電脳くおりあ

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●大河ドラマで話題になっている『源氏物語』について

2024-06-02 13:38:51 | 文芸・TV・映画
 しばらく前に、平清盛が主人公の大河ドラマがあったが、久しぶりに平安時代の全盛期(貴族社会)が舞台になった、歴史ドラマが大河ドラマに登場した。事前のNHKの宣伝によって、紫式部を中心とした「源氏物語プロジェクト」の物語と告げられていたので、紫式部が1人ですべてをつくりあげたわけではなないのだなと想像しながら、私も楽しみながら見ている。

 事前に、今度の大がドラマに時代考証をしている倉本一宏の『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)を読んでいたので、事実とかなり違っているなと思いながらも、ドラマ性には感動している自分がいて驚いている。清少納言と紫式部がこんな交渉をもっていたとは思われないが、つい引き込まれてしまう。平安時代の歴史や文学についての理解という点から言えば、明らかに逸脱だが、文芸書のジャンルでよくある時代小説(歴史小説とは違う)として鑑賞する分には、自由なのかもしれない。つまり、歴史ドラマではなく、時代ドラマをつくっているのだと思えばいいのかもしれない。(私の古典理解や歴史理解からするとかなり混乱してくる部分はあるのだが)

 そんなことを考えていたら、NHKの日曜カルチャーで毱矢まりえが『「源氏物語」英訳本を再和訳してわかったこと』について4回に分けて話していた。毱矢まりえは、妹の森山恵と一緒にアーサー・ウェイリーが英訳した『源氏物語』を再和訳して、2017年から2019年かけて出版している。私は、残念がら、アーサー・ウェイリーの英訳本も毬矢まりえ・森山恵の再和訳本も読んでいないのだが、毱矢まりえの話が面白く時間ができたら、是非読んで見たいと思った。毱矢まりえによれば、アーサー・ウェイリーは、かなり正確に『源氏物語』を英訳しているが、英語圏の人たちにも分かりやすく、いろいろな工夫がされているという。

 例えば、「横笛」は「flute」と言っているし、「蹴鞠」は「football」と訳しているそうだ。また、ものすごく使われている「あわれ」という言葉も、時には「poor」だとか「sympathy」という言葉を使い、状況に応じて使い分けているそうだ。確かに、そうすることによって、私たちが読む『源氏物語』では、同じ「あわれ」と表現されているものが、多様な感情とし表現されているそうだ。それは、もちろん、日本の読者には、多少違和感のある世界になっていると思われるが、外国語の世界ではより理解しやすくなっているのだ。私たちも、現代語訳本を読むときは、アーサー・ウェイリーの英訳本のようになっていることがあると思われる。つまり、訳者の数だけ多様な『源氏物語』ができているわけだ。

 同じ『源氏物語』にしても、多分、読者に応じて違って顔を見せるし、そのことを通して、私たちは、『源氏物語』の世界の広がり、特に世界文学における『源氏物語』に位置づけのようなものが理解できるかもしれない。現在では、アーサー・ウェイリー訳以外にも、いくつか英訳本がつくられているそうだが、いまから1000年以上前につくられて『源氏物語』が、ある意味で甦っているのかもしれない。私は、古典は、原文で読めればそれに越したことはないが、現代語訳で十分だと思っている。現代語訳でもいいから(場合によっては、コミックでもよいから)、私たちの財産でもある平安時代古典に親しんでほしい。

 ついでに言っておけば、清少納言の『枕草子』も大事な古典であり、紫式部と並んで平安時代(藤原摂関政治)を代表する文学だと思っている。もちろん、『源氏物語』も『枕草子』も平安時代では、人の手によって書き写されて読まれたものであり、現在のベストセラーにように読まれたわけではなく、『更科日記』作者の菅原の孝標の娘がそうだったように、いわばマニア向けに書き写され、場合によっては、嫁入り道具の一種として、貴族の女性の間で読み継がれたこともあったようだ。そうした人々がいなければ、普及しなかったはずである。いわば、作者と読者の共同作業として、残されてきたものだということもできると思った。

 ところで、『光る君へ』では、中宮定子を守ることができず落胆する清少納言(ききょう)を励まして、紫式部(まひろ)が、中宮のために何かを書いてはどうかとアドバイスする場面が出てきて仰天した。あり得ないことではあるが、ドラマでとても様になっていて、「春はあけぼの──」の部分を中宮定子が読む場面では、中宮と清少納言の関係の深さを見事に描いていると感動してしまったのも事実だ。


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