電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

2023年の三つの衝撃

2023-12-31 12:13:51 | 政治・経済・社会
 2023年に私に起こった精神的な三大事件は、ChatGPTの登場、エマニュエル・トッド著『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(上下巻)の読了、そして柄谷行人が前年末に「バーグルエン哲学・文化賞」を受賞し、その後すぐに『力と交換様式』が出版されたことだ。

 ChatGPTについては、意識がないのに言葉を話せるという事実に驚いた。生成AIが身近になり、誰でも使えるようになったことも衝撃的だった。その後、今井むつみと秋田喜美の共著で『言語の本質』という本が出た。AIでは記号の身体接地問題が解決できないと指摘されていたが、むしろ接地していないにもかかわらず、会話ができるということに驚いた。『言語の本質』は良い本で、改めて言語と意識について考えるのが面白くなってくる。勿論、それだけでなく、AIをめぐっては、世界の競争と戦いも起こる可能性さえあると思われる。AIは、人間の味方になるのか、それとも敵となるのか、いろいろ考えさせられた1年だった。

 トッドについては、彼の家族類型論で現在の世界の構造が説明できるところがすごい。直系家族型である日本、ドイツ、韓国、ノルウェーなどが現代社会における似た特性を持っている。『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(下巻)では、わざわざ第16章に「直系家族型社会──ドイツと日本」という1章を設けて、ドイツと日本を比較している。それによれば、現在、日本とドイツは人口減少に対する対策で苦慮している。ドイツは移民の活用を検討しているが、日本は内向きの姿勢を取り、高度経済成長から一転して脱成長に直面しているという。確かに、ドイツと日本の今後がどうなるのか、またどうあるべきかを考える必要があると思った。

 最後に、柄谷行人は、宗教の力と本質について教えてくれた。世界的に認められ、英語で読まれ評価される日本人の思想家がいるということに、私は誇りを感じている。マルクスの再評価が盛んに議論されている中、柄谷行人はマルクスをどのように超えるかについて一貫して考えてきた。受賞の報を聞いて、読んでいなかった、『世界史の構造』、『帝国の構造』を直ぐに読んだ。そして、その他の本も、読み返してみた。彼の思考は私に考える基準を教えてくれたように思う。。トッドの家族論と共通する点もあり、フランスと日本の思想家の最先端の考え方が興味深い。

 実は、年末になった、またブログを始めようと思ったのは、これら3つのテーマについていろいろ考えていて、その気持ちが強くなったからだ。つまり、インプットだけでなく、個人的なアウトプッもやってみるべきだと思うようになった。ウクライナ問題、パレスチナ・イスラエル問題、さらにグローバルサウスの内戦や飢餓問題など、エマニュエル・トッドによれば、「第三次世界対戦はもう始まっている」という状況になっている。目に見える戦争だけでなく、目には見えないところで、いくつかの陣営ができ、目に見えない戦争が始まっていると思われる。
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紙の年賀状を終了すると書いた2024年の年賀状

2023-12-25 17:07:14 | 日記
 年賀状については、今年を最後にするつもりだ。そのために、その旨、2024年の年賀状に書いた。私も時代の流れに合わせて、紙の年賀状は、もう終わにしてもいいと思ったからだ。勿論、日本人の人間関係から難しい問題もありそうだが、その点は、割り切ることにした。

 折しも、郵便料金の改訂のニュースが流れてきた。かなりの値上げになっている。しかし、これだけ値上げしても、直ぐに、赤字に成ってしまうそうだ。つまり、システムとして、手紙やハガキの配達というのは、非常に非効率的な仕事なのだということだと思う。ある意味では、インターネットとスマホの普及のせいでもあるが、物流の経費がいちばんの理由だろう。人件費の高騰、あるいは、人不足だ。固定電話が使われなくなり、電話ボックスもほとんどなくなってしまった。多分、駅には、どこかにまだ残っているものあるようだが。それと同じように、紙の通信はこれから、変わっていくものと思われる。

 ダンバー数という概念がある。ダンバー数は、イギリスの社会人類学者であるロビン・ダンバーが、1992年に発表した論文「The Social Brain Hypothesis」の中で提唱した概念である。ダンバーは、平均的な人間の脳の大きさを計算し、霊長類の結果から推定することによって、人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度であると提案した。そして、ダンバー数は、新石器時代の村落におけるコミュニティの人数や、軍隊における中隊の人数、効率よく仕事ができる組織の人数、などが150人程度であることから、人間の脳の構造と関係があるとされている。私の年賀状は、多いときは250枚だったが、今では100枚余になっている。まあ、私の人間関係もダンバー数に合っていることになる。

 人によっては、年賀状がなくなるというのは寂しいことだと思うかもしれないが、スマホ時代の私たちは、多分、スマホを通じて同じような数の人間関係をつくっていると思われる。最も、SNSのフォロー数を増やそうとしている人は、果てしない野望を持っているうようだが、このブログは私の覚書のようなものなので、ダンバー数ぐらいでとしよう。実際、しばらく(とても長いが)、投稿していなかったにもかかわらず、1週間のアクセス数はそのぐらいはあった。これからは、残り少ない人生を有意義に過ごしていきたい。まず、ブログから。
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2016年の初めに

2016-01-05 20:52:05 | 日記
 今年から、このブログを再開することにした。ここ2年ほど、facebookと別のHPづくりに関わり、ブログの記事を書く時間が取れなかったことと、勤め先が変わったこともあって、放置していた。

 最近、WordPressを少し勉強して、日記風のブログ(「Natsuの囲碁日記」を立ち上げたので、身辺雑記風の記事は、そちらで書くことにして、こちらは、少しまとまった記事をアップしていきたい。

 それにしても、最近のWebの技術の進歩には驚かされる。特に、スマホやタブレットへの対応は素晴らしい。おそらく、こうしたブログも多分、スマホやタブレットで読む人のほうが多いと思われる。WordPressでつくったブログは、スマホやタブレットやPCに対応して見やすい画面になる。

 また、このブログは、原則、画像は添付しない。文章だけで、書いてみたい。
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宮崎駿と『風立ちぬ』

2013-09-07 22:19:30 | 文芸・TV・映画

 久しぶりに、かみさんと2人で、ユナイデットシネマ入間で映画を観た。『風立ちぬ』である。何故か知らないが、私は涙を流していたらしい。かみさんが、ちゃんと鼻をかみなさいと言った。かみさんは、どちらかというと、少ししらけていたらしい。彼女には、主人公の二郎の声優の庵野秀明の声が気に入らなかったらしい。だから、きっと、彼女は二郎にうまく感情移入ができなかったのだと思う。まあ、しかし、それ以外は、多分それなりに堪能したのだと思う。音楽や、風景や、話の展開は、繊細で、暗い時代背景にもかかわらず、穏やかで優しい時間が流れているようだった。

 私は、映画を観るまでは、ネット上のいろいろな感想や、新聞の批評を見ないことにしていたし、実際、見たかもしれないがあまり記憶に残っていない。ただ、知り合いの編集者が、『風立ちぬ』は、宮崎駿の最高の名作だという感想を述べていたのを聞いただけだ。かみさんの話では、テレビで、いろいろとPRがあったり、製作過程のエピソードの紹介があったりしたそうだ。私は、ほとんど知らなかった。零式戦闘機を造った堀越二郎の人生とと堀辰雄の『風立ちぬ』をモデルに、宮崎駿としては始めて青年を主人公にしたアニメを作ったということだけは知っていた。つまり、この映画は、日本の歴史の影をどこかで引きずった映画なのだということだけは意識していたように思う。

 さて、私の第1印象は、なんだか、とても懐かしい気持ちで一杯になったということである。敵を殺戮したり、街を焼き尽くしたりする戦闘機を作らざる得なかった二郎と、結核でやがて死んでいくのを知りながら、けなげに二郎に尽くす妻菜穂子の寂しい生き様にも関わらず、なんだかさわやかな風が吹き抜けて行くような気分にさせられた。それは多分、クラシックな街と山里の絵のせいかもしれない。しかし、そこには、いろいろなものが描かれないままあるような気がした。おそらく、描いてしまったらみんなウソになってしまいそうないろいろなものがあるような気がした。

 汽車に乗っているとき風に飛ばされた帽子を拾ってくれた子供とその連れたちを大きな地震の中で助けてあげる。そして、その子供たちにに白馬の騎士と思われ、青年になって、飛行機作りに失敗し、失意の中で、軽井沢のホテルに滞在していたとき、偶然に同宿していて、偶然に出会って、恋に落ちる。あまりにできすぎたストーリーではある。もし、里見菜穂子が病気でなかったら、そして、主人公の堀越二郎が飛行機作りに失敗していなかったら、ふたりの再会はなく、この映画は、多分、作られなかった。2人とも、不幸を背負っていたが故に、愛しあい、支え合おうとした。そして、「青春」とは、死と隣り合わせになった喪失に充ち満ちているものなのだ。ある意味では、いろいろな可能性が消えていくことによって、人は青年から旅立つのだ。そして、人生とは生きるに値するものなのかと青年は考える。その意味では、宮崎駿は「青春」を描き切っていると思う。

 ところで、映画を観てから、いろいろな批評を読んだ。「内田樹の研究室」の『風立ちぬ』は、宮崎駿の製作意図を論じて、プルーストの『失われた時を求めて』と同じ主題にたどり着いていた。多分、内田は、「青春」を通り越して、映像に込められた「時間」そのものに向かっている。大正から昭和にかけての東京、軽井沢、富士見のサナトリウム、信州追分などの風景を丁寧に描いている宮崎駿は、そこに、もはやこの日本のどこにも存在しなくなった原風景を描こうとしていることは、確かだ。宮崎駿の最も初期の作品の『風の中のナウシカ』では、岩や砂漠のごつごつした風景が中心だったが、『風立ちぬ』は日本の美しい自然を描いている。内田樹は、その風景の中に、もはや失ってしまった、日本人のもっと穏やかでゆったりと流れる「時間」を見ている。まさしく、宮崎駿の手作りの絵や音響効果は、そうし「時間」を表現するにはぴったりかもしれない。

 しかし、もう少し堀辰雄に寄り添って語るとすれば、二郎と美穂子のできすぎた物語が、映像となった風景をまるで歌枕のように加工しているのだという気がする。堀辰雄の美しい村や風立ちぬの舞台となった、軽井沢や八つが岳山麓や信濃追分は、実は、堀辰雄によって作られた歌枕のようなものなのだ。私たちは、多分、もう、堀辰雄の描いた軽井沢を抜きに軽井沢見ることができなくなっている。同じように、宮崎駿が描いた『風立ちぬ』の風景を抜きにしては、軽井沢が見えなくなって行くのかもしれない。今や、それらは、単なる都市の影を引きずった避暑地でしかない。だから、本当は、自分で自分の風景を見つけるしかないのだ。松尾芭蕉が『奥の細道』でしたように。

 宮崎駿は、現実的な素材を集めて、最後に、虚構の世界を作って見せた。堀辰雄の『風立ちぬ』は、日本の私小説とはまったく異なって、現実のモデルを使ったフィクションとして描かれている。ある意味では、堀辰雄のフィクションに現実が、重なってしまったのだ。宮崎駿の『風立ちぬ』もまさに、現実を借りたフィクションである。モデルとしての現実は、とても猥雑なものであり、不幸な歴史の呪いのようなものまで身にまとっているかのように見える。宮崎駿は、多分、そうした、猥雑なものを一つ一つそぎ落とし、自分のフィクションに必要な部分だけを選び、この物語を作った筈だ。堀越二郎が作り、そして、残骸となってしまった飛行機ではなく、あの白い紙飛行機が最も本物らしく空を飛んでいた。私には、その飛行機は、『風の谷のナウシカ』のナウシカが乗っていた飛行機と似ていると思った。何の武器も持たず、ただ空を飛ぶだけの機能しかない、白い飛行体。それは、一つの抽象だとおもった。

 「紙屋研究所」というブログの管理人・所長の紙屋高雪という人が、「映画『風立ちぬ』を批判する」という記事を書いている。彼も、夫婦で映画を見たらしい。特に主人公に対する反応が、私のかみさんとほとんど同じなのにはびっくりした。声優である庵野秀明の訥訥とした語り口が、彼女には耳障りなのだったそうだ。それは、さておき、彼は、『風立ちぬ』を観て、次のように評価している。

1.恋愛要素は男目線で気持ちがノッた。
2.飛行機にかける夢についてはロジックがまったく詰め切れられておらず、面白くなかった。
3.零戦をつくった責任について無邪気すぎるという点が最大の批判点。

 これは、『赤旗』が「風立ちぬを」絶賛しているのが許せないところから、来ているらしい。『赤旗』の8月15日の「主張」では、次のように書かれている。

 いま公開中の宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」は、戦争の悲惨さ、無意味さを静かに語りかけてくれます。映画のラストシーン近くでの、破壊され打ち捨てられた大量の軍用機と、それさえ埋め尽くす美しい緑の野原は、戦争の無残さと平和の大切さを伝えているのではないでしょうか。

 確かに、『赤旗』の記事を読むと、宮崎駿の『風立ちぬ』は、戦争の悲惨さ、無意味さを静かに語りかけてくれる映画だと書いてある。また、宮崎駿は共産党にシンパシーを持っているのだが、この記事を書いた人は、本当に映画を見たのかと言いたくなる。もし、普通の人がこの映画からそうしたものを読み取ろうとしたら、多分失望するだろうと思う。そして、紙屋高雪も、そのように見たのだと思う。しかも、彼は『赤旗』の記者とはまったく反対の評価を下している。

 うちのつれあいは、このような「戦争の道具をつくった人間の描き方」というポイントでの批判をまったくおこなわなかった。彼女はぼくのようにあらかじめ堀越の著作や堀越に関するルポをなにも読まずに、いわば先入観なしに観たからである。
 先入観なしに観た人が、その点に疑念を引き起こしていないなら、いいではないか――という主張もできそうだ。
 しかし、だからこそこのような手法で歴史上の実在の人物を描いたことの危険を指摘したい。
 映画のなかでは、堀越の同僚である本庄が「俺たちは武器商人ではない。いい飛行機を作りたいだけだ」というシーンや、堀越の憧れであるカプローニ伯爵が夢の中で「飛行機は戦争の道具でも商売の手立てでもない。それ自体が美しい夢なのだ」というシーンがある。
 技術は社会と切り離されて、「夢」ということで、その追求が無邪気に美化されているのだ。

 これは多分、映画を観て感じたと言うより、次のような宮崎駿の発言に対する批判である。

 アニメは子供のためのものと思ってやってきた。武器を造った人物の映画を作っていいのかと葛藤があった。でも生きていると、何をしても無害のままでいることはできない。武器を造ったから犯罪者だと烙印(らくいん)を押すのもおかしい。
 戦争はだめだなんてことは初めから分かっていた。それでも日本人は戦争の道を選んだのだから、二郎に責任を背負わせても仕方ない。車は人をひくし、人を助けもする。そういうものが技術で、技術者は基本的にニュートラルなものだ。(宮崎駿監督が語る「風立ちぬ」 震災・恐慌・戦争、それでも人は生きてきた──)

 紙屋高雪は、宮崎駿の技術に対する楽天性を批判したかったのだ。同じようなことは、東大教授・藤原帰一(毎日新聞「日曜くらぶ」2013年7月21日付)が述べているし、作家・古川薫の「風立ちぬ」評もそうらしい。

 「車は人をひくし、人を助けもする。そういうものが技術で、技術者は基本的にニュートラルなものだ」という宮崎の発言は、確かに間違っている。技術は、歴史の中では、ニュートラルなものではない。それは生まれてきたときも、成長していく過程でも、常に歴史に翻弄されるものである。けれども、ニュートラルではないが、しかし、それは、一つの自然である。つまり、科学や技術は、歴史から離れて存在はしないが、歴史を越えて行く何かでもある。原発やインターネットを私たちは、持っている。これらは、全て、そもそも兵器の開発と戦争体制の整備のために発明された技術からうまれたものだ。しかも、科学や技術の産物は、歴史的存在以外の何物でもないが、生み出された産物がとても危険なものだとしても、それらに罪があるわけではない。また、それを作り出した人間に罪があるのかどうかも、又、不明である。もし、それらに罪があるように見えるとしたら、それは全て人間の幻想である。それに罪があるかどうかは、私たちの判断次第である。

 私は、戦争に反対だが、兵器の開発に携わったから人間として失格だったと言って断罪する気などない。況んや、「サナトリウムで療養できる結核患者が戦前の日本にどれほどいたのか」(藤原前掲)と言って、二郎や菜穂子のブルジョア的な存在性を批判しても仕方がない。そういう人には、今、映画など見ている時間と金があったら、もっと世界平和に役立つことを考えた方がいいのではないかと言うしかない。宮崎駿が私淑したという堀田善衛が愛した藤原定家の言葉で言えば、「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎我ガ事ニ非ズ」(明月記治承4年記定家19歳)と言えないところにいる宮崎の不幸なのかもしれない。彼は、映画の企画書や、いろいろなところで、戦争反対や原発反対の発言をくり返している。しかし、彼の語った思想は、彼の映画ではない。

 要するに、虚構をくぐって現実を描くことにより、現実は現実そのものよりも一層リアルになり、真実に近くなるはずだが、ここでは現実は中途半端にへし折られ、美しい虚構にすり替えられてしまっているのだ。

と紙屋高雪は言うが、宮崎駿は、いつも、『風の谷のナウシカ』時から、現実の断片をつなぎ合わせて、虚構を創り出しているだけに過ぎない。そして、人々は、その虚構としての映画を現実に引き寄せて解釈しているだけだ。『風の谷のナウシカ』を評価した人たちのうち、何人かは、環境破壊を批判した素晴らしい作品と言っていたが、本当にそうだろうか。宮崎駿は一つの神話を描いただけだ。それらは、子どもたちの心の中に夢のような形となって残っていくのだ。あるいは、愛の形の原型だと言うことかもしれない。それが、彼らの生き方にどんな形で働くかなど、だれにも分からない。多分、本人にも分からない。

 紫式部が書いた『源氏物語』は、貴族社会の物語であり、当時の日本を支えていた大部分の人たちの生活とは、ほとんどまったく違っていた。しかし、そこでの愛の形や、生活の仕方は、やがて、その後の人々の理想となった。特に、藤原定家の場合はそうだった。定家は、貴族の生活の本質を少しも理解していなかったから、『源氏物語』を理想としたわけではない。定家の『明月記』を読めば、いかに彼が現実の中であがいていたか分かるはずだ。彼ほど、「紅旗征戎」に翻弄されていた貴族は、珍しい。多分、宮崎駿の青春は、二郎の青春ほど美しくはない筈だ。堀辰雄だって『風立ちぬ』のなかで、『風立ちぬ』を書きながら悩んでいる。

 私は、これらの『風立ちぬ』のいわば戦争責任を取り上げた批評に、少しうんざりさせられたが、「 押井守が語る『風立ちぬ』感想。宮崎駿の矛盾!?」については、度肝を抜かれた。私もこの映画に感動したが、ひょっとしたら、これは「老人の睦言」かもしれない。私は、宮崎駿ほどの年ではないが、もう老人に近い。

 ド近眼で、ヘヴィスモーカーで、仕事から離れられない堀越二郎青年はもちろん、宮崎駿その人です。婚約者の自宅の庭から忍び込んだり、駆け落ち同然で上司の家へ逃げ込んで結婚したりの大活躍です。
 斯くありたかったであろう青春の日々を臆面もなく描いていて、見ているこちらが赤面しそうです。だから「青年」はキケンなのです。いつもの「少年」というカムフラージュも「豚の仮面」もないのですから。
もはや開き直ったとしか、考えられません。
誤解のないように言っておきますが、これは大変に結構なことです。

 ひょっとしたら、この映画は、少年・少女向けではないかもしれない。二郎のたばこを吸う時の仕草や、風に揺れるたばこの煙、たばこが切れて、灰皿から拾い出したたばこに火を付ける二郎の同僚の本庄の様子など、実に見事に描かれている。『紅の豚』でも主人公の豚にされてしまったマルコは、実に様になったなたばこの吸い方をする。これを素晴らしいアニメの映像とみるか、環境にやさしくない映像とみるか、などと考えるのは、勿論、大人である。

 この記事を書いていたら、宮崎駿の引退声明がニュースで流されていた。新聞記事によれば、宮崎駿は、自分の作品づくりについて「メッセージを込めようと思っては作れない。自分の意識ではつかまえられないものを描いている。つかまえられるようなものはろくなものではない」と語っていた。この映画を作るために、彼は7年を費やしてきた。この7年間は、それらの映像を描きながら、自問自答していて7年間でもある。私たちは、宮崎駿が、最後の長編作品の主人公に、堀越二郎のような青年を描いたことをもっと深く考えてみるべきかもしれない。丁度、宮崎駿が尊敬する堀田善衛が、戦時中に『明月記』を読んで愕然とし、戦争が終わって半世紀ほとしてから、『定家明月記私抄』を書いている。疎開の体験もある宮崎駿が、最後の長編に堀越二郎を選んだことには、意味があるのだと思う。

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グローバル経済ということ

2013-01-04 22:53:14 | 政治・経済・社会

 年末の選挙で、小選挙区制のメリットを生かして、自民党が得票数以上に圧勝した。この選挙では、今までの民主党政権のだらしなさに対する不満のようなものが追い風となり、反民主党の受け皿として自民党が選ばれたと思われる。その風向きを安倍自民党は、経済成長戦略と頼れる国づくりというように総括し、「経済、教育、外交、安心」を取り戻すという言い方で、「日本を取り戻す」というスローガンを掲げていた。前回の安部自民党に比べて、今回の安部自民党は、円高・デフレ脱却による経済成長とナショナリズム的な政治と教育により力点が置かれているように思われる。それで本当に、経済が成長し、「世界に貢献し、信頼される国」になれるのだろうか。

 民主党が迷走し、自ら墓穴を掘って、政権から転落していったのは、政権担当能力がなかったったからだと言われてしまえばその通りだが、民主党政権が目指していたのは、安部自民党と同じように、円高・デフレ脱却による経済成長と日本という国の威信を高めることだった。野田総理が、玉砕的に三党合意を図ったのは、彼らが共通の方向を向いていたからだ。それゆえに、私は、民主党政権が崩壊したのは能力の問題だけではなく、現状認識に問題があったからだいうことも考えておいたほうがよいと思う。おそらく、円高・デフレ脱却による経済成長戦略もナショナリズムも、グローバル化した世界と国民国家との間に起きた矛盾から生まれた国民国家的な幻想だと思われる。だから、新しい政権も、このままでは、同じ過ちをくり返すことになるに違いないと思う。

 ヒト・モノ・カネは、国境を越えて、世界中を駆け巡っている。同志社大学教授の浜矩子の言葉を借りれば、グローバル化したヒト・モノ・カネは、クニを翻弄しながら、新たなワクを創り出そうとしていると言うべきかもしれない。浜矩子は、グローバル時代の特徴を次の6項目で示している。

①グローバル時代はグローバル・スタンダードの時代にあらず
②グローバル化は均一化にあらず、多様化なり
③グローバル化は巨大化にあらず、極小化なり
④グローバル時代は国民国家の危機の時なり
⑤地球の時代は地域の時代にほかならず
⑥グローバル時代は奪い合いの時代にあらず、分かち合いの時代なり
(浜矩子著『新・国富論 グローバル経済の教科書』(文春新書/2012.12.20)p50~51より)

 森山たつをが、「月給1万円のカンボジア人が『日本語入力』 日本人に残された仕事はあるのか?」という記事を書いている。森山たつをは、「海外就職研究家」と呼ばれているが、日本の普通の人の生活が苦しくなるのに比例して、アジアの途上国の暮らしが豊かになっていく状況を次のように述べている。

 今回、カンボジアで衝撃的な光景を見ました。10年前に日本人のアルバイトがやっていた文字データ入力の仕事を、カンボジア人が行っていたのです。
   日本語が分かる人は少ないのに、なぜそれが可能なのか。それは、マウスでできる画像データの修正と、アルファベットの入力作業のみ行っているからです。その作業が終わると、次工程の中国やタイにデータを飛ばしていました。
   日本人がインターネットで送った元データを、カンボジア人が一次加工し、中国人やタイ人が完成データにして日本の顧客に戻してくる。データの移動コストは、金額・時間共にほぼゼロです。
「日本語が話せるタイ人が月給5万円でこれだけ仕事をしてくれるのに、日本人に20万円払う必要はどこにもないよね?」
   こう言うと、「日本は生活費が高いんだから仕方ないだろ!」と反論がきます。確かにその通りなのですが、そんな個人の事情とは関係なく、仕事は無情にも月給5万円の人のところに流れていきます。
   そうやって、月給20万円の日本人の給料は少しずつ下がり、月給5万円の日本語が使えるタイ人の給料は少しずつ上がる。そしてタイ人の仕事も、少しずつ月給1万円のカンボジアに流れていくのです。(J-CASTニュース・上記記事より)

 森山は、ここで、グローバル化した経済の仕組みを述べている。ここで、日本人は、次の二つの選択肢を迫られている。一つは、そうした仕組みを作り、仕事を回す側になるか、それとも自分たちの給料を下げてタイ人と競争するかの二つの選択肢である。森山は、前者を選べば、日本人はさらに豊かになれるという。

 例えば、カンボジアにデータ加工の仕事を発注しているのは、他でもない日本人です。ひとつの仕事を複数工程に分割し、タイ人やカンボジア人に効率的に振り分ける仕組みを作ることで、低コストで制作する方法を編み出したわけです。
   この仕組みは会社に毎月何百万円もの利益をもたらすので、仕組みを作って維持管理する人は数十万円の給料をもらえる価値があります。
   我々日本人が考える「普通の生活」は、世界からしてみたら「あこがれの生活」であり、世界中の人から狙われている特権階級の生活です。そのポストを守りながら、他人を幸せにする道はないのか。私は、あると考えています。
   日本が仕組みを作り海外に発注している仕事が、多くのカンボジア人の生活を豊かにしているように、日本人の技術や知恵をアジアに展開すれば、世界のもっとたくさんの人を幸せにし、我々の生活も豊かにできるものだと信じています。(同上)

 これは、ある意味では、アップルのビジネスモデルでもある。iPhoneやiPadは、確かにそうしてつくられている。浜矩子が言うところの「羊羹チャート型分業」(浜矩子『新・国富論』p131~136)である。考え方としては正しいのだが、雇用を失ったすべてのヒトが、そうしたビジネスモデルをつくり出せるということは、多分不可能だ。だから、依然として、日本は、より格差を広げていくことになる。やがて、タイ人やカンボジア人と同じ給料の水準に落ち着くことになる。そのとき、円高がいいのか、円安がいいのか、考えてみる価値はありそうだ。そして、この場合、経済成長とは何を意味するのか。アップルのような会社が、日本に乱立することになるのだろうか。

 朝日新聞の1月1日の朝刊は、トップ記事といい、社説といい、少し変わったという印象を受けた。その社説は、「『日本を考える』を考える」というタイトルがついている。なかなか興味深い社説だと思った。相変わらず、広告の多い誌面ではあるが、新しい冒険をしているように思われる。この記事は、日本=国家を相対化して眺めてみようという提言だ。そして、私は、久しぶりに、朝日の社説に拍手を送った。

「(国境を越える資本や情報の移動などによって)国家主権は上から浸食され、同時に(国より小さな共同体からの自治権要求によって)下からも挑戦を受ける」
 白熱教室で知られる米ハーバード大学のマイケル・サンデル教授は17年前の著書「民主政の不満」でそう指摘していた。これから期待できそうなのは、国家が主権を独占しないで、大小の共同体と分け持つ仕組みではないかという。
 時代はゆっくりと、しかし着実にその方向に向かっているように見える。「日本」を主語にした問いが的はずれに感じられるときがあるとすれば、そのためではないか。
 もちろん、そうはいっても国家はまだまだ強くて大きな政治の枠組みだ。それを主語に議論しなければならないことは多い。私たち論説委員だってこれからもしばしば国を主語に立てて社説を書くだろう。
 ただ、国家以外にプレーヤーが必要な時代に、国にこだわるナショナリズムを盛り上げても答えは出せまい。国家としての「日本」を相対化する視点を欠いたままでは、「日本」という社会の未来は見えてこない。(「朝日新聞」1月1日朝刊社説より)

 ところで、『国富論』の原題は、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nationsであり、そのまま訳せば「諸国民の富の性質並びに原因に関する研究」である。浜矩子は、アダム・スミスの『国富論』を踏まえて、『新・国富論』を次のような言葉で結んでいる。

 さてそこで、グローバル長屋の合言葉である。それは、「差し伸べる手」なのだと思う。「見えざる手」に代わるものは、決して国々の「見える手」ではない。諸国民がお互いに対して差し伸べる手、やさしさの手、勇気ある手、知恵ある手だ。
 さらにいえば、差し伸べる手を持つ人々は、実は諸国民に止まっていてもいけないのだと思う。本当に力強い差し伸べる手を持つためには、我々は諸国民から「全市民」に脱皮しなければいけないのではないかと思う。国境をまたぐグローバル市民の視野があればこそ、お互いに慮りの手を差し伸べ合うことが出来る。そういうことだろう。そのようなグローバル市民の活動拠点はどこにあるのか。
 それは「地域」にあると思う。(『新・国富論』p243・244)

 私たちは、世界経済を読み解いたからと言って、幸せになれるわけではない。しかも、浜矩子の主張は、なんだか、「世界経済がグローバル化するなかで、国全体で経済の成長戦略を策定するのはもはや難しいと僕は思っています」(橋下徹・堺屋太一共著『体制維新―大阪都』)と述べた大阪市の橋下徹市長の応援演説のような気がしてくる。私は、橋下徹の主張が私たちを幸せにしてくれるとは思っていないが、時代の流れをつかんでいることだけは確かだと思われる。そうした流れの中に私たちは必然的に巻き込まれていくに違いない。年の初めに、グローバル化した時代の大きな流れの方向だけは、つかんでおきたい。

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