電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

原発の行方(3.11から4ヶ月)

2011-07-10 22:44:42 | 政治・経済・社会

 私は、原発推進派でもなければ、反原発派でもない。強いて、言えば、脱原発に近いかもしれない。しかし、原子力発電そのものについては、私は反対ではない。フランスが取り組んでいるような新しい原子炉については、可能性としてはあり得ると思っている。私たちは、福島第一原子力発電所の事故から、何を学ぶべきなのだろうか。取り敢えず、はっきりしていることは、国と経済産業省と東京電力で取り組んで来た原子力発電の政策は、効率的であったかもしれないが、安全対策としては間違っていたということであり、その安全対策の誤りから、日本の電気エネルギー政策の問題点が、浮かび上がってきたということだ。国や東京電力やそれらを理論的に支えていると思われる原子力委員会や原子力安全保安院などからの情報や指針があまりに不十分で、曖昧で、お粗末だったということでもある。

 石炭や石油などと違って、原子力による発電は、核エネルギーを使うということで、技術的には高度なものであり、その分危険をはらんでいる。私たちは、科学技術の発達によって、新しい電気エネルギーを原子力を使って生み出すことができるようになった。石炭や石油を使う火力発電も危険性を持っているが、原子力発電はいろいろな放射性物質を副産物として伴うことによって、はるかに危険なものになっている。そして、その危険物の処理のために、世界中で今、より安全性を高めるように努力している。私たちは、原子力の封印を解いた時から、より安全に原子力を取り扱うべき課題を背負わされてきたというべきかもしれない。原子力発電や核兵器を持つ、持たないに関係なく、私たちは核エネルギーに関わらざるを得なくなっているということでもある。

 福島第一原子力発電所の事故以来、大体、大きくは次の3つの方向があり得る選択肢として浮かび上がり、その点で人々は、迷い、恐れている。特に、高度情報化社会というにはあまりにもお粗末な情報開示により、混乱は増しているように見えるが、方向性としては、次の3点に整理できると思われる。

①原子力発電はとても危険なものであり人間はコントロール不可能なので、ほかの再生可能なエネルギーによるべきだ。
②石炭や石油などによる火力発電には限界があり、中国やインドなどの経済発展を考えると、原子力発電に変わる効率的な電気エネルギーの供給方法はないので、できるだけ安全性に配慮しながら、これからも原子力発電は前向きに考えるべきだ。
③原子力発電を続けていくか、廃止していくかは、じっくり検討していくべきだが、取り敢えず、日本の電気エネルギーの供給が低下しているので、現在使用している原発は当面は活用せざるを得ない。

 ①だけを強調しているのがいわゆる反原発であり、②だけを強調しているのが原発推進派だということになるかもしれない。そして、国や経済産業省は、もともと②だったが、③に変わりつつある。あるいは、はっきりしていないが、管総理は、①になろうとしているのかもしれない。しかし、私たちが直面している本当に困難な問題は、3つの選択肢のどれを選んだらよいか難しいと言うことではないと思う。この3つの選択肢は、もし国民がどれかを選択したとすれば、その方に進んで行くだけの話だ。そして、そのどの方向に進んでも、私は日本という国は、多分そこそこ上手く切り抜けていくのではないかと思う。

 今私たちが直面している問題の困難さは、それ以前の段階というか、その選択肢の前提になることにあるように思われる。まず、①これだけ情報化社会になっているにも関わらず、原子力発電については、基本的な情報が曖昧なままであること、そして、②この電気エネルギー危機が日本の危機的な経済にどんな影響を与えるのかよく分からないこと、また、③原発の事故は、何故起きたのかが未だに曖昧であり、収束の行方さえ不安定であるということ、その上、④立法府はねじれ、行政府は先行きの見通しもなく思いつきで政策を立案しているという状況になっていることである。少なくとも、肝心要の内閣府の原子力委員会や安全委員会、また、経済産業省の原子力安全・保安院が、どんな役に立っているのかさえよく分からない。

 元原子力委員会及び安全委員会委員の武田邦彦さんの『原発大崩壊!』(ベスト新書/20011.5.24)と京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんの『原発のウソ』(扶桑社新書/2011.6.1)を読むと、2人とも、元々原子力発電の専門家らしい見解が述べられている。しかも、いわゆる原子力村とは離れたところがから、発言がなされていて興味深い。2人とも、原子力発電については、本当は反対ではないと思う。しかし、武田さんは、原子力村による、原子力発電の推進の仕方に根本的な問題があり、そこが改革されたら原子力発電にも希望があるという見解だ。一方、小出さんは、原子力は危険であり、その危険なものを日本のような地震大国に造ることが間違っていると述べている。武田さんは、多分、原発はコントロール可能だと思っているし、小出さんは少なくとも日本人には無理だといっているが、2人とも原子力を発電を止めても電気は大丈夫だと言っていることだけは共通しているように思われる。

 私は、反原発という立場でもなければ、原発推進すべきという立場でもないし、どちらかの立場を取ることが今大事なことだとは思わない。原子力発電ということについては、徹底的に科学的でありたいし、原子力発電を進めるならば、徹底的に安全性を重視したいと思う。そして、例え安全であっても、最悪の場合を想定した対策を取っておくべきだと思う。もし、それが経済的に困難だと思われたなら、原子力発電はすっぱりと止めるべきことであって、安全性を犠牲にすべきではないのだ。私は、福島第一原子力発電所の事故の最大の問題は、事故が起こったときの対策が、「原子力は絶対安全である」ということから何も講じられていなかったことだと思う。

 交通事故だって、事故が起きたらどうすべきかは、決まっているのだ。まず、第一に人命救助でなければならないのだ。これは、運転手は必ず守らなければならない責務である。況んや、もっと被害の大きな原子力発電の場合は、東京電力の補償が免責になるかどうかなどという問題ではなく、事故が発生したとき、東京電力だけでなく、国や地方自治体が何をすべきかの対策を講じていなければならないと思う。私は、東北の復興も、福島第一原子力発電所の事故収束も、みんなの努力で必ず実現できると信じているが、私が今いちばんの不安に思っているのは、政治とマスコミが、それらを無に帰してしまうのではないかということだ。いま、ネットの世界も含めて、いろいろなところで、脱原発と原発再開をめぐって対話が始まっている。こうした対話が真摯に進められれば、日本の進路が必ず見えてくると思われる。もう少し、かもしれない。

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3.11から3ヶ月過ぎて

2011-06-12 22:28:27 | 政治・経済・社会

 どちらかというと、静かに、普段の生活を続けた。心が動かされ、たまらなくなった時があったとすれば、国会で内閣の不信任案が出され、否決されたときだ。私は、管内閣がよい内閣だと少しも思わないが、不信任案をめぐって、繰り広げられた、自民党や公明党、そして民主党の一部の国会議員たちの行動と言説に、あきれ、そして、憤りさえ覚えた。今でも、私は、東日本大震災が少し落ち着き、選挙ができるようになったら、総選挙をして、その上で、内閣は総辞職すべきだと思う。それまでは、少なくとも、国会議員は、協力して当面の復興に向けての緊急の課題を処理すべきだと思う。今の状況で、管内閣が総辞職して、それで、何か展望が開けるとはとても思えないからだ。

 東日本大震災は、地震と津波という天災と福島第一原発事故という人災とが合わさって、未だ、復興のめどが立っていない。震災は、今まで見えなかったものをいろいろ明らかにしてしまったが、その最たるものとして、日本の政治家がいかに無能でしかも有害であるかをみせつけられれしまった。この政治不信のツケは、かなり大きいと思う。それにしても、もし、原発さえなかったら、私たちは、自然の災害に何度も遭い、そしてそれを乗り越えて来た経験から、すぐにとは言えないまでも、確実にそして、着実に復興して行くことができただろう。その意味では、この東日本大震災のいちばんの大きな問題は原発の問題かもしれない。

 地震と津波では、沢山の人が亡くなり、また、未だ、多くの行方不明者がいる。しかし、原発では今のところ、直接死亡した人はいない。だからか、すぐに、止めている原発を動かせとか、日本のエネルギーの需要は原発抜きには不可能だと言う人がいる。こんなことを言うと、誤解される恐れがあるが、原発ではまだ、誰も死んでいないが故に、これから、関係者に、とても大きな苦痛と被害が起きるに違いないということだ。いや、すでに、大きな苦痛と被害を与えている。そして、それらは、ほとんど解決のめどが立っていない。むしろ、問題が問題を生み、拡大していく様相さえある。

 私は、原子力を利用した発電については、科学技術の発展の成果として、利用すべきだと思ってきた。それが、これまで、未知の世界に自らの体を犠牲にしながら取り組んで来た科学者たちの努力に報いる道であり、人類の課題でもあると考えてきた。そのことは、今でも、正しいと思っている。しかし、そのことと、今の企業や国に原子力の利用を任せるということとはまた別の問題だということを私たちは知ってしまった。というより、もっともクリーンなエネルギーとして宣伝され、原子力発電の増設を進めてきた日本の政策のあまりのお粗末さにびっくりしたと言うべきかもしれない。今の状態のままであるなら、私は原発反対である。私たちは、原発の廃棄物の処理さえまともできない状況の中にいるのだ。私たちは、福島第一原発の事故を通して、原発というものは、動いていようと止まっていようと同じように危険な存在であることを知ってしまった。

 村上春樹が、6月9日(現地時間)スペインのカタルーニャ国際賞授賞式で大震災で原発事故を起した東電と効率を求めてきた社会に対する批判のスピーチをした。ネット上では、賛否両論が戦わされている。「福島第1原発事故は、第二次世界大戦中に投下された原子爆弾に続き、日本が体験する2度目の核の被害であるが、今回は日本人自身が引き起こしたもので、決して起こってはならなかったものだ」という村上春樹の発言は、確かにその通りだと思う。あれだけ、原爆の被害を訴えながら、今回、日本人は、自らがつくりだした核の被害を体験しつつある。皮肉としかいいようがない。村上春樹は、それは「効率性」を追究してきた私たち日本人の責任だという。しかし、私は、「効率性」というより、直接的には、「電気」というエネルギー商品をつくりだし、販売してきた電力会社が利潤を追求した結果であり、それを後押ししてきた、国のエネルギー政策の結果であると思う。ある意味では、私たちの「欲望」がそれを求めてきたのだ。

 「『効率』や『便宜』という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく『非現実的な夢想家』でなくてはならない」と村上春樹は言う。しかし、私たちは、それでもなお、絶対安全な原子力発電も追い求めていくべきだと思う。たとえ、「安全」が「神話」に近いとしてもだ。いま、世界中には、とても多くの原発があり、核兵器があり、それらは減るどころか、今、更に開発され続けられている。そこにある危険は脱原発で解消できるようなものではない。より安全な原発を作ることでしかおそらく、それは乗り越えられないと思う。そして、そのためのコストは、とても採算のとれるようなものではない可能性のほうが高い。もはや、効率や便宜では済ませられない。私は、こうした状況の中で、原子力の開発に取り組む科学者や技術者が怖じ気づき、そこから撤退することを恐れる。優秀な科学者や技術者がそこからいなくなったら、私たちはそれこそ、破滅へと向かうほかはない。

 福島第一原発の事故が私たちに教えてくれるのは、本当は、しっかりとした安全設計のもとの作られ、適切な処理がなされていれば、被害は最小限に抑えられたということだ。いかに東電の対応がまずく、国の対応がずさんであったかということだと思う。その意味で、私は、今のままで、原発を再稼働することには反対だ。今のままでは、とても恐ろしくて、任せられない。そのことを、今回の事故が示してくれたのだと思う。とても大きな犠牲を払って。それは、ひょっとしたら、津波の被害よりも経済的にはもっと大きな犠牲をこれから強いるかもしれない。「安全神話」が崩壊したからといって、私たちは、「安全」であること放棄してはならない。第一そんな神話などもともとなかった。「絶対安全」なら、どうして補助金など出す必要があるのだろうか。

 少なくとも、私は、原発に反対か賛成かと言うことの前に、しっかりと事故原因を特定し、適切な処置を実施すると同時に、原発の設計の在り方や活用の仕方自体も点検することこそが大切だと思う。遠くで、危険だということは簡単である。しかし、その危険を乗り越えて、新しい原発の在り方を模索することがもっと大事だ。脱原発の声が一方で起きているが、他方で、あちこちの原発で、エネルギー不足を理由に安易に停止中の原発の再稼働が行われようとしている。私たちは、今度の福島第一原発事故の反省の上に立った安全基準を適用した原発の稼働を目指すべきであり、それ以外は許されないと思う。たとえそう考えることは「非現実的な夢想家」だと批判されても、それはやらなければならない。そして、それが、原発事故の最前線で今、放射能の被爆にさらされながら、戦っている作業員たちに対する私たちの支援になると思う。

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東北地方太平洋沖地震から4日目

2011-03-14 10:28:45 | 政治・経済・社会

 今日は、会社を休んで自宅待機している。勿論、会社は休業ではないし、電話を入れると何人かは出勤していた。西武鉄道、東武鉄道が一部運行停止していて、直接会社には行けないので、無理して行かないことにした。テレビのニュースや、ネットの情報では、通勤にかなりの混乱が起きたらしい。日本人がかつて経験したことがない大地震が起きたのであり、これまでに積み重ねてきた小さな地震の経験を生かしながら、私たちはこの地震に対処するしか方法がない。被災地の人たちの困難状況を想像しながら、私たちは、自分たちのできる範囲で、支援していきたい。

 内田樹さんが、「未曾有の災害のときに」というブログを昨日書いていた。とても参考になると思われる。彼は、阪神淡路大震災の遭遇してそのときの経験を踏まえて書いている。要点は、次の三つ。

(1)寛容
いまはオールジャパンで被災者の救援と、被災地の復興にあたるべきときであり、他責的なことばづかいで行政や当局者の責任を問い詰めたり、無能力をなじったりすることは控えるべきだ。彼らは今もこれからもその公的立場上、救援活動と復興活動の主体とならなければならない。不眠不休の激務にあたっている人々は物心両面での支援を必要としている。モラルサポートを惜しむべきときではない。(一部省略)

(2)臨機応変
平時のルールと、非常時のルールは変わって当然である。地震の直後から各地では個別的判断で、さまざまな施設やサービスが被災者に無料で提供されたし、いまも次々と申し出が続いている。こういうときこそルールの「弾力的運用」ということに配慮したい。(一部省略)

(3)専門家への委託
森林や湖沼や海洋や土質といった自然資源、上下水道や通信や道路や鉄道といった社会的インフラ、あるいは司法や医療や教育といった制度資本については、管理運営を専門的知見に基づいて統御できる専門家に「委託」すべきであり、これを政治的理念の実現や市場での取引の具に供してはならないという考え方のことである。災害への対応は何よりも専門家に委託すべきことがらであり、いかなる「政治的正しさ」とも取引上の利得ともかかわりを持つべきではない。私たちは私たちが委託した専門家の指示に従って、整然とふるまうべきだろう。(一部省力)

 私たちは、ともすれば、自分の状況だけに対応しがちである。現地の人たちの悲しみをこらえながら、淡々として状況を伝えている声を聞いていると、本当に自分たちのいらだちが恥ずかしくなる。例えば、今日の東京電力の計画停電について、何度も発表内容が変更になったことを非難する声があるが、節電や電力供給の努力が実ったと考えて、ほっとするというのが正しい感覚だと、私は思う。東京電力は多分、今は、原発のことがもっとも重要な課題になっているはずで、そのことを最優先課題として、しっかり取り組んでほしいと思う。私たちには、彼らの努力に期待するしか方法がないのだから。

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民主党代表選

2010-09-05 22:02:37 | 政治・経済・社会

 それにしても、不思議な選挙だと思う。9月1日に小沢一郎と菅直人が、民主党の代表選に立候補して、14日の投票日までに、それぞれが自分を売り出すことになった。そのこと自体は、不思議でも何でもない。現在、衆議院では、民主党が過半数を占めているため、この代表選挙がある意味では総理大臣を決める選挙でもあるというところが、問題のポイントである。そして、国民の多数の支持をバックにしている現総理大臣と、人脈と国会議員の支持者なら圧倒的である前幹事長との戦いであり、お互いの政治家としての姿勢を全面に押し出しての戦いになっているところが、マスコミの格好の材料になっている。

 本当なら、民主党の支持者でなければ、関係ないと済ますところだが、不思議なことに国民を巻き込んでいる。それは、日本全国数カ所で行われる立ち会い演説会の在り方を見ていてもよく分かるし、小沢も管も、今、始めて本当の自分とは何であるかを国民の前にさらけ出そうとしているところからもよく分かる。そして、私たち、一般大衆もまた、この2人の戦いを、固唾をのんで見守っている。国民には誠実そうだが、あまり政治力が期待できない管総理大臣とあたかも悪徳政治家であるかのようにマスコミに作り上げられた像をちらつかせながら何でもできそうな政治力をアピールしている小沢前幹事長という対立の構図は、本当は、とても分かりにくい。

 政策の違いについていえば、話は簡単で、これまでの民主党のマニフェストを鳩山内閣の体験から修正したのが、管直人の現実路線と言われているものだ。これに対して、小沢一郎は、破綻したと思われている民主党のマニフェストをそのまま主張している。小沢によれば、民主党のマニフェストが実現できなかったのは、鳩山や管にそれだけの政治力がなかったからであり、それは、結局のところ官僚たちに負けたのである。小沢は、もし自分が総理大臣になったら、今の内閣とは違って、政治主導の下に、これまでの民主党のマニフェストを実現していくと言っている。

 もちろん、民主党のマニフェストについて言えば、それは、ついこの前、鳩山が総理大臣を辞めるときに、出来ないと判断して、新しい内閣が路線を修正したものである。小沢は、民主党のマニフェストは、やろうと思えばできたことだ言いたいらしい。しかし、管が修正したのは、財源がないからではない。私の認識では、国民は民主党のマニフェストになど、全面的に賛成していたわけではないということを、民主党が分かり始めたからだ。。つまり、民主党が政権を取れたのは、自民党がだめだったからで、民主党の政策がよかったからではないということを自覚始めたと言ってもよい。自民党とそんなに違わない民主党だから、自民党支持者も民主党に鞍替えしたにすぎない。むしろ、管は、国民が政策的には、国民の意向にそって政策の軌道修正をしたのである。

 もしそうだとすれば、私たちは、この代表戦に何を期待しているのだろうか。あるいは、何を期待していいのだろうか。こうした、劇場型の選挙は、小泉元総理大臣が作ったものだ。小泉が自民党をぶっ壊すといういいながら、衆議院の解散を決行したのは、彼の賭であると同時に、政治家としての自信でもあった。そして、その賭に彼は、勝った。今回、賭をしたのは、管ではなく小沢だと思う。ここが、おそらく小沢一郎の最後の舞台だということを彼は自覚しているのだ。しかし、それ故に、この民主党代表選挙は、結果的には、どちらが勝ってもおそらく、民主党の崩壊に向かって進むに違いない。

 日本の政治は、今、大きな転機にさしかかっている。それは、新しい政党の在り方の問題でもあるし、新しいリーダーの在り方の問題でもある。しかし、総理大臣の選出が、大統領選挙のようになることがいいのかどうか、難しいところだ。今のところ、民主党の代表選挙は、疑似大統領選のような様相を呈している。小沢一郎が立候補すると決めたときから、管総理はそうした戦略をとらざるを得なかったに違いない。小沢一郎に確実に勝つためには、国民の人気をバックにしなければ難しいと彼は判断したのだ。

 民主党のマニフェストの実行過程を見ていると、政治主導というのは、国家主導だとでも言いたいような様相があった。沖縄の問題も八ッ場ダムの問題でも、それは政治主導というより、国家主導ということであるにすぎない。私は、いずれにしても、国家主導という政治には反対だ。もちろん、小沢一郎の場合は、政治主導というとき、以前幹事長だったときの振る舞い方から考えて、より小沢主導ということであるにすぎない。官僚主導とか政治主導という問題は、本当はどうでもよい。なぜなら、政治家と官僚は同じ問題を違った角度からアプローチしているからだ。もし、そうでないとしたら彼らはそれぞれ自分の立場を理解していないのだ。

 政治家は、自分の理念に基づき政策を考える。しかし、官僚たちは、必ず具体論で主張しているのであり、解決できるかどうかを考えている。それが現実の行政の問題の解決の仕方である。確かに、民主党の理念と官僚たちの現実政策とのすりあわせがこれまでうまくいかなかったのは事実であり、現在までのところ、民主党の政治家は、官僚以上の現実的な処理ができていない。つまり、いろいろな政策が現実化するとき、結局のところ官僚たちに任せてきているのだ。今のところ、そうした官僚と議論を戦わせて新しい国家戦略を築いたという例を私は知らない。

 私は、政治主導が国家主導ということであれば、官僚主導と同じように、それに反対である。ましてや、小沢一郎個人が国を運営していくことなど、いいことではない。また、そんなことは不可能である。誤解を恐れずにいえば、なかなか結論がでないかもしれないが、みんなで考えたほうがよいに決まっている。小沢一郎は、3人寄れば文殊の知恵というようなことを言っていたが、まあそれは鳩山由紀夫の言葉と同じで、あまり信用できない。私は、日本の行政組織には、とても多くの欠点があるということはよく分かる。最近いろいろな問題が発覚して新聞で騒がれているように、これらは日本の行政組織の欠陥が露呈したものだ。しかし、日本の行政組織より、民主党の政治集団のほうが優れているとはとても思えない。

 今のところ、小沢一郎が総理大臣になったとき、彼が鳩山由紀夫以上の何ができるか、私には、まったくに未知数である。むしろ、小沢一郎が負けたとき、彼が何をするかの方が分かりやすい。民主党が分裂して、自民党を巻き込んで、政界の再編成が始まることだけは確かだ思われる。そして、それは、また、管総理大臣と民主党をも荒波の中に巻き込んでいくことになるに違いない。少なくとも、菅直人と小沢一郎は、おそらくそうなることを想定して、動いているに違いない。そうでなければ、鳩山由紀夫のように自滅していくだけなのは、確かだと思われる。

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参議院選挙で考えたこと

2010-07-11 22:39:09 | 政治・経済・社会

今回の参議院の選挙の結果、民主党が過半数割れしただけでなく、どの政党も過半数を握ることができなくなった。これは、必ずしも悪いことではない。また、民主党の後退は、致命的だとも思わない。なぜなら、鳩山総理、小沢幹事長で参議院選挙をしたら、おそらくもっと惨憺たる結果になったに違いない。私も、管総理が消費税の問題を選挙に持ち込んだことが、確かに民主党に悪影響をしたとは思う。しかし、管総理は下手ではあるが、今の日本に必要な問題を提出したことだけは確かだと思われる。多分、選挙結果から、消費税論議が低迷するかもしれない。むしろ、民主党の内部分裂を含んだ混乱が始まるかもしれない。

 しかし、今度の参議院選挙で、国民の利益になるということばかりを訴えた政党は、多分あまり信用しない方がよい。それは、前回の衆議院で民主党がやったことだ。管総理は、悪い影響がでると多分分かっていて、それでも消費税に固執した。これまでの民主党のばらまき政策のつけを消費税の増額でまかなおうという趣旨なら、それはもってのほかだと思われるが、消費税の引き上げは必要なことだと思う。それは、日本の財政を再建するためにどうしても避けて通れないことだと思う。そして、今までの政党は、いつも選挙の時になると、そうしたことを隠してきた。つまり、消費税を上げないことを公約としてきたくらいだ。この点ついてだけ言えば、管総理の提案を素晴らしいことだと思った。

 消費税については、生活必需品の場合は控除できるシステムを作った上で消費税率を引き上げ、むしろ、所得税は廃止か、あるいは、1000万円以上の所得にかかるようにすればよいと思っている。消費税が、国税の主たるものであるなら、私たちは、税金をどのように使うかコントロールできない以上、ものを買わないことによって、税金を納めないようにすることができる。また、税金を産業界が有利に使っているのなら、彼らが、購入活動をすることによって、その分負担すべきである。消費税が上がると、消費が停滞し、ひいては経済が停滞するというのは、単なる脅しである。そして、脅しているのは、産業界である。そのことは、消費税が導入されるときに経験したことだ。そして、脅されているのは、国民であり、消費者だ。そして、働く者たちは、会社が赤字で、税金を納めないときでも、給料から税金が確実に天引きされているのだ。だから、もっと、消費税の論議をしてほしかった。

 衆議院も参議院も政党選挙ということで、特に最近は、その時々の状況によって、大きく変動するようになった。与党の民主党も野党の自民党も同じように、いわゆるタレント候補をたてるようになってきた。ある意味では、ほとんどみなタレントであるといったほうが良いかもしれない。そうした人たちの政治に対する知識は、本当に信用できるかなどどうでもよく、政党に属する議員の数が全体の流れを作っていくから、ある政党の一員であるということが大事であると思われている。本当は、その人が、政治や経済や生活に対してどんな考えをもち、国民の為になる政策を提案できるかである。そして、自民党でさえ、党の政策として消費税率を上げると言っているにもかかわらず、そのことを説明しない。相手を批判することが、自分への指示を増やすことだと思っている。

 民主党のマニフェストに、衆議院や参議院の議員数の削減という提案があった。人数を減らすと言うことは、税金の無駄遣いを少なくするという意味らしい。私は、今度の参議院選挙を見ていて、定数の問題より、参議院が本当に必要なのかと思った。日本の二院政は明治時代から続いている。戦前は、参議院という名称ではなく、貴族院という名前で呼ばれ、皇族議員、華族議員、勅任議員(帝国学士院会員議員、多額納税者議員など)によって構成されていたものである。それ故、GHQにより廃止の提案があったが、民選議員で構成するということで、参議院という名前で残されたものだ。そして、衆議院とは違ったいろいろな性格があるが、どちらかと言えば、衆議院の監視役という役目が主たる任務である。だから、たいていの法案は衆議院が優先されているが、憲法改正などは参議院は衆議院と対等である。しかも、解散はなく、6年任期で3年ごとに半分が改選になるというシステムになっている。

 もしそうなら、参議院は選挙ではなく、裁判員制度のように抽選でなればいいのではないだろうか。もし、普通の国民が議員などできないと考えるとしたら、その人は不遜な人だと思う。もちろん、今の議員の中でいろいろな問題を抱えている人がいるのと同じようなことは起こりうるだろうが、それは仕方のないことである。少なくとも、今の議員のほうがいいとは必ずしも言えない。そして、すべての人が、抽選で選ばれ、6年間というより1年間の交替で参議院議員になれるようにしたら、政治に対する関心も社会参加の意欲も変わってくるに違いない。もちろん、議員になったら1年間は会社員の場合は休職ということにすればよい。多分、議員としてのキャリアはその後の人生のハンディになることはないと思われる。むしろ、その人の大きなキャリアになるに違いない。

 格差社会ということが言われているが、二世議員の話が問題になるように、議員になれる人は、限られている。もちろん、すべての議員がそうであるわけではないが、まるで、歌舞伎の役者のように政治家は育てられている。格差の是正のためにも、また、国民がすべて平等であるためにも、誰でもが、抽選で議員になれるようになり、参議院は、衆議院の監視役という役目をもっと徹底すれば、おそらく政治の風通しはもっと変わるに違いないと思う。また、政策論議は、もっと徹底されるろ思われる。そんなことを考えてくれる政治家が現れることを夢見ながら、参議院選挙の開票結果を見ていた。

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