電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

学力の2極化

2006-09-17 22:03:01 | 子ども・教育

 先日、下町の小学校の教員をしている友人と神楽坂で酒を飲んだ。年に2回程、冬と夏に美味しいものを食べながら、時代のあれこれについて話し合う友人だ。彼は、江戸っ子で下町の小料理屋に詳しく、田舎から出て来た私を連れて、美味しい食べ物やお酒を飲みに連れて行ってくれる。私と同じ年なので、彼も団塊の世代だが、生涯現役という思想の下、彼は管理職にならず、担任として子どもたちに接している。彼から聞いたところによると、彼のクラスの子どもたちのうち私立中学へ行くのは数名だけだが、それでも「できる子ども」と「できない子ども」の差は大きく、子どもたちの学力は2極化しているという。

 このことは、志水宏吉著『学力を育てる』(岩波新書/2005.11.18)にも触れられていた。志水さんによれば今の学校現場では、目に見える学力をテスト等で計ると、その成績は正規分布曲線を描くのではなく、「二こぶラクダ」の形状を描くという。いわゆる「できる子」と「できない子」への分極化傾向が見られるというわけだ。そして、志水さんは、PISA型の調査からも、全体としての学力の低下よりも、こうした学力の2極化の方が重大な問題であり、「問題なのは、子どもたちの全般的な学力の低下ではなく、『できない』層へのした支えがきかなくなってきていることである」と述べている。

 そして、こうした2極化の一番大きな要因は、家庭環境だと言っている。「できる」層に属する子どもたちは、恵まれた、安定した家庭生活をおくっており、そうでないグループは「できない」層に集まってくる傾向があるという。志水さんは、これを「家庭の文化的環境の差」というように言っている。私の友人も、全く同じことを言っていた。そして、彼は問題なのは、昔の親だったら、自分たちがダメな親だったら、「せめて子どもだけはしっかり勉強させていい学校へ行かせよう」と考えていたのに、いまの親たちは、「どうせ私たちの子どもだからダメなのよ」というあきらめのようなものがあると言う。

 今の親たちは、自分がダメなのは、社会のせいだとは考えないのだろうか。自分にやっぱり能力がなかったからだとすぐに諦めてしまうのだろうか。昔は、もっと、格差があったような気がする。私の子どものころも、塾などもあったが、行けること行けない子ははっきりしていた。私の家も貧しくて、それでも、両親は、勉強することを奨励していた。親たちは貧しさに対して怒っており、子どもたちにも貧しさに耐えることことを強いていたが、「勉強すればもっと高い地位を得ることができる」とか「努力すればもっと豊かになれる」と言っていたように思う。そして、私も幼心に、いま好きなことができなくても、勉強さえしっかりしていれば、やがてそれも可能になると信じていた。

 今教育の世界で「自尊感情」の低下というように言われていることはおそらくこうしたことがらを指しているのだろう。それは、子どもだけに欠如しているのではなく、既に親にも欠如しているらしいのだ。こうした考え方が生まれて来るには、それなりの社会的な背景がありそうだ。高度経済成長が終了し、バブルの崩壊以降経済が停滞していた頃、努力したからといって必ずしもいい結果になるわけではない、また、いい学校を出ていい会社に就職しても必ずしも幸せになれるわけではない、という現実を突きつけられて、人々は必ずしも勉強や努力を大切に思わなくなったということでもある。それは、一面では真実である。しかし、勉強や努力を怠れば更に酷くなるということもまた真実である。

 学校は今、とても重要な岐路にさしかかっているというのが、友人と私の共通理解だった。そして、私たちは何をしなければならないのだろうか。特別なし得ることがあるとは思われない。ただ、できる子どもにはもっとできるように支援することだし、できない子どもは少しでもできるように支援する以外に方法はない。これはとても難しいことだと彼は言う。全ての子どもたちが救われると言うことはあり得ないかも知れないが、少なくとも社会が緩やかに、子どもたちを受け入れてくれることを祈るしかないのかも知れない。

 クラスの中に、「できる子」と「できない子」に二つの層ができると、学級経営が途端に難しくなる。一部の「できる子」や「できない子」は例外として存在しうるが、これが大きな集団として存在すると、ある意味で学級崩壊が起こりやすい。現在行われている一斉授業が成立しなくなってしまうのだ。志水さんは、関西のいくつかの学校を調査して、これを乗り越えていくために、学校はかなりの努力を必要としているが、要はいかに子どもたちの関係がうまくいって、できる子どもができない子どもたちを助けてあげられるような関係になるかどうがポイントのようなことを言っていたが、それは簡単ではない。最近のテレビの学園ドラマで、やっとこうした助け合いが見られるようになった。「女王の教室」ではかなり遠回りではあったが、同じような課題に向き合っていたと思う。

 都市部では、小学校によっては、半分以上が私立の中学校へ進学していくという。丁度、先ほどの「できる子」の層と「できない子」の層が、都市部では私立中学校と公立中学校へと分かれていくことになる。いわば、小学校時代の学力の2極化が、中学校では学校格差として現実化していくことになる。子どもたちの学力は、小学校では今のところ、学校よりも塾などを媒介として向上し、私立中学校に行って更に花開くというコースができつつある。これは、学校が今後「選択と競争」の時代になり、激しく揺れ動き始める先駆けのような気がする。来年4月から始められるという文部科学省の「学力調査」がこの動きを更に加速させることは確かだと思われる。そうなっていく家庭で、私たちには、どんなフォローができるのだろうか。

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『父親が教えるツルカメ算』

2006-09-10 21:09:10 | 子ども・教育

 新潮新書のベストセラーに藤原正彦さんの『国家の品格』があるが、この三田誠広さんの『父親が教えるツルカメ算』というのも、同じ新潮新書であり、しかもこちらは、藤原さんが、国家の品格の基礎作りになるいわば人間の品格の基礎として国語力をあげているのと対照的に、作家が「算数」の大切さを説いている。数学者が国語を持ち上げ、文学者が算数を持ち上げているところが、とても面白い。三田さんは、藤原さんのように国家などと言うことは持ち出さないで、忙しいサラリーマンの父親が、子どもとどう付き合ったらいいかを説いている。そのツールとして、算数があり、ツルカメ算があるというわけだ。

 ここで、三田さんが「ツルカメ算」ということで算数を象徴させているのは、算数を通じて培われる論理的思考力の大切さである。私には、武士道などを中心とした日本的な情緒を核に据えた国語力より、和算に代表される論理的思考力のほうが、分かり易いと思った。藤原さんは、ある意味では数学者としての論理的思考力を使って、国語力の大切さを強調しているが、三田さんは作家としての感性を上手く使って、算数の面白さを説いている。

 算数は、ただの計算問題ではない。たとえばツルカメ算というものがある。ツルとカメの合計の数がわかっている。足の数の合計もわかっている。そこから、ツルの数、カメの数を求める問題である。
 これを解くためには、全部ツルだと考えるか、全部カメだと考える。そういう極端な想定をしてから、最終的な結論に近づけている。こういう思考をたどって正解にたどりつくためには、「シミュレーション能力」といったものが必要だ。
 算数は、シミュレーション能力を鍛える。(三田誠広著『父親が教えるツルカメ算』新潮新書/2006/7/20、p11・12より)

 三田さんは、この本で、ツルカメ算のほかに和差算、差集め算、ニュートン算、ソロバン、流水算や図形の世界まで、およそ24種類の問題を取り上げ、とても面白く解説してくれる。ここで、三田さんが強調していることは、中学校に行ってから「数学」というものを習う前に、これらの問題を解くことの面白さと大切さであり、論理的思考力を鍛えることへの有効性である。確かに、ツルカメ算などは、連立方程式を使えば、簡単に解けてしまう。しかし、それでは、論理的思考力が養われない。こうした問題は、現在の小学校の教科書では出てこない。そこが問題でもある。

 三田さんは、自分の子どもの中学受験に関わったことがあり(『父親学入門』集英社刊/1995.10.30)、私立中学の入試問題を研究したり、塾の勉強を研究したりしていて、そこで算数の問題の面白さを発見したようだ。長男を公立中学校に行かせ、次男は私立中学校に行かせるという経験を経て、三田さんは学校の在り様を自分の体験と比較しながら理解している。『父親学入門』は10年前の本だが、そこで彼が考えていたことは、今でも十分通用している。そこで、彼は、「中学受験の効用」ということで次のように述べている。

 多くの人々は誤解しているのではないだろうか。中学受験というのは、決して苦行ではない。一種の知的なゲームのようなものだ。子どもというものは、知的好奇心をもっている。知性を刺激すれば、目を輝かせて、新たな知識を求めるようになる。
 それに、子供は自然な向上心をもっている。以前は出来なかった問題がうまく解けるようになると、それは子供にとって大きな喜びとなる。お金で買える玩具やゲームがもたらす喜びとは本質的に異なった、本物の喜びだ。
 中学の入試問題は、実にうまく工夫されている。なぜかと言うと、私立中学は、知的好奇心をもった生徒を必要としているからだ。知性がないのに塾で無理にマルバツ式の暗記だけをした子供では、太刀打ちできないような、深い問題を出す。
 そういう問題がうまく解けたときの喜びは、計り知れない。(『父親学入門』p151より)

 この三田さんの考えは、10年経った今もぶれてはいない。三田さんは、小学校の高学年という時期に論理的思考力を育てることの大切さを訴えているが、もちろん、それ以降も論理的思考力は常に鍛えていないと退化してしまうに違いない。私は、『父親が教えるツルカメ算』中の問題を考えながら、久しぶりに興奮した。というわけで、せっかくの休み、5年生の息子に、いくつか問題を出してみた。

【問題⑤】神社の長い階段で、太郎君と花子さんがジャンケン遊びをしました。勝った人は階段を5段上り、負けた人は2段下がるというルールです。25回ジャンケンをした結果、太郎君は花子さんより、35段上にいました。太郎君は何勝何敗だったのでしょうか。(『父親が教えるツルカメ算』p51より)

 この問題に対して、息子は少し考えて、ツルカメ算だということに気がついて、すぐに解けた。三田さんが言ったように、太郎君が全勝したとしたらという仮定をして計算してから、実際の結果との差を出して解いていた。そのほかのツルカメ算に類する問題や、差集め算というのは、図を書きながら解いていたが、おそらくその解法は塾で習ったものに違いない。三田さんもそうした図を使った解法について触れていた。しかし、次のニュートン算というのはダメだったようだ。私と同じように、ヒントを言われるまで、わからないようだった。

【問題⑫】一定の面積の牧場があります。ここに牛を20頭入れると8日で草を食べ尽くしてしまいます。25頭入れると6日で草を食べ尽くします。では牛を45頭入れると、何日で草を食べ尽くすでしょうか。

 実を言えば、私は説明されるまで、これが全くわからなかった。草は、毎日生えているのであって、1日に少しずつ増えているということに気づかなかったので、三田さんが言うように、私は迷路に入り込んでしまった。それにしても、私は、ニュートン算という名前があることを知らなかった。なぜこれをニュートン算というのかについて、常に一定に草が生えていくというところが、常に一定の力が働いている「重力」に似ているからだろうと三田さんは言っているが、塾ではこうした問題が色々工夫されて子どもの論理的思考力を育てるために勉強させているらしい。方程式を学び、いろいろな変数を数学的に処理して答えを出すということに慣なれてしまうと、こうした問題が方程式を使わないで解けなくなってしまう。

 ここに紹介されている24問だけでも、かなりの脳のトレーニングになりそうだ。5問程息子にやらせたが、かなり楽しそうに挑戦していた。ひょっとしたら、息子のほうが私より柔軟な思考力を持っているのかもしれない。三田さんは、この本を書くにあたって、啓明舎という塾で算数を担当されている後藤卓也先生の『秘伝の算数』(東京出版)というシリーズを参考にしたといっているので、私も読んでみようと思う。「脳を鍛えるドリル」よりは面白そうだ。普段は、口げんかばかりしているダメな親子だが、今日は久しぶりの知的な対話だった。三田さんに感謝。

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子どもと学びのゆくえ

2006-04-16 21:44:24 | 子ども・教育

 小学校で英語教育が必修になりそうだ。「小学校における英語教育について」という外国語専門部会における審議の状況報告が出されている。おそらく、これをもとに小学校で英語が、3年生かあるいは5年生から教えられることになりそうだ。4月6日の首都大学の入学式で、東京都知事の石原慎太郎さんが、「小学生は国語力を磨け」と文科省の批判をし、物議を醸していている。これに対して、小坂文科大臣が、「すでに9割の小学校が英語活動に」取り組んでいるといって反批判をしている。石原慎太郎さんの言葉は、酷い言い方だが、ほぼ当たっていると思う。小学校で英語を教えることはかまわないが、必修にする必要などないと思う。

 小坂文科大臣は、かなりの学校で実際に英語を教えている現実と、かなりの親が子どもに英語を早くから教えようと英語塾などに通わせている状況を踏まえて、すべての子どもが英語教育に何らかのかたちで触れられるようにしたいと考えているようだ。つまり、英語の塾などに通わせられない家庭の子どもでも、学校で英語に触れられるようにしたいということだ。それは、それで一理ある。しかし、先の外国語部会の審議では、小学校では、①「英語のスキルを教える」のではなく、②「コミュニケーション能力の活用」のひとつとして英語を教えようという結論になっている。

 外国語専門部会としては、こうしたことを総合的に勘案すると、中学校での英語教育を見通して、何のために英語を学ぶのかという動機付けを重視する、言語やコミュニケーションに対する理解を深めることで国語力の育成にも寄与するとの観点から、②の考え方を基本とすることが適当であると考える。
そして、この場合においても、①の側面について、小学生の柔軟な適応力を生かして、英語の音声や基本的な表現に慣れ親しみ、聞く力を育てることなどは、教育内容として適当と考えられる。(「審議の状況報告」より)

 「英語のスキル」を重視するか、「国際コミュニケーション」を重視するか、議論があったようで、後者を小学校段階の目標に据えている。しかし、それは、同じことだと思われる。いずれ、英語は普通の教科となり、子どもたちは、そのスキルを身につけるようになるに違いない。実際、英語教育を始めれば、それはそうなっていくに違いない。たとえ、学習指導要領で評価の対象にしないといったとしても、中学校で評価の対象になっている以上それが、早まるだけであり、特に最近「小中一貫校」などといわれていることから、一層拍車がかかることになる。

 要するに、「学力向上」から始まった今回の教育課程の改革は、子どもたちにとって更に厳しくなるに違いない。私には、学校から、遊びが消えていくような気がして仕方がない。子どもの生活の中心は、遊ぶことである。義務教育段階の子どもたちにとって、もっとも大事なことは、よく遊ぶことであり、その遊びを通して、ルールや社会性や、友情や思いやりを学ぶことが大切だと思う。彼らは、勉強でさえ遊びとしてすることができる。と、そんなことを考えていたら、「塾に通えぬ小中学生に無料の“公立塾”…文科省、来年度から」という読売新聞の記事が出た。

 経済的理由などで塾に通えない子どもを支援するため、文部科学省は来年度から、退職した教員OBによる学習指導を全国でスタートさせる方針を固めた。
 通塾する子どもとの学力格差を解消するのが狙いで、放課後や土・日曜に国語や算数・数学などの補習授業を行う。来年以降、団塊世代の教員が相次ぎ定年を迎えることから、文科省では「経験豊富なベテラン教師たちに今一度、力を発揮してもらいたい」と話している。

 最近の文科省の論理は、すべての子どもたちにある程度の学力を平等に身につけさせたいということを盛んに強調している。あたかもそのために文科省という存在があるといわんばかりである。このこと自体について、私は特別何も言うことはない。しかし、学校の正規の授業の中でいまどのように学力を身につけさせるべきか模索中なのに、土曜日や日曜日に、学校を利用した塾を作ることなどしていいのだろうか。団塊の世代の退職教師を利用しようとすることは決して悪いことではない。しかし、おそらく、それは塾とは全く別物になるに違いない。そんなことをするより、学校の教師にもう少しゆとりを与え、学力でも遊びでもしっかり子どもたちに対応できるようにするために退職教師を使った方がいいのではないか。

 今必要なことは、子どもたちが子どもたちの時代でしかできない遊びや勉強の仕方を学ぶことである。いたずらに、大人のマネをして、職業教育をしたり、社会勉強をすることではないと思う。そういうことにしっかり対応できる学校にすることが大事ではないかと思う。子どもたちの学力が、普通の塾や、文科省推薦の公立の塾でしか身につかないようでは困る。現に、有名私立中学校などでは塾になど行かなくてもよいに違いない。そして、東京などではそうした有名私立中学校へ受験する子どもたちが、半分以上に達する公立の小学校が出現している。

 藤原智美さんの『「知を育てる」ということ』(プレジデント社/2006.3.27)では、全国の特色ある有名な学校を紹介している。こういう学校を見ていると、「学校とは子どもが『知』を手に入れるための場所である」ということが実感としてわかる。しかし、それは特殊な学校であり、それなりのカネと時間と文化的環境の中で育てられないとそこへは行けないようになっている。その意味では、確実に格差や階層が生じている。政治家の子どもは政治家に、学者の子どもは学者に、教師の子どもは教師に、俳優の子どもは俳優にというような現象を見ていると、日本も本当に階層社会になりつつあるのではないか思われる。

 こうして過剰な期待感を背負わされた学校は、最近では学校機能そのもののアウトソーシングを始めている。総合的な学習にはNPOなどを利用するだけでなく、東京の公立中学校の中には、塾に土曜日の授業をまかせるというところもある。
 家庭が子育てを学校に委託し、学校がそれをさらに外部化するという構図を、ぼくらはどうとらえればいいのだろう。もしかすると、近い将来、学校は躾や食や体力や学力向上のためのコーディネーターのような役割になってしまうのだろうか?(『「知を育てる」ということ』p234・235より)

 いま、小学校で英語が必修化されるようになったり、全国学力テストが実施されるようになったりと、世界に通用する人材育成のための国家戦略として、学力向上への動きが激しくなっているが、その流れの中で、学校そのものが実は既に大きく変わりつつあるような気がする。学校の構造が変わるだけでなく、教師の意識も変わりつつある。つい先日、「職員会議での挙手、採決禁止=都教育庁」という通達が出されたそうだが、唖然としてしまった。職員会議をどのように学校の運営に生かしていくかどうかなど、校長の力量にまかせるべきだし、ときには多数決で決めた方がいい場合もあるに違いない。そんなことは、企業社会では常識だ。会社の社長は、社員がより働いてくれるなら、社員たちの創意工夫や自主的な働きを期待しているはずだし、必要なら多数決で決めさせたりするに決まっている。そして、たとえそうなっても最終的な責任は自分にあることを自覚しているはずだ。それとも、現在校長が職員会議での決議によって身動きできないようになっているのだろうか。そんなことを言っている場合ではないような気がするのだが。

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株をやる子どもたち

2006-02-05 21:32:24 | 子ども・教育

 今回のライブドア事件でかなりの数の子どもたちがライブドアの株を買っていたらしいことが分かって、私は愕然とした。しかも、その範囲は、小学生までも含まれているらしい。学校でキャリア教育や金融・経済教育を行わなければいけないという話は新聞でも話題になったし、これからの教育改革の中でも言われていることだ。大人がライブドアの株を購入し、今回のライブドア事件の結果株価が暴落して損をしたというのは、ある意味では自己責任の問題ではあるが、これらの子どもたちの場合は、単なる自己責任ではすまされない問題でもありそうだ。もちろん、それは、子どもの責任ではある。しかし、おそらく、それは、大人たちの責任だといったほうがいいに違いない。

 インターネット専門のマネックス証券は、未成年でも口座を開け、現在のところ、小中学生が名義人の口座は約2300件だという。朝日新聞の記事によれば、学校で株の取引を教材にして経済の学習をしているらしい。

「株式学習ゲーム」は、仮想所持金1千万円を運用して、実在の東証一部上場企業の株を売買する教材。値動きを予想するため新聞などで情報を集めるうちに、経済や市場の仕組みを学べるという。95年度の開始以来、金融・経済教育の拡大に伴って導入校は増加し、04年時点で1351校、生徒数は約7万人に上る。(平成18年2月5日朝刊より)

 「株式学習ゲーム」は、ゲームとしてやっているうちは面白いに違いない。しかし、株式というのは経済の教材として適切かどうか考えているのだろうか。大人でさえ、毎日のように、株式や先物取引など金儲けの誘惑になかなか抗しがたい時代である。つまり、株は、投資の対象であると同時に、投機の対象でもある。株は投資として持たないかぎり、必ず損をする人ともうける人が出てくる。投資と投機では全く異なる活動である。ライブドアの株を購入した人たちはいわゆるデイトレーダーが多かったというが、それはつまり、株を投機の対象として考えていたということだ。

 株というのは、もともと株式会社が投資を募るために発行した有価証券である。つまり、株は本来は投資のために買うべきものである。しかし、現在では主として投機の対象となっていて、そのために企業の業績を的確に反映しているとは限らない。つまり、株も一種の商品となっているのであって、しかもきわめて商人資本主義的な商品である。「安く買って高くうる」というのが、株の世界の論理だ。しかも、今回のライブドアのように、株の発行時価総額を世界一にしたいという企業のような存在があれば、更に企業の業績とはかけ離れていくことになる。ライブドアは、株式の分割を何度も行い、市場での取引を1株数百円単位で行えるようにした。個人投資家が22万人という数字が示しているのは、そういうことだ。

 株とは違うが、インターネットのオークションが流行っている。このオークションは、確かに一種のリサイクル市場だと言えないことはない。しかし、ここでも単なる中古品市場とは異なった論理がオークション全体を支配している。つまり、そこに出品される品物もやはり商品なのだ。だから、売る方は、少しでも高く売りたいし、買う方は少しでも安く買いたいと思っているはずだ。特に、子どもたちに人気なのは、レアもののカードである。先日も、私は甥に、ムシキングのカードを頼まれた。「いま、ヤフーオークションで○○○円で出ているので買って欲しい」というのだ。もちろん、私は断った。しかし、子どもの間でそういう情報が飛び交っていることに驚いた。

 子どもたちは、確かに、既に社会の中の一員として、経済活動を営み始めている。私たちが貧しかった頃、新聞配達をしたり、農繁休暇があったりした。それは、家計が貧しかったからだ。少しでも家計を助けるためにそうした。今でも、そういう子どもはいるに違いない。しかし、インターネットで株を買ったり、オークションでカードを買ったりする子どもたちが、家計を助けるなどという発想があるとは思えない。あるのは、もうけたいという気持ちだと思う。ライブドアの堀江貴文さんは、「人の心も金で買える」という意味のことを言ったそうだが、確かに商品化されたものは何でも金で買える。つまりどんなものでも、商品化されれば私たちは、金で買うことができる。しかし、あくまでも、「商品化されれば」という条件が付いている。

 学校で教えるべきは、株を買ってもうけることではない。どんなものなら「商品化」が可能で、どんなものを「商品化」してはいけないかということだ。特に、現在のようなサービス産業が大きな分野を占めるようになると、「商品化」という自体がとても難しくなってくる。人々が快適に過ごせるようにある人がつくすというサービスの場合、それは当然「商品化」される。居心地のよい空間とはつまり一つの商品化された空間であり得る。ディズニーランドでは、そうしたサービスを提供してくれる人たちがたくさんいる。それらは、「商品」としてのサービスだ。しかし、子どもたちはそういうことを商品としてではなく、無償の行為としてやって欲しい。

 家でお手伝いをして、お小遣いを貰う。まあ、ある程度労働をした対価としてそれは多少は認めてもいいと思う。しかし、いい点を取ったからといって、お小遣いを与えるのは行き過ぎだろうと思う。確かに、彼らは勉強することが一種の子どもにとっての「仕事」だと思っているところがあるので、大人が働いて金を貰うように、勉強したらお金をもらって当然だという考え方をする。しかし、経済の論理を教えようと思ったら、本当はお金というものは何らかの商品の対価として支払われるものだと教えるべきだ。そう考えれば勉強するということは決して商品化されない行為だということが理解できるはずだ。

 私たち人間は、「社会の一員としての人間」と「個人としての人間」と「家族の一員としての人間」というそれぞれの役割を演じている。学校教育は、そうした人間の特質のうち特に「社会の一員としての人間」を主として育てている。もちろん、これらの人間性は綺麗に分かれているわけではなくて、いろいろ絡み合っている。そして、「社会の一員としての人間」ということは、人間の社会的活動に関わることであり、経済活動と深く関わっている。だからといって、経済活動のシュミレーションが妥当な教育だということにはならない。子ども時代は、やはり「無償の行為」というものの存在を教えるべきだと思うし、それには理屈などいらないと思う。また、買うためのお金は働いて稼いで貰いたい。

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偶然の幸運に出会う能力

2005-11-06 21:00:24 | 子ども・教育
 「偶然の幸運に出会う能力」。そんな能力があれば、誰でもそれを欲しいと思うに違いない。普通に考えれば、「偶然の幸運」は、自分のコントロールの及ばない領域である。その人の能力ではなく、偶然に決まるからこそ、「偶然の幸運」というわけだ。しかし、本当にそうだろうか。「偶然の幸運に出会う能力」のことを「セレンディピティ」と名付けたのは、ウォルポールである。そういえば、「セレンディピティ」というタイトルの映画があった。
 この「セレンディピティ」に注目して、茂木健一郎さんが『「脳」整理法』(ちくま新書/2005.9.10)で面白い論を展開している。「セレンディピティ」という言葉のそもそもの由来は次のような内容だという。

 「セレンディピティ」という造語の元になったのは、『セレンディピティプの三人の王子』という童話でした。「セレンディプ」は、いまのスリランカを指す古語です。この童話で。三人の王子たちは、旅をする中で、自分たちが求めていたものではないものに出会います。そのような偶然の出会いが、結果として王子たちに幸運をもたらしました。そのような偶然に出会う能力を、ウォルポールは「セレンディピティ」と名づけたのです。(『「脳」整理法』・p110)

 ところで、このような「セレンディピティ」は、どのような脳の働かせ方なのかというと、第一に「とにかく何か具体的な行動を起こすこと」が必要である。そして、第二に、「偶然の出会いがあったときに、まずその出会い自体に気づくこと」が必要である。そして、第三に、「素直にその意外なものを受け入れること」が大切だということになる。「偶然の幸運」は、まさしく「偶然」であるが故に、自分が意図していたものとは違った形でやってくるのだ。それ故、それを自分にとって「幸運なもの」であることに気づかなければ、永遠に出会うことはできないということになる。この三つの「行動」、「気づき」、「受容」が「セレンディピティ」を高めるために必要なことだという。

 ただし、これらの三つの能力がすべてそろっていても、それだけでは、偶然に出会う準備ができたにすぎません。肝心な「偶然の出会い」そのものは、自分ではコントロールできないかたちで起こります。セレンディピティとは、偶然の出会いがあったときに、「それを生かす準備ができている」、また「事後にそれを生かすことができる」能力を指すのです。
 もちろん、準備ができていたからといって、肝心な出会いそのものがない可能性もあります。その一方で、もし準備ができてなければ、せっかく出会いがあったとしても、それを生かすことができないのです。(同上p114・115)


 この「セレンディピティ」という概念の面白さは、教育とか学習ということを考えるときに、いままでとはまた違った見方を提供してくれる。繰り返しのドリルをしてスキルを高めたり、正解を学んで応用できるようになったりすることとは、違った学習の仕方を示唆している。もちろん、基礎的な素養は必要だ。しかし、そうした素養は、「セレンディピティ」を追求していけるようにするためにこそ必要なのかも知れない。

 茂木さんは、最近日本でノーベル賞を受賞した、白川英樹さんの「伝導性プラスティックの発見」、田中耕一さんの「タンパク質の質量分析法の開発」、小柴昌俊さんの「ニュートリノの観測」などは、それぞれ「セレンディピティ」によってなされたものだという。

 レントゲンによる「X線」の発見も、セレンディピティでした。レントゲンは、「クルックス管」と呼ばれる真空放電管を使った実験中、放電管と蛍光板の間に手を入れると、手が透けて、骨が映ることを偶然発見したのです。放電管から出る目に見ることのできない波長の短い電磁波が、蛍光板に当たって可視光に変換された結果、骨が透けて見えたのです。指輪をつけた夫人の手を撮影した写真は、当時のヨーロッパに一大センセーションを起こしました。(同上p119)

 最初にあげた映画もそうだが、「偶然素敵な恋人に出会う能力と、偉大な科学的発見をする能力は、実は同じである」ということになる。そして、大切なことは、「行動し、気づき、受容する」という能力を鍛えることだ。おそらく、学習の機会は、日常生活のふとした場面であるに違いない。私たちは、本当はたくさんの「偶然の幸運」を見逃していたのかも知れない。
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