の病院であることには越したことはないが。私は、所謂ネットでの病院探しはしなかった。この病院は、リハビリ施設も充実していて術後も、とても安心だと思った。つまり、私は、K先生にかけたのだ。
 
 体は、痛いながらも、背中を伸ばさなければ(年よりが背中を丸めるように)、多少普通のことはできそうだ。K先生と話としてから受け付けで入院の手続きをする。部屋は個室。1泊5、500円。まあ仕方がない。私は、iPad Airtスマートキーボード付き)と普通のiPad、スマホ(Gyarlcy)と、Kindlr PaperWhitteを持参した。入院する時、ひょっとすると5月の中旬ごろの手術になるかもしれないと言われ、準備。しかも、この病院は個室にいるとWiFiが自由に使えた。
 
 入院した時は、5月かもしれないということだったが、その後先生が頑張って調整し、結局4月11日が手術日になる。私は、色々な病院(心臓や眼科など)に通っていて、色々な薬を飲んでいる。ここでは他の病院のことは書かないが、一つだけ狭心症の手術をしていて、血液をサラサラにする薬を飲んでいる。そのため、手術日が決まったら、その前1週間から飲むのを中止し、手術後様子を見てまた飲むようになる。要するに血が出る手術の時は、血液サラサラにする薬はやめないといけないということだ。ある意味では、脳梗塞などの循環器軽の病気になりやすくなるということだ。その意味でも、病院に入院していることは、いいことだと思った。
 
 手術までの間は、だいたい、午前1回、午後1回のリハビリ(筋肉を低下させない運動がメインに)をするだけ。痛みは、我慢できる程度。屈んでいれば大抵のことはできる。風呂は入れずシャワーが、週に2回程度。パンツと靴下以外は、病院で支給。入院中は、動画を見たり、日記を書いたり、ラジオを聴いたり、調べ物をしたりして過ごした。看護師さんは毎日変わりすぐ離れていってしまうので名前を覚えられないが、リハビリの担当者は全て名前を覚えた。残念ながら、顔はマスクをしていたので、完全とはいえないが、背丈やカッコで大体わかる。リハビリはBチームだった。どうやら、3年前に、リハビリを少しやってもらったチームのようだ。
 
 手術は、11日。前日にはしっかりシャワーを浴び、体をきれいにして、夕食だけを食べる。当日は、6時から、水も飲めなくなる。その後、点滴が始まる。水分補給のためだそうだ。9時半に手術用の格好にになる。素っ裸になり、前から着る手術服。手術は、うつ伏せになり背中から切ることになる。妻も当日の朝は、来てくれた。手術室に入り、全身麻酔の点滴が始まり、私の記憶はそこで切れた。
 
 11日の夕方気がつく。時間は覚えていないが5時過ぎ。夕食があるとかないとか話していたが、多分なかった。上向いで寝ているが、傷口が痛いのと腰が痛いので、半分うめきながら寝ていた。しかし、痛かったら看護師を呼んでと言われたが、その日は我慢した。知らないうちにペニスに管が入り、オムツをしていた。
 
 12日になり、食事が出るようになる。それとともに、リハビリも始まった。おむつをして、オシッコは管を入れてそこから出るようになっていたが、すぐにオムツだけになり、トイレに行く時は、看護師さんを呼び出し、車椅子で、トイレに行く。まだ自由に歩けないのだ。もちろん、その他は自分1人で処理。基本的には、点滴もあり、ほとんとベッドだが、それなりにリハアビがある。手術後、便秘になり、看護師さんから浣腸しましょうかと言われる程だったが、便秘対策用の薬を出してもらい、4日かの便秘が治った。
 
 その後、時々のK先生の傷のチェックがあり、その時が一番安心できた。少しずつ、よくなって行くようだ。そして、普通の点滴は終わり、しばらく朝夕の1時間程度の炎症を防ぐ点滴。また、時々熱が出たので、コロナとインフルエンザの検査もあった。こちらは無事、陰性。この間、おむつしているがオムツの中で漏らしたことはない。
 
 19日に久しぶりにシャワーを浴びることができた。ただ、背中の傷があり、簡易ベッドに寝たまま、頭も体も洗ってもらうことになる。介護士さんは子持ちのようで、とても親しみのある人で、昔女子校の教師だった頃の話をして、生徒の要望でちあきなおみの「喝采」を歌ったことを話したら、どんな歌か知らないということで、「いつものように云々」と少しだけ歌ってしまった。しかし、とても気持ち良いおシャワーだった。この時から、オムツを外し、普通の下着になる。
 
 また、その日、妻見舞いに来て、ゴールデンウィークが明けるまで退院しないでくれと言われた。実は、この病院は、義母が何度か入院してしていて、最後もここで看取られたところだ。もちろん、コロナの時だったので、質素な葬式になったが、一応、火葬場まで行けるようになっていた。そのときに色々お世話になったのが、理事長のK先生だが、妻は私が入院していることを少し話したらしい。
 
 その後、日々の生活は、読書、Netflixでドラマ、YouTube動画。手術後。13日より、iPadで日記を書くようになっていた。とりあえず、リハビリの時が一番長い付き合いになる(1回40分)。それで、名前を全て覚えてしまった。これは、ある種のボケ防止。住んでいるところなど、療法士相互の間でも知らない個人情報まで仕入れてしまった。他の療法士のひとが、知らなかったということまで、仕入れていた。
 
 担当の古波蔵先生から、私の手術の方法を聞いた。「腰椎椎弓形成術」という手術らしい。AIによれば、次のような手術だそうだ。
 
<腰部脊柱管狭窄症徐圧式追及形成術(または腰椎椎弓形成術)は、主に黄色靭帯骨化症や骨棘形成などによる脊柱管狭窄症に対する手術です。この手術では、腰椎部分の椎弓の一部を切除して脊柱管を広げ、神経の圧迫を解除します。

具体的な手術の流れは以下の通りです:
皮膚切開: 腰~背中の部分に皮膚切開を行い、腰椎の後面を露出させます。
棘突起の切除: 背骨の飛び出している部分(背中を触ると触れる部分)を切除します。

椎弓の一部切除: 椎弓の一部を切除して脊柱管を広げ、圧迫を解除します。
その他の処置: 黄色靭帯が脊髄を圧迫している場合や椎間板ヘルニアが脊髄を圧迫している場合は、それぞれ切除して圧迫を解除することもあります。

術後経過: 患者さんの状態によって異なりますが、広範囲椎弓切除術の場合は、術後数日の安静が必要となります。部分椎弓切除術の場合は術後2~5日目からの歩行が目安となります。最低でも1ヶ月間はコルセットを装着します。

この手術は、腰部脊柱管狭窄症や腰椎椎間板ヘルニアなどに適応され、治療効果の高い手術の一つです。ただし、手術には合併症のリスクもあるため、慎重に検討されるべきです。>


 色々な対応の手術だと知った。先生の話では、同じ時期に三人のほぼ同じ手術をしたそうだ。その中では、短い方だったのこと。そして、血液をサラサラにする薬を飲んでいる人は多いそうだ。K先生は、この手術のベテランであるようだ。安心した。
 
 退院は、5月7日に予定になった。他の病院に行かなければならないが、薬を1ヶ月分くらい余分にもらうことになった。その間に予約をtって行くようにすることになる。退院後すぐに行っても大丈夫だと言う。
 
 退院までの生活は、だいたい、7時半ごろに朝食を食べ、その後、看護師かんから今日の予定の連絡があり、それに合わせて、2回のリハビリがあり、その合間に、自分で廊下を散歩、2回。1回に3往復歩く。
 
 以上、無事、5月7日に退院した。そして、5月12日から、コルセットなしの生活になった。しばらくは、注意しながら生活しようと思った。
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鳥山明の急性硬膜下血腫による急死について

2024-03-12 17:01:36 | 日記
 鳥山明の仕事については、私には書けない。あまりに、偉大過ぎる。彼は私より、10歳ほど若い。そして、私はいい読者ではなかったが、時々読んだり、確認していたりしてきた。特に、編集者時代は、子ども向けの本や教材をつくっていたので、子どもたちが読んでいた漫画には関心は持っていた。いまでも、『キングダム』だけは、全巻買い続けている。

 今回のブログでは、鳥山明に死をもたらした、急性硬膜下血腫についてのいろいろな記事を読んでいて、これは自分のことだなと思ったことがあり、書いている。それは、「鳥山明氏の命奪った『急性硬膜下血腫』…血液サラサラ薬服用者は、ちょっとしたケガでも発症リスクが」(日刊ゲンダイDIGITAL2024/03/12より)を読んだからだ。その中で、東京都健康長寿医療センターの元副院長で、「東都クリニック」循環器内科の桑島巌氏が次のように述べていた。

<脳は、硬膜という膜で覆われていて、その外側を包んでいるのが頭蓋骨です。事故やスポーツなどによる強い外傷で脳が傷つくと、脳の表面から出血が起こることがあります。出血がひどく、急速にたまった血の塊で脳を圧迫する病気が、急性硬膜下血腫です。すぐに失神したり、半身麻痺になったりして、片目の瞳孔が開くなど重症が多くなります。すぐに手術で血腫を取り除かないと、脳のダメージが残り、命が危ないのです>(桑島巌氏の言葉)

 まず、強い衝撃をうけた場合にどのように急性硬膜下血腫が起きるかを述べているが、私が注目したのは、その後に述べていることである。それは、急性硬膜下血腫は、強い衝撃でなくても発症するということである。「その方が怖い」という。そして、その怖さのベースにあるのが、「いわゆる血液をサラサラにする薬で、血液を固まりにくくする薬」だというのだ。そして、その薬を私は飲んでいる。

<不整脈のひとつ心房細動や心筋梗塞、脳梗塞、狭心症などがある方は、抗凝固薬や抗血小板薬といった血液を固まりにくくする薬が処方されます。そういう方は、糖尿病や高血圧などの生活習慣病や加齢の影響が強く、動脈硬化が進んでいて、血管が切れやすいのです。それで、万が一、血管が切れると、薬の影響で出血が止まらず、血腫ができる。それが脳で生じると、硬膜下血腫になります。で、こういうタイプは、血管が切れやすいので、強い衝撃でなくても硬膜下血腫を起こしやすいのです。──中略

たとえば、開いている扉に気づかず頭をぶつけたり、座って居眠りしているときにうつらうつらして壁にドンと頭を打ったりするケースです。血管がモロくなっていると、生活の中でのちょっとした衝突や転倒でも脳の血管が切れて、急性硬膜下血腫を起こすリスクがゼロではありません。そういう場合、衝突直後の患部の痛みはあっても、意識障害はないことがほとんどで、1週間くらいして“ふらふらする”“何となく気分が悪い”などの症状が現れます。血腫による症状が現れたら、事故直後の発症と同様にすぐに治療しないと危ない。迷わず救急車を呼んでください>(桑島巌氏の言葉)


 とても怖くなった。その上、現在、腰部脊椎管狭窄症が悪化して、手術直前の状態で、痛さにたまらず、やっと手術の要望を主治医に伝えようと決心したところである。時々、夜中に頭痛もする。下半身の痛みで、歩行が少し困難になっていて、時々ふらつく。とても危険なん状況であると思う。そして、これこそが、鳥山明が私に送ってくれたのメッセージなのかもしれないと思った。
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今、何が起きているのか

2024-02-20 16:03:22 | 政治・経済・社会
 日本の空き家は現在1000万戸にぼると言われている。そして、あの東京都世田谷区には、なんと5万戸の空き家があるという。(NHKスペシャル取材班『老いる日本の住まい』(マガジンハウス/2024.1.25)すごい数だと思う。核家続の子どもたちが巣立ち独立していったあと、残された夫婦がやがてなくなり、その後の処分が上手くいかずに放置されているというのが大部分だそうだ。私は、この話を聞いて、痛みのようなものを感じた。

 その痛みを感じるのは、多分そこのなくなった夫婦のすこし後輩にあたるのが私たち団塊の世代だからだ。現在では考えられないが、私たちの少し前の世代とそして私たちも、普通のサラリーマンをやっていれば、東京にだって家を持てた時代があったのだ。勿論、私の世代では、もう少し郊外になったけれども、確実に、持ち家を得ることができたのだ。多分、高度経済成長時代を経て持家が増大していった結果が、現在の空き家の問題をつくっているのだ。

<実際、1957年から73年にかけて、日本は年平均10%以上の経済成長を達成しています。せいぜい1%程度、時にはマイナス成長で停滞している現在からは、とても信じられない数字で、高度経済成長期の日本は、失業率も1%台でした(オイルショック時は3%mバブル経済時は2%、2022年時の失業率は3.27%)。しかも男性であれば毎年給料も上がるし、ボーナスは数ヶ月分も出る。それであれば、男性ひとりの収入でも、家電製品はもちろん、マイカーも勤め人を続けていれば手に入れられるはずです。

 大切なのは、当時、経済成長の恩恵を手に入れられるのは、社会の上層部だけではなかったという点です。高学歴・高所得者だけでなく、低学歴・低所得者層であっても、むろん給料やボーナスとしてもらう額面や待遇には差があったとしても、それなりに昇給・昇進が約束されていた時代でした。要するに、真面目に働いてさえいれば、ほとんど皆が、「今日よりは明日、明日よりは明後日の方が、生活はよくなる」実感を得られたのです。>(山田昌弘著『パラサイト難婚社会』(朝日新書/2024.02.28)より)


 私たちは、全てではないが、1960年の安保闘争や、その10年後に大学で吹き荒れた学園紛争になんらかのかたちで関わり、その後、この高度経済成長のなかで、そのことをすっかり忘れてしまい、最後は、マイホームの中で老後を迎えていたのである。そして、気がついたら、いつの間にか、経済成長はストップし、一億総中流世界は終息し、格差社会になっていた。30年近くも、給料はほとんど上がらないばかりか、非正規雇用労働者が増加して、若者たちは結婚さえままならない事態になっている。

<持家政策は、アメリカの家族制度と住まい方をモデルに策定されました。GHQが日本政府に持家政策の導入を進言したことには、さまざまな意図が込められていました。家族としては最小単位である核家族がそれぞれの住まいを持つようになれば、そこで生活する家族は、自分たちの生活を守るために、自然に保守的な思想をもつようになると考えられたのです。つまり持家制度は終戦後に頭をもたげてきた共同体的な思想、すなわちもう一方の戦勝国であるソヴィエト連邦や中華人民共和国などお社会主義や共産主義陣営の思想に対する対抗策として導入されたといわれています。>(難波和彦著『住まいをよむ』(NHK出版/2024.1.1)より)


 1979年にソヴィエト連邦は崩壊し、中華人民共和国も1979年に改革開放を始め、資本主義社会への転換を果たした。フランシス・フクヤマ著『歴史の終わり』が書かれてのは、こうした時期だった。私たちも、多分、共産主義や社会主義ではない、新しい資本主義の時代が始まるのだ思った。しかし、それは、間違いだった。フクヤマは、現在では、『アメリカの終わり』を書いているし、いろいろなところで、戦争が始まり、紛争が起きている。環境問題など地球と危機だと叫ばれているのに、帝国主義的な対立が、世界に起きている。いつの間にか、世界は、変わってしまっていたのだ。
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定住と農業革命について(続)

2024-02-11 16:28:54 | 政治・経済・社会
 先週のブログで、ハラリの『サピンエス全史』では、農業を始めて定住化が進んだというふうに読めると書いた。ところが、狩猟採集民が建設したギョベクリ・テペの遺跡について、面白いことを述べている。

<ギョペグリ・テペの構造物を建設するには、異なる生活集団や部族が何千もの狩猟採集民が長期にわたって協力する以外になかった。そのような事業を維持できるのは、複雑な宗教的あるいはイデオロギー的体制しかなかった。
 ギョペグリ・テペは、他にもあっと驚くような秘密を抱えていた。遺伝学者たちは長年にわたって、栽培化された小麦の起源をたどっていた。最近の発見からは、栽培化された小麦の少なくとも一種、ヒトツブコムギがカラカダ丘陵に由来することが窺える。この丘陵は、ギョペグリ・テペから約三〇キロメートルのところにある。
 これは、ただの偶然のはずがない。ギョペグリ・テペの文化的中心地は、人類による最初の小麦の栽培化や小麦による人類の家畜化に、何らかの形で結びついている可能性が高い。この記念碑的建造物群を建設し、使用した人びとを養うためには、膨大な量の食べ物が必要だった。野生の小麦の採集から集約的な小麦栽培へと狩猟採集民が切り替えたのは、通常の食料供給を増やすためではなく、むしろ神殿の建設と運営を支えるためだったことは十分考えられる。従来の見方では、開拓者たちがまず村落を築き、それが繁栄したときに中央に神殿を建てたということになっていた。だが、ギョペグリ・テペの遺跡は、まず神殿が建設され、その後、村落がそこ周りに形成されたことをしさしている。>(『サピンエス全史』より)

 私は、「従来の見方」のほうが正しいとしてなぜいけないのか分からない。そこに村落ができ、その後、小麦が栽培化されたのだと考えてなぜいけないのか。むしろ、小麦栽培を素晴らしいというのは罠だといっているくらいだから、わなにかかったしまったのは、「複雑な宗教的あるいはイデオロギー的体制しかなかった」からこそ、小麦の栽培に特化した人びとの集まりができたのだと思う。小麦栽培をしている人たちが、神殿づくりもしたのである。あるいは、税のように作った小麦を神殿づくりに携わる人に渡したのかもしれない。

 ハラリがいうように、狩猟採集民の生活のほうが、小麦に家畜化された生活よりはるかにいい。だから、彼らが進んでそうしたとは思えない。ハラリは、罠にかかったのだというが、そうではない。それは、産業革命が起こり、機械が普及することにより、より便利になったように思われるが、それは、わなであると言っているようなものである。この点は、柄谷行人が『世界史の構造』で述べている次の言葉の通りである。

<たとえば、「新石器革命」あるいは「農業革命」という言葉は、「産業革命」からの類推に基づいている。しかし、もし産業資本主義や現代国家が産業革命によって生まれたというならば、誰でも、それが逆立ちした見方だということに気づくだろう。紡績機械や蒸気機関といった発明は確かに画期的であるが、それらの採用は世界市場の中で競合する重商主義国家と資本制生産(マニュファクチャー)の下にのみ生じたのである。>(『世界史の構造』より)

 だから、そんなことなどしたくなかった「農業革命」をある意味では罠にかかったように進んで人々がしたのはなぜかということが問われなければならない。それは、定住化することによって生まれた氏族社会や部族社会から次第に首長制国家や、アジア的専制国家ができたからだというべきだ。そして、農耕だけでなく、狩猟採集生活も同時にやっていた人々が、国家によって、農耕民として固定化されたからだ。

 定住と農業の関係は、私は、ハラリより、西田正規著『人類史のなかの定住革命』の説の方を支持したい。定住することによって、植物の栽培化、動物の家畜化が生じたと考えたほうがわかりうやすいと思う。そして、なぜ、いやな農業や牧畜に従事するようになったかは別の理由があったと考えるべきだ。それこそ、社会がそれを必要としたというべきだ。また、定住化したのは、気候変動によると考えるしかない。つまり、歴史の偶然である。ハラリがいうように、遊動する狩猟採集民は、定住を欲したわけではない。

<中緯度の森林環境に定住民が出現する背景には、亜寒帯的ステップや疎林に。おける狩猟に重点をおいた旧石器時代の生活から、晩氷期以降の温暖化による温帯森林の中緯度地帯への拡大に対応して、魚類や、デンプン質の木の実や種子に依存を深め、漁網やヤナなどの携帯できない大型漁具や、食料の大量貯蔵が発達したことがあった。初期の定住生活者の出現は地域によって多少の違いはあるものの、日本列島においても、ヨーロッパ、西アジア、北米の中西部とカリフォルニアにおいても、更新世末期から完新世にかけて温暖化の時期に現れる。>(『人類史のなかの定住革命』による)

<中緯度森林地帯における、遊動民から定住民、そして、定住民から農耕民にいたる歴史的過程のどちらがより重要な意味を含んでいるのか。これらのことから私は、採集か農耕かということより遊動か定住かということの方が、より重大な意味を含んだ人類史的過程と考え、生産様式を重視する「新石器時代革命」(=食料生産革命)論に対して生活様式を重視する「定住革命」の観点を提唱した。>(同上)

<農耕が人類史においてはたした意味は、定住生活を生み出したことにではなく、中緯度森林の段階に見られないさらに高い人口密度や、より大きな集落や都市、より複雑な社会経済組織などの形成過程においてこそ評価される。すなわち、それ以前の素朴な社会にとどまっているなら、たとえ栽培型植物の栽培が行われたとしても、中緯度森林の定住民の範囲内にあるものとして理解しておくべきである。>(同上)

 小麦や稲、トウモロコシ、ジャガイモなどの主食になる植物の栽培は、それぞれの地域で、独自に発生し、発展し、世界経済が普及するにつれて、世界中に広まった。つまり、定住していれば、必然的に栽培植物は、見つけられ発展していくのであり、それらが定住生活を促したわけではなかったとみるべきである。狩猟採集民としての生活は、サピエンスの数万年の歴史を持っており、定住化が始まったのは、1万年とすこし前であり、日本で言えば縄文時代である。弥生時代になってから農耕民が存在し始めたのであり、それから数千年しかたっていない。定住化してから、稲作が普及するまでのほうがはるかに長いのだということを忘れるべきではない。

 決して、米や小麦によって人類が奴隷的な地位に陥ったわけではない。それは、定住生活のなかで氏族社会が発生し、やがて都市や国家が生まれてきたことと関係しているのだ。小麦や稲作は、最初の一歩が踏み出されれば、すぐに拡散して行くことができる。定住者の交流があればなおさらである。山上憶良の貧窮問答歌に登場するような農民が存在したのは、彼が属していた大和政権ができたからであり、彼らは、米作りだけに押し込められてしまったからだ。
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